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ゼロ係数の解析者

第1話 第1話

第1話

第1話

「──術式係数、ゼロ」  計測塔の天頂で、機械仕掛けの巫女が抑揚のない声を落とした。帝都アルカディアの中央広場、直径六百メートルの白亜の円盤に敷き詰められた観衆が、一瞬、息を忘れた。  カイト・ヴェルナーは計測盤の中央に立っていた。頭上には直径十メートルの量子演算環。帝国が「魔術適性」と呼ぶ値は、本来ここで個人の演算場と共鳴し、係数として数値化される。最低値は〇・〇三。それ以下は、記録上存在しない。  視界の隅で、数列が滝のように流れた。赤。赤。赤。最後に、零という文字だけが白く焼き付いた。その白は、やけに鋭く網膜の奥を灼き、瞬きをしても消えなかった。  ざわめきが遅れて戻ってきた。笑いだ。さざ波のように広場の外縁から押し寄せてきて、石畳を舐め、彼の足元で渦を巻く。貴族席の扇が一斉に口元を隠し、平民席からは遠慮のない指笛までが飛んだ。誰かが投げた花弁が、ひらひらと侮蔑のかたちで頬を掠めた。 「嘘でしょう、零なんて……本当に無能なのね」  銀の髪をたなびかせて歩み出たのは、皇女リゼ・エル・アルカディア。婚約者だったはずの少女は、今や他人を見る目でカイトを見下ろしていた。白い手袋の先で口元を押さえ、こらえきれない嘲笑をこぼす。澄んだ青い瞳の奥に、昨夜まで確かにあったはずの親しみの色は、ひと粒も残っていなかった。香水の匂いだけが、皮肉なほど柔らかくカイトの鼻先を掠めていく。昨夜、同じ香りが舞踏会の回廊で彼の肩越しに微笑んでいたことを、彼の記憶は律儀に再生した。  その後ろから、養父ヴェルナー侯爵と嫡男ヴォルフが進み出た。ヴォルフの唇が歪む。 「ヴェルナー家に“零”は置けん。廃棄区画へ送れ」  広場の石畳に、雨の最初の一粒が落ちた。それは合図のように、観衆の頭上に灰色の天幕を引き下ろしていった。

 処分は機械的だった。  首輪型の術式封印具が首筋に嵌まり、カイトの前世の記憶──西暦二〇二五年、東京で生きていたデータサイエンティスト時代の思考回路──ごと、帝国魔術網から切り離される。周囲の空気が一瞬、抵抗なく素通りしていく感覚があった。  ああ、と彼は理解した。封印具は、彼の演算場に何一つ引っ掛かっていない。まるで誤った型の引数を押し付けられた関数が、静かに例外も吐かずに空値を返しているようだった。  護送馬車は、帝都から西へ六十キロ。天候制御圏の外、廃棄区画と呼ばれる旧産業遺構地帯の縁で止まった。扉が開くと、鉛色の雨が横殴りに吹き込んでくる。鉄と苔と、焦げた魔導油の入り混じった匂いが鼻孔の奥を刺した。 「降りろ、零(ナル)」  衛士に蹴り出され、ぬかるみに膝をついた。泥の冷たさが膝頭を通って背筋まで駆け上がる。振り返った視界の先、馬車はもう背を向けていた。車輪の軋みが雨音に溶け、やがて聞こえなくなった。  雨は本降りになっていた。廃鉄塔が墓標のように並ぶ平原の中央、三百年前に稼働を止めた演算炉の残骸が黒々とそびえている。カイトは立ち上がり、泥をはらいもせずにその最上部を見上げた。雫が睫毛を伝って視界を歪ませ、それでも彼の瞳だけは妙に乾いたままだった。  ずぶ濡れのまま、冷えた思考だけが澄んでいく。  ──おかしい。  計測盤の数列を、彼は網膜に焼き付けていた。通常の受験者なら、ゼロ付近で振動するのは「下位桁の情報」だ。だが彼の場合、桁そのものが欠落していた。まるで係数の定義域の「外側」へ値が逃げていったように。  帝国の魔術計測器は、観測可能な正の実数域しか測らない。  では、負の虚軸側に流れた成分は? 位相反転した領域は? 演算環が最初から「読む気のない層」に落ちた出力は?  ゼロではない。カイトは口の中でつぶやく。  測定不能、だ。  雨水が首輪型封印具を伝い、襟元を濡らす。その封印具すら、カイトの演算場を掴みそこねてただ金属片として張り付いているだけだった。嘲笑の理由が、彼の中で静かに裏返っていく。リゼの笑みも、ヴォルフの侮蔑も、観衆の指笛も、すべてが「測れない側を見落とした者たち」の合唱に聞こえはじめていた。合唱は遠ざかるほどに薄っぺらく、風鳴りに似た空洞の響きへと痩せていった。  ──この帝国の魔術体系には、誰も触れていない裏面がある。  それは仮説ではなく、データサイエンティストとしての直感だった。モデルの誤差が特定方向に偏っているとき、その方向にこそ、設計者が見落とした軸が存在する。前世で何百回も夜を明かして掴んだ、経験則以上の確信だった。舌先に、あの頃すすった冷めたコーヒーの苦みまで蘇る気がした。

