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暁の弓は王太子を射抜く

第1話 屋根裏の一弦と、耳の遠い首席

第1話

屋根裏の一弦と、耳の遠い首席

 弓が、弦に触れた瞬間だった。  屋根裏の空気が、すっと一段、暗くなる。私はその暗がりに吸い込まれるように、最初の一音を押し出した。  低い、擦れたラの音。母の古いヴァイオリンは、今夜も少しだけ声を震わせて応えてくれる。木肌は飴色。表板の端に走る古傷。高音域は掠れ、低音は時々呻く。けれど、この楽器でしか鳴らない音が、確かにこの世界のどこかに存在する。  私は、それを七年、探し続けている。

 ロザリー・デュヴァル。十七歳。デュヴァル伯爵家の次女。  社交界では「音楽狂いの悪役令嬢」と呼ばれている。姉のイザベルは華やかな夜会の華で、甘い恋歌を歌って喝采を浴びる。私は舞踏会の隅で、誰とも話さずに壁紙の花と同化している娘だ。  人前で笑うと、頬の筋肉が痛くなる。会話は三往復目で詰まる。気の利いた返しは、三日後の真夜中に屋根裏で思いつく。  それでも、ヴァイオリンの前でだけは、息が楽だった。  弓を弦に当てる瞬間、私の中の言葉は全部、音の粒になる。話せなかった気持ち、飲み込んだ涙、亡き母への未練、姉への複雑な嫉妬と愛情。その全部が、屋根裏の暗がりに、静かに舞い落ちていく。  屋根裏で弾くのには、理由がある。母が亡くなってから、父はヴァイオリンの音を聞くだけで顔を曇らせるようになった。だから私は、家の誰にも届かない屋根裏まで楽器を運び、夜毎、一人で弾くようになった。

 ──その夜、私は水晶歌劇場にいた。  王都セレニタの貴族文化の中心。天井からは水晶の枝葉を模したシャンデリアが垂れ、宮廷楽団の定期演奏会が開かれる度、ドレスと宝石で埋め尽くされる劇場だ。私は月に一度、父の社交の付き添いでここへ連れてこられる。舞台よりも、客席で目を閉じて、音だけを浴びるのが好きだった。  今夜の定期演奏会の主役は、宮廷楽団の若き首席、アルマン・ラヴィエール様。二十四歳で首席の座を射止めた天才だと、プログラムは謳っていた。  第二楽章の、最後の小節。  彼の弓が弦から離れる前の、ほんの一瞬の静寂。私はそこで、息を止めた。──今のは、音を延ばすための間じゃない。音を聞くための間だ。弾き手が、自分の出した音の行方を、必死で耳で追いかけている間だ。  私は、胸の奥が小さく痛んだ。その痛みの正体を、その時の私は、まだ知らなかった。

 演奏が終わり、拍手の波が引いた後。  私は父に「化粧室へ」と断って、楽屋裏の小さな廊下に迷い込んだ。本当は、さっきの静寂の余韻を、もう少しだけ一人で抱きしめていたかった。  廊下の角で、私は一人の青年と鉢合わせた。  細身の黒い燕尾服。茶色の髪を後ろに流した、二十代前半の青年。手に提げた黒いヴァイオリン鞄。私は咄嗟に壁際に退いた。 「──失礼、お嬢さん。ぶつかっていませんね?」  低く、柔らかい声。けれど、その声にはわずかな不自然さがあった。自分の発した声の位置を、自分で確かめるような、少しだけ大きな発音。 「……ええ、大丈夫ですわ」  小さく返した。ところが青年は、その返事を聞き取れなかったらしく、身を屈めて耳を寄せた。 「申し訳ない、もう一度?」 「大丈夫、と申し上げました」  今度は少し、声を張った。彼はようやく頷き、疲れた微笑みを浮かべた。舞台の直後、歓声を浴びて輝いていいはずの人の目の奥に、乾いた砂のような疲労の色があった。  燕尾服。ヴァイオリンの鞄。楽屋裏。  ──アルマン・ラヴィエール様だ。  最近、社交界で密かに囁かれていた噂が、私の頭の中でゆっくりと輪郭を結んだ。『ラヴィエール様、実は難聴を隠して舞台に立っている』。  さっきの聞き返し方、第二楽章の最後の小節の、あの不自然な間。全部が、一本の線で繋がった。

