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処刑料理人の万能調理復讐譚

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、まだ薄暗いうちに目を覚ました。 屋台の板壁に背を預けて眠ったせいで、首が軋む。冷えた石畳の冷気が尻から背骨を伝い、指先まで硬くなっていた。立ち上がると膝が鳴り、少年の身体の脆さを改めて思い知る。だが頭は澄んでいた。やるべきことは、昨夜のうちに全て決めてある。 まず、竈だ。 錆びた鉄の竈を覗き込む。前の持ち主が残した炭の欠片を掻き出し、内壁の煤を手で拭う。ひび割れはあるが、致命的なものではない。要は火が焚ければいい。煤で真っ黒になった掌を袖で拭い、近くの路地裏から乾いた薪と枯れ枝を集めた。水は、市場の端にある共同の井戸から汲める。桶が一つ、屋台の裏に転がっていたのは幸運だった。底に小さな穴が空いていたが、練った粘土で塞げば使える。 次に、食材。 銀貨は四枚。うち一枚は屋台の使用権に充てる。行商人の名——グラフという名だった——を市場の管理人に告げると、老人は眉を上げたが、銀貨を受け取って黙って頷いた。残り三枚。市場の正規の食材は高い。肉の塊ひとつで銀貨が飛ぶ。だが、俺が欲しいのはそういうものじゃない。 市場の裏手。廃棄場。 石壁の陰に、売れ残りや傷物が雑に積まれている。萎びた根菜、変色した葉野菜、骨ばかりの鶏の残骸、ひび割れた穀物袋から零れた屑。蠅がたかり、甘ったるい腐臭が漂う一角を、誰もが足早に通り過ぎていく。 俺はその前にしゃがみ込んだ。 「──【万能調理】」 視界に、淡い光の文字列が流れる。一つ一つの素材に、最適解が重なっていく。萎びた人参は表皮を削げば芯に甘味が凝縮されている。変色した葉野菜は塩揉みして灰を一振り、苦味が消えて青い香りだけが残る。鶏の骨は砕いて長時間煮出せば、宮廷の白濁スープにも劣らない出汁が引ける。屑穀物は焙煎して粗く挽けば、とろみと香ばしさを加える繋ぎになる。 廃棄物の山が、俺には宝の山に見えた。 銅貨数枚で屑を貰い受け、屋台へ戻る。両手いっぱいの「ゴミ」を抱えた少年を、通りすがりの女が怪訝な顔で見ていた。構わない。

竈に火を入れた。 森で覚えた手順だ。枯葉と木の粉を芯に、弓を回す。二度目の人生で二度目の火起こし。今度は少しだけ要領がよかった。小さな炎が薪に移り、竈の中で橙色の光が踊り始めると、冷えた鉄が徐々に温まっていくのが掌越しに伝わる。錆びた竈が、息を吹き返していく。 鶏の骨を割り、桶の水に放り込み、竈にかける。灰昇華を応用して灰をひとつまみ。不純物を吸着させ、澄んだ出汁だけを残す。人参の芯を薄く刻み、葉野菜を塩で揉んで絞る。焙煎した屑穀物を石で挽いて振り入れると、鍋の中でとろみが生まれた。 火加減を絞る。ここからは弱火で、じっくりと。 湯気が立ち始めた。 最初は淡く、やがて濃く。竈の上で白い息のように揺れていた蒸気が、風に乗って路地へ流れ出す。俺は何も言わない。看板も出さない。声も張らない。この匂いが、俺の看板だ。 鶏骨の旨味、人参の凝縮された甘さ、葉野菜の清涼な香り、穀物の香ばしさ。それぞれが主張しすぎず、かといって埋もれず、一つの和声になって鼻腔を満たす。前世の宮廷厨房で、数十種の食材と銀の調理器具を使って作り上げていたスープと比べても——いや、比べるのも馬鹿らしい。これは素材の純度が違う。廃棄寸前まで追い詰められた食材は、余計な水分が抜け、味が凝縮されている。そこに灰昇華の精製が加われば、雑味のない、本質だけの味になる。 待つ。ただ、待つ。 昼近くになっても、客は来なかった。当然だ。看板もない、名も知られていない、子供が一人で立っている薄汚い屋台。市場の中心には香辛料の効いた串焼きや安い麦酒を出す店がいくらでもある。わざわざ外れの路地まで足を運ぶ理由がない。 だが、匂いは風に逆らえない。