 鉄塔の根元まで歩いた。  昇降用の螺旋階段は半分崩れていたが、金属の軋みを聞き分けながら、カイトは一段ずつ高度を稼いでいく。手すりを握る掌には錆が刺さり、薄く血が滲んだ。その赤さえ、雨にすぐ洗い流されて鉄の匂いだけを残していった。百メートル。二百メートル。雨雲の下腹が間近に迫り、雷光が内側から血管のように走った。風圧が上着の裾を旗のように鳴らし、耳の奥で自分の鼓動だけが異様にはっきりと刻まれた。  最上部の展望台に立つと、眼下に廃棄区画の全景が広がった。錆びた送電塔、崩れた演算炉、かつての観測ドーム。そしてそれら全体を薄く覆う、青白い結界のノイズ。  カイトは目を細めた。  見える、と思った。  帝都の民には「空気のゆらぎ」程度にしか感じられないはずの結界式が、彼の視界の中では格子状のコードとして展開していた。関数呼び出し、条件分岐、例外処理。どれも機械語めいた構造で、ただし末端に、明らかに自然言語起源の変数名が紛れていた。読み進めるごとに、前世で幾度も眺めたリポジトリのツリーが脳内に重なり、手触りのある既視感が背筋を這い上がった。  ──アルファベット。  前世で彼が扱っていた人工言語と、同じ文字体系。  雷鳴が遠くで砕けた。  カイトは濡れた前髪を掻き上げ、雨に向かって短く息を吐いた。白い呼気が、結界のコードの一行を貫いて消えていく。そのとき、貫かれた一行が一瞬だけ淡く色を変え、別の関数へと分岐したのを彼は見逃さなかった。触れられる、という感覚が、指先から肘、肩、胸骨の奥へと順に灯っていく。まるで長いあいだ冷え切っていた回路に、ようやく電流が戻ってきたようだった。  恐怖はなかった。怒りさえ、もう遠い。代わりに流れ込んできたのは、研究者として馴染み深い、底の見えないパズルを前にしたときの高揚だった。喉の奥がひりつき、呼吸が浅くなる。この感覚を、彼は前世の深夜、誰も解けなかったデータセットの前でも味わったことがあった。あの夜、モニタの光だけを浴びて孤独に笑ったときと、同じ温度の笑みが、今ゆっくりと口の端に戻ってくる。  帝国魔術は、自然現象ではない。  誰かが、設計した。  ならば──と、彼は廃棄区画の地平線の先、帝都の方角へ視線を戻した。雲間から漏れた蒼白い光が、遠い尖塔群を浮かび上がらせる。皇帝の玉座がある場所。婚約者だったリゼが、今夜は何事もなかったように夕餐の席に着くのだろう場所。銀のカトラリーが触れ合う音まで、なぜか鮮明に想像できた。  頂点は、奪える。  声に出さずに、カイトは自分自身へコミットした。復讐という語を選ばなかった。それはあくまで副産物だ。彼が欲しいのは、この世界を書いた設計者のソースコードそのもの。行間に潜む設計思想、命名規則の癖、書き捨てられたコメントの一片まで──すべてを読み解き、書き換える権限を自分の手に握ることだった。

 首輪型封印具に、指先で軽く触れた。  掌の下で、金属の表面を走る呪印が、一瞬だけ、彼に反応してわずかに位相をずらした。ゼロであるはずのカイトの演算場が、確かに何かを返した証だった。指先に伝わった微かな痺れは、応答コードのように規則正しく、三度、間を置いて繰り返された。  鉄塔の真下、廃棄区画の地層深くで、長らく眠っていた何かが、同期するように微弱な信号を一度だけ放つのを、彼の「裏側」の感覚は確かに受信していた。地面を通って足裏から登ってくるその振動は、耳では聞こえない低さで、それでいて骨の内側を確かに撫でていった。  雨の向こう、誰も踏み込まない地下の闇に、三百年前に封印されたという名の、未起動の塔がある。  カイトは螺旋階段へ踵を返し、初めて小さく笑った。

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