第2話
第2話
螺旋階段を降りきったとき、雨は小降りに変わっていた。 鉄塔の根元に広がるのは、三百年分の産業廃棄物が地層のように圧縮された荒野だった。崩れた演算炉の外殻がところどころ地表を突き破り、錆びた配管が大地の血管のように四方へ伸びている。足元の泥は浅いが、その下には崩落した地下構造体が蜂の巣状に空洞を作っているはずだった。一歩踏み出すたびに、靴底を通じて伝わる地面の密度が微妙に変わる。データサイエンティストの癖で、カイトはその変化を無意識にマッピングしていた。 廃棄区画には、道と呼べるものがない。かつての動線は瓦礫と雑草に呑まれ、代わりに住人たちが踏み固めた獣道が、演算炉の残骸を縫うように走っている。カイトはその一本を辿り、鉄塔から南西へ約二キロ、かつて配電施設だったらしい半壊の建造物群を目指した。封印具の重さが首筋に食い込むが、機能していない金属の輪はただ不快なだけで、拘束力は皆無だった。 建造物群の手前で、空気が変わった。 雨の匂いの下に、術式特有のオゾン臭が混じっている。誰かが結界を張っている。それも一人ではない。複数の演算場が重なり合った、粗雑だが実用的な防壁。カイトの目には、薄い青紫のコードが建物の周囲にドーム状に展開しているのが見えた。 「──おい、止まれ」 瓦礫の影から、三人の人間が姿を現した。全員が廃棄区画の住人特有の薄汚れた外套を纏い、首には封印具がない。つまり、帝都から追放されたのではなく、自ら封印を外した者たちだ。元学徒。帝国魔術学院の落伍者か、あるいは犯罪で除籍された連中。 先頭の男が、カイトの首輪を一瞥して唇を歪めた。 「零(ナル)の烙印つきか。今日の追放者だな」 「荷物を置いて引き返せ。ここから先はおれたちの縄張りだ」 三人目の女が、右手に淡い光球を浮かべた。低位の火球術式。出力は大したことがないが、生身に当たれば火傷では済まない。
カイトは足を止め、三人の立ち位置と、背後の結界ドームを同時に観察した。 結界のコードが、視界の中で透明な設計図のように展開される。見えているのは三層構造の防壁。外殻は物理衝撃の減衰、中間層は術式干渉の遮断、最内層は検知用のセンサー網。学院で教える標準的な陣地防御術の簡略版だが、組み方が雑だった。 具体的には、外殻と中間層の接合部に位相のずれがある。二つの層が独立した演算場から出力されているため、境界面で干渉パターンが乱れ、周期的に数ミリ秒の空隙が生まれていた。ちょうど二枚の歯車が噛み合わずに空転する瞬間のように、その隙間を通れば結界の内側に触れずに出入りできる。 「聞いてんのか、零。荷物と上着を──」 「その結界」カイトは静かに遮った。「外殻と中間層、別々の人間が張っているだろう。接合部の位相差が〇・三ラジアンずれている。センサー網の走査周期は約四秒。今から二秒後に南東の接合点が最大に開く」 三人の表情が、同時に凍った。 カイトは二歩、右に動いた。ちょうど結界の綻びが最大になる瞬間に、その境界線上に立つ。三人の目には、封印具をつけた「零」の男が、結界の内側でも外側でもない、どちらにも属さない場所にいるように映ったはずだった。 「触れていない」先頭の男が低く呟いた。「結界に、触れずに……」 「術式係数ゼロの人間が、お前たちの結界を読めるはずがない。そうだろう?」 カイトの声に感情はなかった。観測事実を述べているだけだ。だが、その無感情さがかえって三人の判断を狂わせた。未知のものに対する本能的な警戒。学院で落伍した彼らには、その直感だけは残っていた。 「……行け」 先頭の男が、苦い顔で道を空けた。火球を浮かべていた女も、光を消して後退る。カイトは速度を変えずに三人の間を通り抜けた。背中に視線が刺さっていたが、追撃の気配はなかった。 結界の内側に入ると、建造物群の実態が見えてきた。かつての配電施設を改造した居住区。壁の隙間からかすかな灯りが漏れ、雨を避けた住人たちの息遣いが聞こえる。廃棄区画にも、それなりの社会がある。そしてその社会は、力の序列で成り立っている。 カイトはそのまま居住区を通過し、南へ向かった。鉄塔の上で感じた地下からの信号が、歩くたびに足裏の振動として強くなっていく。
