第1話
第1話
「十年だ」
ルシアスは机の上に羊皮紙の束を置いた。角が擦り切れ、古いものは羊皮紙の端が茶色く変色している。十年分の結界維持記録。王城の外壁から地下水路まで、彼が毎日欠かさず巡回し、補修し、浄化してきた記録のすべてだった。一枚一枚に日付と座標が記され、異常検知の際には魔力残滓の濃度まで克明に記してある。インクの色が途中で変わっているのは、五年目に支給品が打ち切られ、自費で買い始めたからだった。
新任の宮廷長グラヴィスは、その束に目もくれなかった。
執務室の窓から午後の陽が差し込んでいる。磨き上げられた黒檀の机、壁を飾る歴代宮廷長の肖像画、天井まで届く書架。この部屋に呼ばれるのは二度目だった。一度目は十年前、宮廷魔術師として任命されたとき。そして今日。
あのとき、この机の向こうに座っていたのは前任のゴルドー老だった。白髪を束ねた老人は、ルシアスの任命書に署名した後、万年筆を置いてこう言った。「結界師は報われんぞ」と。その意味を、ルシアスは今になってようやく骨の髄まで理解していた。
「成果が見えないんだよ、ルシアス君」
グラヴィスは椅子の背もたれに体を預けたまま言った。就任してまだ三月。前任者が病で退いた後、王族の縁故で据えられた男だ。魔術の素養はない。指先に魔力の残滓すら感じたことのない人間が、宮廷魔術師団の長を名乗っている。その太い指が机を叩くたびに、爪の先に嵌めた宝石の指輪がカチカチと安っぽい音を立てた。
「結界が破られたことは一度もありません」
「それは結界が必要なかった、ということではないのかね」
ルシアスは口を閉じた。反論は喉まで出かかっていた。三年前の魔獣の大量発生、五年前の瘴気嵐、七年前の地下水脈の汚染。そのどれもが、彼の結界と浄化魔術がなければ王都に甚大な被害をもたらしていた。だが、守りの魔術とはそういうものだ。うまくいけばいくほど、何も起きなかったように見える。
三年前の魔獣発生のとき、ルシアスは三昼夜眠らなかった。東壁の結界が軋む音を聞きながら、自分の血を触媒にして補強術式を重ねた。指先の感覚がなくなり、視界が白く霞んでもやめなかった。翌朝、東壁の向こうで百を超える魔獣の死骸が転がっていたが、報告書に載ったのは「異常なし」の四文字だけだった。
「攻撃魔術科のヴェルナー君は先月、北方の魔獣の群れを単独で殲滅した。あれこそ宮廷魔術師の仕事だろう」
羊皮紙の束が、午後の光の中で静かに埃を浮かべていた。
ルシアスは記録を机から下ろし、脇に抱えた。グラヴィスの目には、それが何の意味も持たない紙束にしか映っていないことはわかっていた。十年分の夜を綴じた束が、今この男の前ではただの古紙と同じ重さしかない。
「追放、ということですか」
「体のいい言い方をすれば、辺境への転任だ。受理しなければ除籍になる。退職金も出ない」
グラヴィスの声には、残酷さすらなかった。ただ事務的で、来週の予算会議の議題を読み上げるのと同じ調子だった。それがかえって、ルシアスの胸に冷たい杭を打ち込んだ。自分はこの男にとって、予算表の一行に過ぎないのだ。
選択肢は最初からなかった。
宿舎に戻ると、荷物は驚くほど少なかった。替えの外套が二着、魔術書が数冊、薬草の調合道具一式、それから母の形見の銀の指輪。十年暮らした部屋なのに、まるで最初からここに根を下ろすつもりがなかったかのようだった。
窓辺に置いていた小さな鉢植えだけが、唯一この部屋に生活の痕跡を残していた。名前も知らない野草を、巡回中に見つけて植えたものだ。白い花が三つ、律儀に咲いている。持っていくわけにもいかず、ルシアスは窓を少し開けておいた。雨が入れば、しばらくは枯れないだろう。
同僚たちは誰も見送りに来なかった。目を合わせれば自分にも火の粉が降りかかる。宮廷とはそういう場所だと、ルシアスも知っていた。恨みはなかった。ただ、十年という時間の軽さが、胸の底にしこりのように残った。
辺境行きの馬車は、商人向けの乗合だった。王都の南門を出ると、石畳が土の道に変わる。車輪が石畳から土に移る瞬間、がたりと車体が揺れた。その振動を背中に受けたとき、ああ、本当に出てきたのだと実感した。街道沿いの麦畑が黄金色に揺れ、やがてそれも疎らになり、針葉樹の森が道の両側に迫ってきた。
