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追放魔術師と銀の聖竜、辺境もふもふ暮らし

第2話 第2話

第2話

第2話

夜が明けたのは、雨の音で目が覚めたからだった。

正確には、額に落ちた冷たい一滴で意識が浮上し、次の一滴が鼻先を打ったところで完全に覚醒した。天井を見上げると、板の隙間から灰色の空が覗いている。屋根の崩れた箇所から雨が侵入し、床のあちこちに小さな水溜まりを作っていた。

ルシアスは身を起こし、外套の埃を払った。昨夜は小屋の隅に外套を敷いて横になっただけだ。寝台などあるはずもない。背中が痛んだが、宮廷の寝台で眠っていた頃より深く眠れた気がするのは、皮肉なものだった。

雨はまだ弱い。だが放置すれば床が腐る。ルシアスは右手を天井に向け、意識を集中した。指先から淡い光の膜が広がり、屋根の隙間を薄く覆っていく。結界魔術——敵の攻撃を防ぐためではなく、雨漏りを止めるために使うことになるとは。宮廷で十年磨いた技術の、記念すべき新たな用途だった。

光の膜が屋根全体を覆い終えると、雨粒が結界の表面で弾かれ、小屋の外へ流れ落ちていった。室内に静けさが戻る。結界の維持に必要な魔力はごく僅かだ。王城の外壁を守っていた頃に比べれば、指先で糸を紡ぐような繊細さで足りる。

ルシアスは水溜まりを避けて入口に立った。外は霧雨だった。森の木々が煙るように霞み、葉の一枚一枚に銀色の雫が宿っている。空気が昨日よりさらに澄んでいた。雨が洗い流したのだろう。土の匂いが濃く、鼻腔の奥まで沁みてくる。

朝餉の前に、まず周囲を確かめておくべきだった。昨夜は暗くなる前に辿り着くのが精一杯で、小屋の中すら満足に見ていない。

霧雨の中を歩き始めた。足元の草が濡れて、靴の革に水が染みてくる。小屋の周囲を一回りすると、この場所がかつて小さな集落だったことがわかった。小屋の他にもう二棟、建物の基礎だけが残っている。石を積んだ竈の跡、朽ちた柵の残骸、苔に覆われた石臼。人がここで暮らし、飯を炊き、畑を耕していた痕跡が、静かに朽ちていた。

魔獣災害の爪痕は、森の中により色濃く残っていた。太い樫の木が根元から薙ぎ倒され、幹には三本の深い溝が刻まれている。大型の魔獣の爪だろう。地面が黒く焼け焦げた一帯もあった。瘴気を帯びた魔獣が暴れると、地表の草木が焼けるように枯れる。ただ、焦土の縁にはすでに新しい下草が芽吹いていた。災害から何年も経っているのだ。

ルシアスは結界師としての感覚を研ぎ澄ませながら歩いた。瘴気の残滓は感じるが、ごく薄い。これほどの爪痕を残した魔獣の群れが去った後なら、もっと深く土壌に染みついていてもおかしくない。何かが瘴気を薄めている。

井戸に戻ったのは、その違和感に引かれてのことだった。

石組みの井戸は、周囲の荒廃とは不釣り合いなほど状態が良かった。苔は生えているが、石の一つも崩れていない。桶と縄が朽ちていたので、ルシアスは結界で薄い器を作り、魔力で水面まで降ろした。引き上げた水を手のひらに受ける。

冷たい。そして透明だった。昨日、沢で汲んだ水も澄んでいたが、これはそれ以上だった。光に翳すと、水の向こうに掌の線がくっきり見えた。口に含むと、味がないのに甘い。舌の上を滑る感触が絹のようで、喉を通った後に胸の奥がわずかに温まる。背筋に微かな震えが走った。魔力が水を通じて身体に染み込んでくる——そんな錯覚を覚えるほど、その温もりは確かだった。

「……これは、ただの地下水じゃないな」

声に出して呟いた。誰に聞かせるでもなく、ただ自分の中の確信を確かめるために。十年間、王都の地脈を感じ続けてきた指先が、この水の中にも同質の——いや、より純度の高い力の流れを感知していた。地下の深いところから、何かが湧き上がっている。

だが今は確かめる術がない。まずは生活の基盤だ。魔術師といえども、腹は減る。

荷物から干し肉と乾パンを取り出した。旅の間の食料の残りで、干し肉はまだ半月は持つ。問題は調理だった。竈の跡を使えば火は焚ける。薪になりそうな枯れ枝は森にいくらでもあった。

