第5話
第5話「星紋の棘」
# 第5話「星紋の棘」
---
銀盤を磨く右手が、止まった。
指先に力が入らない。星紋が手首から前腕を覆い、夜ごとに肘へ近づいている。朝になるたび、新しい銀色の筋が肌の上に増えていた。痛みは鈍く脈打つものから、ときおり針で刺すような鋭い一撃に変わっていた。
昨夜の夢は、断片的で、けれど生々しかった。銀盤の中に自分の手が沈み込み、銀色の水の底で母の声が聞こえる夢。何を言っているのかは聞き取れなかった。目覚めると、右手に新しい筋が三本、手首から肘の方角へ走っていた。
「お嬢さま、銀盤のお手入れ、あたしがやりましょうか」
ルルが手を伸ばした。わたくしは首を振った。
「大丈夫ですわ。銀盤は星詠みの手で磨かなければ、読みの精度が落ちるの」
嘘ではない。けれど、本当の理由は別にあった。銀盤を磨けなくなったら、わたくしは星詠みとしての最後の支えを失う。
布で銀面を拭く。右手の甲の星紋が布に擦れるたびに、小さな火花が散るような痛みが走った。それでも手を止めない。止めたら、認めることになる。壊れ始めていることを。銀盤の冷たい感触だけが、わたくしの指先と世界を繋いでいる気がした。
磨き終えた銀面に、わたくしの顔が映った。淡い紫の瞳。いつもと同じ顔。けれど目の下に薄い隈がある。ルルには見えないだろうけれど、銀盤は嘘をつかない。
書庫に移動した。リオンが三歩後ろについてくる。彼の足音は軽いのに確かで、わたくしはいつの間にか、その足音を数えるのが癖になっていた。階段を降りるとき、右手で手すりを掴み損ね、わたくしの体が傾いた。
「——っ」
リオンの手が、わたくしの肘を支えた。素早く、けれど乱暴ではなく。
「足元が滑りやすいですね」
彼はそう言って、何事もなかったようにわたくしの腕を離した。けれど、支えた瞬間、彼の指がわたくしの袖越しに星紋に触れた。触れた箇所だけ、痛みが一瞬引いた。鈍い脈動がすっと消えて、代わりに温もりが浸透する感覚。
気のせいだろうか。わたくしは袖口を引き下ろし、星紋を隠した。けれど、触れた箇所の温もりはしばらく消えなかった。
書庫では祖母が残した星詠みの記録を探していた。星紋の侵食を止める方法。けれど、古い文献は褪色が激しく、読めるものは少なかった。羊皮紙の端を捲るたびに、乾いた埃の匂いが立ち上る。祖母が生きていた頃の空気を吸い込んでいるようで、懐かしくもあり、痛くもあった。分かったのは、星紋は放置すれば全身に広がること。そして、全身を覆った者は例外なく——正気を失うこと。
文献の中に、祖母の筆跡で書かれた注釈があった。『星紋は呪いではない。代償である。何の代償かは、本人にしか分からない』。走り書きのような、けれど力の込もった文字。祖母の正気が残っていた頃の言葉だ。
ルルが昼の茶を運んできた。テーブルにカップを置く手つきがいつもより丁寧だった。カップの取っ手をわたくしの左手側に向けている。右手が痛んでいることに、気づいているのだ。
「お嬢さま」
「なあに」
「右手、お痛みになりません?」
わたくしは、茶碗を左手で持っていた。自分でも気づかぬうちに、右手を庇っていたらしい。
「少し、凝っているだけですわ」
ルルの目が、潤んでいた。嘘だと分かっている目だった。けれどルルは、それ以上追及しなかった。代わりに、小さな声で言った。
「あたし、お嬢さまの右手が大好きです。銀盤を磨くときの、あのきれいな指が」
わたくしは、紅茶の湯気の向こうで、ルルの目を見つめ返した。返す言葉が見つからなかった。湯気が揺れて、ルルの顔の輪郭がぼやける。鼻の奥がつんと痛んだ。
---
午後、薔薇園に出ると、あの黒い髪が待っていた。
セレスティアは噴水の縁に腰掛け、黒い手袋の指先で水面を弄んでいた。指が水に触れるたびに、波紋が広がるのではなく、逆に水面が凍りつくように静止する。わたくしの姿を見ると、金色の瞳を細めた。
「また来ましたのね」
「来たのはあなたよ、小さな星詠み。——星紋、肘まで来たでしょう」
服の上からでは見えないはずだった。けれどセレスティアには見えている。あの金色の瞳は、布を透かして星紋を読むのだ。
「侵食を止める方法があると、前に申しましたわね。提案は変わっていないわ」
「条件も、変わっていませんの?」
「ええ。次の予言を、わたくしの指示通りに行うこと。それだけ」
「どんな予言をお望みですの」