 けれど、私は何も言わなかった。  見知らぬ令嬢に指摘されるのは、きっと彼にとって一番惨い場面だ。音楽を愛する者同士の礼儀として、それだけは、絶対にしてはいけない。  私は深く腰を折った。 「本日の演奏、第二楽章の最後の小節の、間の取り方が、息を呑むほど見事でした。聞けて、幸せでした」  アルマン様の目が、一瞬だけ大きく見開かれた。  それから、瞳の奥の疲れの色が、ほんの少しだけ揺らいだ。 「……第二楽章の、最後の小節の、間の取り方、ですか」 「はい」 「気づいて、くださったのですか」 「はい。他の方は、たぶん、ほとんどお気づきにならなかったと思いますけれど」  声が震えた。あの間は、音楽ファンには聞き取れない。けれど、屋根裏で同じ小節を何千回と自分で弾いた私には、あの静寂の重みが痛いほど分かった。あの静寂の中で、彼は自分の出した音を必死に探していた。  アルマン様は、廊下の壁に手を当てて、小さく息を吐いた。 「……嬉しいです。あの小節だけは、最近、自分でも聞こえ方が不安で。今日の演奏は、自分では、失敗したかもしれないと思っていました」 「失敗などとんでもない。あの静寂の中に、数百の音が眠っていました。──私には、そう聞こえましたわ」  彼は、目を閉じた。長く乾いていた喉に、冷たい水を注がれた人の顔だった。

「お名前を、伺っても?」 「ロザリー・デュヴァルと申します」 「デュヴァル嬢。……不躾な頼みを、させてください」  彼はゆっくりと目を開けた。 「私に、一曲、弾いてくださいませんか。楽器は楽屋のものをお貸しします。人目は、ありません」 「え──」 「私は最近、他人の演奏を聞いても、細部が聞こえないのです。ほとんどの音が、膜の向こうのように遠い。けれど、先ほどあなたが第二楽章の話をしてくださった時、その膜の向こうから、久しぶりに、一つだけ、音が届いた気がしました。だから、あなたの演奏を聞いてみたい」  私は声を失った。  当代随一の首席奏者が、屋根裏弾きの令嬢に、演奏を頼んでいる。断るべき場面だった。恥ずかしい。失礼だ。私の拙い音で、彼の耳を汚すかもしれない。  ──けれど、私の右手は既に、膝の上のヴァイオリン鞄に伸びていた。  自分の楽器を、私は舞踏会の夜には必ず、護身のように持ち歩いていた。誰に弾く予定もないのに、なぜか離したくなかった。母の遺した、古い一挺。

 楽屋の小部屋を借りて、私は弓を構えた。  椅子に座ったアルマン様は、目を閉じて待っていた。その横顔は、終油の秘蹟を待つ信徒のようにも、これから洗礼を受ける少年のようにも見えた。  私は息を吸って、弾き始めた。  曲は即興だった。屋根裏で毎晩探していた、あの低いラの一音から。母がまだこの楽器で遊んでいた頃の、古い子守歌のかけら。それを軸に、今夜のアルマン様の第二楽章の間への、私なりの返答を編んでいった。  上手く弾けたわけではない。指は震え、音程は二度揺らいだ。  けれど、弾き終えた瞬間。  アルマン様の閉じた瞼から、一筋の涙がこぼれるのを、私は見た。

「──ロザリー嬢」  彼は震える声で私の名を呼んだ。 「聞こえた。全部、聞こえました。久しぶりに、音楽というものが、私の耳の奥に、ちゃんと届いた」 「……よかった。本当に、よかった」 「不躾を、承知で申し上げます」  彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 「君の音だけが、俺を救う。──これからも、俺の側で、弾いてくれないか。舞台でも、練習室でも、屋根裏でも、どこでもいい。君の音が聞こえるなら、俺はまだ、音楽家でいられる気がする」  廊下の向こうから、劇場の拍手の残響が、まだ微かに届いていた。  私は弓を握りしめたまま、動けなかった。  屋根裏でたった一人、誰に届くあてもなく弾き続けた七年間が、今夜、たった一人の耳に、確かに届いた。  その一人が、王国一の首席奏者だった。

「アルマン様。……お返事をする前に、一つだけ、伺わせてくださいませ」 「何なりと」 「あなたが難聴を抱えておられることは、宮廷楽団でも、秘密なのでしょう?」  彼は一瞬驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。 「……はい。知っているのは、恩師と、私自身だけです。今日で、三人目ということになります」 「その三人目に、私を、選んでくださったのですね」 「選んだというより、あなたの音が、勝手に私の耳の奥の膜を破ってしまったのです」  私たちは、少しだけ笑い合った。楽屋の小さな窓から、夜の風が入ってきた。葡萄酒のような、夜の匂い。  帰り道の馬車の中で、私はずっとヴァイオリンの鞄を膝に抱えていた。母の楽器の木肌を指先で撫でながら、七年分の屋根裏の夜を、一つ一つ思い出した。  お母様、この楽器は、今夜、初めて誰か一人の耳を救いました。  屋根裏で弾き続けてきたことに、意味があったのかもしれない。意味はなくてもよかったけれど、意味があったのだとしたら、それはなお、よかった。  家に着く頃には、決心は固まっていた。  明日の朝、父に言おう。社交界で「音楽狂いの悪役令嬢」と呼ばれてきた私は、これからもっと、狂ったように弾き続ける。その音を、ただ一人の首席奏者の耳のために、磨き続ける。  それが、今夜私が受け取った運命の、名前だ。

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