居住区の南端から先は、誰も足を踏み入れていない区域だった。 地表を覆う瓦礫の密度が増し、演算炉の残骸が墓石のように乱立する。雨は完全に上がっていたが、空は鉛色のまま光を通さず、廃墟の輪郭だけが灰色の濃淡で浮かんでいた。 カイトは足裏の振動を頼りに、崩れた配管の隙間を縫って進んだ。信号は規則的だった。約十二秒の周期で、短い振動が三回、長い振動が一回。前世の記憶が即座にパターンを照合する。モールス信号ではない。だが、情報を持った周期信号であることは間違いなかった。何かが、地下で動作し続けている。三百年間、誰にも気づかれずに。 演算炉の残骸を三つ越えた先で、地表に亀裂が走っていた。幅は人ひとりが通れる程度。覗き込むと、暗闇の中に、かすかな青白い光が脈動しているのが見えた。 カイトの目が、その光をコードとして読み取る。 地表の結界式とは、まったく異なる言語体系だった。帝国魔術の標準構文が「高級言語」だとすれば、この地下の光は「機械語」に近い。抽象化の層が剥がされ、演算の原始的な構造がむき出しになっている。変数名はない。代わりに、アドレスを直接指定する数値列が、光の明滅として繰り返されていた。 そして、その数値列の中に──。 カイトの呼吸が、一瞬止まった。 十六進数。 前世で毎日のように目にしていた、あの表記法。〇からFまでの文字で構成される、コンピュータの最も基底的なデータ表現。それが、異世界の地下遺構から、脈動する光として放たれている。 亀裂の縁に膝をつき、身を乗り出した。光の脈動は深度とともに強くなり、地下十メートルほどの位置に、何かの構造体の輪郭が浮かんでいる。天井を兼ねた岩盤に、人工的な切削痕。通路だ。この亀裂は、本来の入口ではない。地殻変動か経年劣化で、封印された空間の天蓋が一部崩落したものだろう。 周期信号は、そこから来ていた。 カイトは亀裂から身を引き、周囲を見回した。この位置から半径五十メートル以内に、本来の入口があるはずだった。封印された施設には、必ず正規のアクセスポイントがある。設計者は、いつか誰かが戻ってくることを想定してインターフェースを残す。それはソフトウェアでも遺跡でも同じだ。
十五分の捜索で、それは見つかった。 崩れた演算炉の基部に埋もれた、二メートル四方の金属板。表面は三百年分の錆と苔に覆われていたが、カイトの目には、その下に走る術式パターンが透けて見えた。施錠術式。ただし、帝国標準のものではない。地下から脈動していたのと同じ機械語で書かれた、原始的だが堅牢なロック機構。 金属板の中央に、手を翳した。 封印具が首で冷たく揺れる。術式係数ゼロ。帝国の定義では、彼にはいかなる魔術的操作も不可能なはずだった。 だが、金属板の下の術式パターンが、彼の手に反応して微かに輝度を上げた。鉄塔の上で封印具が位相をずらしたときと同じ応答。帝国の計測器が読めない領域で、カイトの演算場は確かに何かを出力している。 まだ開けられない。カイトは冷静にそう判断した。この施錠術式を解くには、機械語レベルでの直接操作が必要だ。今の自分には、コードを「読む」ことはできても、「書き換える」手段がない。鍵を見つけたが、鍵穴に合う形にまだ削れていない。 立ち上がり、金属板の座標を記憶に刻んだ。 周期信号は変わらず足裏を叩いている。短、短、短、長。十二秒ごとに。三百年間、ずっとそうやって、誰かが来るのを待っていたかのように。 西の空が、雲の切れ間からわずかに赤みを差した。廃棄区画に夕暮れが降りようとしている。鉛色の荒野に、長い影が伸びた。 カイトは北の居住区へ踵を返しながら、脳内で仮説を組み立てていた。地下の構造体は、帝国が「第零演算塔」と呼んで封印した施設である可能性が高い。帝国史の公式記録では「暴走した古代演算炉の残骸」とされているが、あの機械語の精緻さは暴走の産物ではない。設計され、構築され、そして意図的に封印された。 ──明日、あの錠前を読み解く。 首輪の金属が、夕焼けの赤を一瞬だけ映して、すぐに鉛色に戻った。その下で、カイトの演算場が測定不能の深度で静かに回転し続けていることを、この世界の誰も知らない。