火を起こすこと自体は難しくなかった。結界魔術の応用で空気中の魔力を集束させ、枯れ葉に火種を落とす。攻撃魔術師のような華やかな炎は出せないが、竈に小さな火を灯す程度なら十分だった。

干し肉を薄く切り、拾ってきた平たい石の上に並べる。石を火にかけ、肉を焼く。王都にいた頃は食堂で出されるものを食べるだけだった。自分で肉を焼いたのは、魔術学院の野外実習以来かもしれない。あのときも盛大に焦がした記憶がある。

煙が目に染みた。肉の端が黒く縮れ始め、慌てて裏返すと、反対側はまだ生焼けだった。火加減というものがわからない。結界魔術なら温度の微細な制御も得意なはずだが、料理にどう応用すればいいのか見当がつかなかった。

結局、片面が炭のように黒く、もう片面が赤みを残した干し肉が出来上がった。乾パンと井戸水と一緒に口に運ぶ。硬くて、苦くて、中は冷たい。おそらく人生で最も不味い食事だった。

けれど、ルシアスは最後の一切れまで残さず食べた。焦げた肉を噛みしめながら、竈から立ち上る煙と、霧雨に濡れた森の緑を眺めていた。宮廷の食堂で隣席の顔色を窺いながら摂る食事より、この焦げた肉のほうが喉を通った。味は酷かったが、胸のどこかが静かに満ちていく感覚があった。

「……明日はもう少し、うまく焼こう」

独り言が増えた。昨日からもう三度目だ。声を出さないと、自分がここにいることを忘れてしまいそうになる。

午後は小屋の中を片付けた。棚の埃を払い、床板の腐った部分を結界で補強する。壁の隙間には魔力の膜を薄く張った。完全な修繕には木材が要るが、当面はこれで風雨を凌げる。窓枠の蔦は取り除かず、室内側だけ切り揃えた。緑があるほうが、壁の灰色が和らいで見えた。

陽が傾く頃には、雨が止んでいた。雲の切れ間から夕日が差し込み、濡れた森が琥珀色に輝いた。木々の葉から滴が落ちるたびに、小さな光の粒が跳ねる。ルシアスは小屋の入口に腰を下ろし、その光景をぼんやりと眺めた。

明日は畑の跡地を見て回ろう。薬草の種はいくつか持ってきてある。この土壌なら、育つかもしれない。井戸水の正体も調べたい。あの水に含まれている力が何なのか、結界師としての勘が気にかかっている。

やることは山ほどあった。だが不思議と焦りはなかった。期限も、報告書も、上官の評価もない。自分のために、自分の手で、一つずつ積み上げていけばいい。その実感が、じわりと温かかった。

夜が来た。

昨夜は疲労で泥のように眠ったが、今夜は違った。竈の残り火が小屋の中をほのかに照らし、結界を張った屋根は雨粒の音を柔らかく弾いている。外套を丸めた枕に頭を乗せ、目を閉じた。

森の夜は静かだった。虫の声が遠く近く、風が梢を撫でる音が不規則に混じる。その静けさの中に、ルシアスの耳が微かな違和感を拾った。

音ではない。気配だった。

結界師の感覚が、小屋の裏手——洞穴のある方角から、かすかな魔力の揺らぎを捉えていた。肌の表面を撫でるような、微かで、けれど確かな波動。井戸の水に感じたものと似ているが、もっと生々しい。身を起こし、入口から外を覗く。

夜の闇の中で、洞穴の入口がぼんやりと明るかった。昨夜、一瞬だけ見えた気がした光。あれは見間違いではなかったのだ。洞穴の奥から、淡い——月光を溶かしたような銀白の光が、細く漏れている。

脈打つように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。まるで、何かが呼吸をしているように。

ルシアスは入口の柱に手をかけたまま、しばらくその光を見つめていた。害意は感じない。瘴気でもない。それだけは、十年の経験が保証していた。光が強まるたびに、指先が僅かに痺れた。結界魔術に長く触れてきた身体が、同質の力に共鳴しているのだと、頭の冷静な部分が告げている。

だが今夜は行かない。暗闇の中で未知のものに近づくほど、愚かではないつもりだった。

明日、陽が昇ったら——確かめに行こう。

光は変わらず、静かに脈打っていた。

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