最初に来たのは、一人の荷運び人夫だった。 日に焼けた肌、太い首、不機嫌そうに歪んだ口元。背中に穀物袋を三つ積んだまま、鼻を鳴らして路地に入ってきた。小さな目が屋台と俺を交互に見る。 「……ガキが店番か。親はどうした」 「一杯、銅貨一枚です」 問いには答えず、椀にスープを注いだ。木の椀だ。市場の隅で一枚の銅貨と引き換えに手に入れた、欠けだらけの代物。だが中身は違う。澄んだ琥珀色の液体に、細かく刻んだ人参と葉野菜が彩りを添え、表面に薄く浮いた油の膜が光を受けて虹色にきらめいている。 男は鼻で笑った。 「こんな路地裏の屑屋台で——」 言いかけて、匂いを嗅いだ。 太い首が、わずかに傾ぐ。不機嫌に歪んでいた口元が、ほんの少し緩んだ。鼻の穴が開き、目が泳ぐ。無意識だろう、舌先が乾いた唇を舐めた。 「……まあ、銅貨一枚なら」 椀を受け取り、立ったまま一口すすった。 男の動きが、止まった。 背中の穀物袋がずり落ちた。どさり、と石畳に当たる鈍い音がしたが、男は振り向きもしなかった。両手で椀を包み込むように持ち直し、二口目。三口目。喉が大きく動く。椀の縁に添えた唇が微かに震えているのが見えた。四口目は、もう口をつけたまま離さなかった。最後の一滴まで啜り上げると、男は空の椀を凝視した。底にこびりついた僅かな澱すら、指で拭って舐めた。 そして、膝から崩れた。 石畳の上に両膝をつき、空の椀を胸の前に掲げるようにして、男は俺を見上げた。日焼けした頬を、一筋の涙が伝っていた。 「——坊主」 かすれた声だった。 「もう一杯。いや、三杯くれ。銅貨は……銅貨は全部払う」 懐を探り、震える手で銅貨を数えもせずに台の上にばらまいた。銅貨が石の台で跳ね、からからと乾いた音を立てて転がる。 俺は黙って、二杯目を注いだ。

男が去った後、屋台の前に匂いだけが残った。 夕方までに、もう二人来た。一人は路地の古着屋の婆さん、もう一人は城壁の修繕工。どちらも同じだった。最初は怪訝な顔で、一口で目を見開き、黙って銅貨を置いて去る。そして振り返る。必ず、振り返る。背中を向けてから三歩目で足が止まり、もう一度だけ屋台を見る。その目に浮かんでいるのは、驚きでも感謝でもない。 困惑だ。 こんな味が、こんな場所で、なぜ。 その問いに答える気はない。答えれば、注目を集める。今はまだ早い。

日が落ち、市場から人が引くと、俺は竈の火を落とし、残ったスープを自分の椀に注いだ。冷め始めた液体を一口含む。悪くない。だが、まだ足りない。前世の全盛期には届いていない。少年の味覚は鋭いが、経験値が追いつかない。舌が覚えている味の引き出しが、まだ少なすぎる。 明日はもう少し火加減を詰めよう。灰昇華の配分も、0.5割ほど減らしたほうがいい。穀物の焙煎をあと半刻延ばせば、香ばしさの層がもう一段深くなる。 ——一皿ずつ。一人ずつ。 自分に言い聞かせた言葉を反芻する。今日は三人。明日は何人になるか。 板壁に背を預け、目を閉じた。瞼の裏に、荷運び人夫の涙が浮かぶ。あの涙は本物だった。前世の宮廷で、貴族たちが社交辞令で並べた称賛とは違う。腹の底から湧き出た、偽りようのない身体の反応。あれこそが、料理の力だ。 暗い路地の奥で、野良猫が一声鳴いた。遠くの酒場から、酔っ払いの笑い声が微かに届く。

翌朝。 目を開けると、屋台の前に人が立っていた。一人じゃない。 荷運び人夫がいた。昨日の男だ。その後ろに、五人。いや、七人。さらにその後ろにも人影が見える。寝惚けた目を擦り、数え直す。十二人。まだ陽も昇りきっていない薄明の中、路地の奥まで人が並んでいた。 先頭の荷運び人夫が、俺の視線に気づいて頭を掻いた。 「……悪ぃな坊主。昨日のあれが忘れられなくてよ。つい、仲間に喋っちまった」 後ろの男たちが口々に言う。 「おい、本当にガキ一人の屋台かよ」 「匂いだけでもう腹が鳴ってんだが」 「銅貨一枚って本当か? 嘘だろ」 俺は竈に手を伸ばした。鉄はまだ冷たい。だが昨夜のうちに仕込んでおいた出汁の鍋が、屋台の裏で静かに朝露を纏っている。 火を、入れる。 枯葉に息を吹き込みながら、口の端が持ち上がるのを抑えられなかった。 ——三人が十二人になった。明日は何人だ。来週は。来月は。 この街の胃袋を掴むと決めた。それは始まったばかりだ。だが既に、最初の歯車は回り始めている。あとは加速させるだけでいい。

列の最後尾の向こう、路地の角を曲がったところに、見覚えのない男が立っていた。身なりは整っているが、目立たないよう外套の襟を立てている。市場の人間ではない。あの目つき──品定めをする目だ。前世で嫌というほど見た、宮廷の廊下を歩く連中と同じ種類の目。 男は列を一瞥し、路地の影に消えた。 竈の火が、ぱちりと爆ぜた。

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