馬車には他に乗客が三人いた。毛皮商の老人、薬売りの女、それから巡礼帰りらしい青年。誰もルシアスに話しかけなかった。宮廷魔術師の外套はすでに脱いでいたし、彼の顔を知る者はこの街道にはいない。それが、不思議と心地よかった。
三日目の朝、馬車が峠を越えた。眼下に深い緑の森が広がり、その向こうに青い山脈が霞んでいた。空気が変わったことに気づいた。王都の乾いた石の匂いではなく、土と苔と、どこか甘い樹液の香り。ルシアスは幌の隙間から顔を出し、しばらくその匂いを吸い込んでいた。肺の奥まで満たされるような感覚に、思わず目を閉じた。十年間、自分がどれほど浅い呼吸で生きていたか、深く吸い込んでみて初めてわかった。
五日目に薬売りの女が降り、六日目に毛皮商が降りた。巡礼の青年は四日目の宿場で別の馬車に乗り換えていた。七日目の昼過ぎ、御者が手綱を引いて馬車を止めたとき、ルシアスは一人だった。
「旦那、ここから先は道がねえ。あの獣道を北に半刻も行きゃ、廃村が見えてくるはずだ」
御者が指差した先に、草に埋もれかけた細い道があった。
「ありがとう」
「……正気かい。魔獣災害で人が逃げた土地だぜ」
御者の日焼けした顔に、同情とも呆れともつかない色が浮かんでいた。言外に「引き返すなら今だ」と言っている。ルシアスは小さく首を振った。
ルシアスは荷物を肩に担ぎ、馬車を降りた。御者は首を振りながら馬車を回し、来た道を戻っていった。車輪の音が遠ざかり、やがて森の静けさだけが残る。
風が梢を揺らしていた。鳥の声が近い。足元の草を踏むと、柔らかい土の感触が靴底を通して伝わってきた。
獣道は思ったよりも歩きやすかった。枝を払い、苔むした岩を越え、小さな沢を渡る。沢の水に手を浸すと、指先が痺れるほど冷たかった。掬って口に含むと、鉄気のない澄んだ甘さが舌に広がる。王都の井戸水とは別物だった。木漏れ日が地面にまだら模様を作り、どこかで水の流れる音がしていた。
半刻ほど歩くと、木々の間に人工物が見えた。
朽ちかけた小屋だった。屋根の一部が崩れ、壁板は湿気で反り返っている。周囲には雑草が腰の高さまで伸び、かつて畑だったらしい区画は野草に覆い尽くされていた。小屋の横に石組みの井戸があり、その向こうに暗い洞穴の入口がぽっかりと口を開けている。
魔獣災害の痕跡は、あちこちに見て取れた。木の幹に残る深い爪痕、焦げた地面、倒壊した柵。けれど、それらはすべて古いものだった。今この場所に危険な気配はない。むしろ——ルシアスは不思議に思った。森の空気が、異様なほど澄んでいる。
結界師としての感覚が、ルシアスの肌を微かにざわつかせた。この土地には、何かがある。害意ではない。もっと根源的な——大地そのものの力のようなものが、地下深くから静かに脈打っている。宮廷の結界維持に使っていた王都の地脈とは比較にならない密度だった。
荷物を小屋の前に下ろした。壁に手を触れると、木の温もりがあった。宮廷の石壁はいつも冷たかった。夏でも、冬でも。
ルシアスは小屋の入口に立ち、薄暗い室内を見渡した。埃が積もった板の床、傾いた棚、窓枠に絡まった蔦。ここが自分の新しい住処になる。
深く息を吸った。湿った土と、草と、どこか遠くの花の匂い。
追放されたのだ。十年を費やした場所から、何の感謝もなく放り出されたのだ。そのことを、ルシアスはもう一度自分に言い聞かせた。怒りが湧くべきだった。悔しさに拳を握るべきだった。
けれど、胸の中にあったのは——軽さだった。
宮廷の廊下を歩くたびに感じていた、あの見えない重石。誰かの顔色を窺い、成果を数字で示し、存在意義を証明し続けなければならなかった息苦しさ。それが、今、ない。
ルシアスは朽ちた柱に背を預け、空を見上げた。木々の間から覗く夕空が、淡い橙色に染まり始めている。
ここには誰もいない。誰も彼を評価しない。誰も彼に期待しない。
それがこんなにも穏やかだということを、ルシアスは宮廷にいた十年間、知らなかった。
遠くで梟が鳴いた。森が夜の色に沈んでいく。小屋の裏手の洞穴の奥で、何かが微かに——本当に微かに、光ったような気がした。