セレスティアが、微笑んだ。唇の形だけの微笑みだった。目は笑っていない。金色の瞳の奥に、古い痛みのようなものが沈んでいた。
「王家に関する予言を、ひとつ。内容はその時になったら伝えるわ。——ああ、心配しないで。嘘の予言をさせるつもりはないのよ。あなたの銀盤に映ったものを、わたくしの望む形で解釈してもらうだけ」
「解釈を歪めることは、嘘と同じですわ」
「そうかしら。予言とは元来、解釈の余地があるものよ。あなたのおばあさまも、そう仰っていたわ」
セレスティアの声が、わたくしの祖母の名を口にするたびに、胸の奥に棘が刺さった。この女性は祖母を知っている。母も知っている。わたくしの知らないわたくしの家族の姿を、この人は持っている。それが、苛立ちと同時に、不思議な渇きを生んだ。
「お断りしますわ」
「そう。——では、星紋が肩を超えたら、もう一度考えてちょうだい。肩を超えると、痛みの質が変わるから」
セレスティアが立ち上がった。黒い裾が石畳を掃く。すれ違いざまに、彼女は低い声で付け加えた。声に、かすかな震えが混じっていた。
「あなたのお母さまは、わたくしの申し出を断らなかった。断れなかったのよ。手遅れになってからでは」
足を止めた。振り返ったとき、セレスティアの姿はもう、薔薇の奥に消えていた。薔薇の枝が彼女の通った跡を塞ぐように揺れている。
---
夜。
離宮のバルコニーに出ると、月明かりが石の手すりを白く染めていた。リオンが柱の影に立っている。護衛の夜番だった。月の光が彼の赤毛を黒ずんだ銅色に変えている。
「まだお休みにならないのですか」
「眠れませんの」
本当は、星紋が痛んで眠れなかった。夜になると侵食が進むのか、痛みが昼間の倍になる。右腕全体がじくじくと熱を持ち、指先が自分のものではないように感じた。枕に顔を押しつけても、腕の脈動が耳の奥で響いて、眠りの淵まで追いかけてくる。
バルコニーの手すりに右手を置いた。月光に照らされて、袖口から覗いた星紋が銀色に光った。隠す気力がなかった。月の光と星紋の光が同じ色をしていて、自分の腕が月の一部になったように見えた。
リオンが、わたくしの右手を見た。
「アイリーンさま。それは——」
「見ないでくださいまし」
「見ます」
リオンが、わたくしの傍に来た。柱の影から踏み出し、月明かりの中に立った。碧眼が、わたくしの右腕の星紋を、まっすぐに見つめた。逸らさない。怯えない。ただ、見ている。
「いつからですか」
「……処刑台の、あの日から」
「なぜ隠していたのですか」
「あなたに心配をかけたくなかったのですわ。あなたはもう十分——」
「十分ではありません」
リオンの声が、低くなった。怒りではない。もっと深い、底の見えない感情だった。普段の穏やかな声とは別の声。この人の中に、こんな声があることを、初めて知った。
「あなたは、私の命を救うために、自分の体を差し出した。私がそれを知らないと思っていたのですか」
「知っていても、あなたにできることはありませんわ。これは星詠みの代償です。星紋を止める方法は——」
言葉が止まった。リオンが、わたくしの右手を取ったからだ。
両手で、そっと包んだ。左手の甲の火傷の跡が、わたくしの星紋と重なった。二つの傷跡が、月の光の下で重なり合う。
——痛みが、引いた。
完全にではない。けれど、脈打つ痛みが静まり、鋭い棘が丸くなった。リオンの手の温もりが、星紋の冷たさに染み込んでいくような感覚だった。氷を温かい水に浸したような、じわりとした緩和。
「……なぜ」
「分かりません。けれど、先日、階段であなたの腕を支えたとき、あなたの顔が少し楽になったのが見えました。だから」
リオンは、不器用に笑った。右の口角がわずかに高い。
「一人で背負うなと、何度でも言います」
視界が、滲んだ。
泣くものか。星詠みは泣かない。わたくしは何度も自分にそう言い聞かせてきた。祖母がそう教え、父がそう望み、宮廷がそう求めた。けれど今、月明かりの下で、この手の温もりに触れていると、積み上げてきた堤防のどこかに、小さな亀裂が入った気がした。
「……ずるいですわ、あなた」
「ずるくていいです」
わたくしは、リオンの手を振りほどかなかった。振りほどく理由が、見つからなかった。月の光が二人の手を照らし、星紋と火傷の跡が銀色に溶け合っている。夜の庭から、名も知らぬ虫の声が静かに響いていた。