第17話
第17話「騎士の転属命令」
# 第17話「騎士の転属命令」
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転属命令は、朝の巡回中に届いた。
リオンが離宮の門で封書を受け取るのを、わたくしはバルコニーから見ていた。朝の光が石畳を白く照らし、リオンの赤毛が銅のように輝いている。使いの者から封書を受け取る彼の手つきは穏やかだったが、封蝋の色を見た瞬間、指がわずかに強張ったのが分かった。封蝋の色は赤——騎士団本部からの公式命令だった。
リオンが封を切り、文面を読み、一度だけ目を閉じた。それから顔を上げ、バルコニーのわたくしと目が合った。二階と一階を隔てた距離でも、彼の碧眼の色が変わったのが見えた。諦めの色はなかった。けれど、苦さがあった。唇が薄く結ばれ、顎の線が硬くなっている。
朝の小鳥が門の柱の上で鳴いていた。のんきな声だった。世界は何も変わらない朝を過ごしている。変わったのは、わたくしたちの間にある空気だけだった。
書斎に呼んで話を聞いた。リオンは椅子に座らず、窓の傍に立ったまま報告した。騎士として、命令を報告する姿勢。わたくしとの距離を、意図的に保っているように見えた。
「北部国境への転属命令です。即日発令、三日以内に着任」
「三日——」
「セレスティア殿の進言が通ったようです。宮廷護衛から国境警備への異動。表向きは人員不足の補充」
リオンの声は平坦だった。感情を押し殺している。けれど、窓の外を見ている目が、ほんの一瞬だけ揺れた。窓の外に見えるのは離宮の庭だ。二人で歩いた石畳と、リオンが野花を摘んだ花壇。
わたくしは立ち上がった。勢いよく立ちすぎて、めまいがした。右半身の星紋が脈打ち、体が一瞬ふらついた。椅子が床を擦る音が書斎に響いた。
「王宮に掛け合いますわ。殿下に——」
「アイリーンさま。殿下にこれ以上負担をかけるべきではありません。殿下は既に、議会で掟改正のために動いてくださっている。その上で護衛の人事にまで口を出せば、王族としての立場が危うくなる」
正論だった。リオンの冷静さが、今は恨めしかった。頭では正しいと分かっている。けれど胸が、正しさを受け入れることを拒んでいた。
「では、あなたは従うのですの」
「命令には従います。騎士ですから」
「——っ」
怒りではなかった。怖かった。リオンがいなくなることが。この数週間で、いつの間にか、彼のいない日常が想像できなくなっていた。三歩後ろの足音。書庫で手を伸ばしてくれる長い腕。藤棚の下で踊った不器用なワルツ。月明かりの下で包んでくれた手の温もり。それらすべてが、北部国境の向こうに消えてしまう。
わたくしの右手が震えた。星紋が脈打った。冷たさが指先から手首へ広がった。リオンがいなくなれば、星紋の痛みを和らげてくれる手もなくなる。銀盤を覗くとき、傍で糸を持ってくれる者がいなくなる。一人に戻る。母と同じ、一人の星詠みに。
「けれど」リオンが続けた。声が少し低くなった。命令を報告する声ではなく、もっと個人的な声。「必ず戻ります」
「戻れる保証はありませんわ。北部国境は——」
「保証がなくても、戻ります。約束します」
わたくしは、窓の外を見た。初夏の陽が庭を照らしている。白い雲が、北に向かって流れていた。あの雲の行く先に、リオンも行くのだ。
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最後の夜。
リオンは荷造りを終え、離宮の門前にいた。月明かりの下、旅装に身を包んだ彼は、護衛のときとは違う空気を纏っていた。革のブーツに旅塵が被り、背嚢が肩に食い込んでいる。戦場に向かう騎士の顔だった。けれどその目は戦場ではなく、わたくしを見ていた。
門の石柱に蔦が絡まり、夜露を帯びた葉が月光を反射していた。蟋蟀が鳴いている。夏の夜の匂いがした。草と土と、夜露の湿った匂い。
「出発は明朝ですの」
「はい。朝の鐘と共に」
わたくしたちは門の前に立っていた。月が二人の影を石畳に落としている。影が長く伸び、門の向こうの道にまで届いていた。
「リオン。あなたがいなくなったら、わたくしは——」
言いかけて、やめた。代わりに、別の言葉を口にした。自分でも驚くほど冷たい言葉を。
「戻らなくていいですわ。あなたは自由よ。わたくしの予言に縛られる必要はないし、わたくしの護衛を続ける義務もない。北部で、あなたの人生を——」
「アイリーンさま」
リオンが、わたくしの言葉を遮った。初めてのことだった。いつも最後まで聞いてくれるこの人が、わたくしの言葉を途中で止めた。
「それは、本心ですか」
沈黙が落ちた。蟋蟀が鳴いている。夜気に藤の残り香が混じっていた。散り始めた藤の、最後の甘さ。
「……本心ではありませんわ」
声が震えた。抑えられなかった。喉の奥が締まり、言葉が詰まった。目頭が熱い。
「本心は——行かないでほしい。わたくしの傍にいてほしい。けれど、そう言ってしまったら、あなたを予言で縛るのと同じことになる。だから——」
「同じではありません」
リオンが言った。声が低く、けれど澄んでいた。月の下で、その声だけが真実の音を持っていた。
「予言は選べない。けれど、あなたが『行かないで』と言うのは、あなたの意志だ。予言ではなく、あなた自身の言葉だ。——私は、予言に従っているのではなく、あなたの言葉に応えたいのです」
月明かりが、リオンの赤毛を銀色に染めていた。碧眼が、まっすぐにわたくしを見ている。瞳の中に月が映っていた。小さな月が、碧色の水面に浮かんでいるように。
「必ず戻ります。これは予言ではなく、私の誓いです」
リオンが背嚢の中から、一輪の白薔薇を取り出した。
処刑台の日と同じように。あの日と同じ、白い薔薇。花弁の縁に土はついていなかった。代わりに、朝露の名残が一滴、光っていた。月明かりを受けて、露が小さな宝石のように輝いている。
「これを——」
「預かりますわ」
わたくしは白薔薇を受け取った。茎の棘が指先に触れた。小さな痛み。けれどそれは、星紋の痛みとは全く違う種類のものだった。生きている痛みだった。花弁から、薔薇の甘い匂いがした。夜の空気の中で、その匂いはいつもより強く感じられた。
「おやすみなさい、リオン」
「おやすみなさい、アイリーンさま」
リオンが背を向けた。門を出て、石畳の道を歩いていく。月明かりの中で、赤毛が最後にもう一度光った。銀色に染まった赤毛が、月と同じ色になって、やがて夜の暗がりに溶けていった。足音だけが、しばらく聞こえていた。規則正しい、硬い足音。やがてそれも、虫の声に呑まれた。
わたくしは、白薔薇を胸に抱いたまま、リオンの背中が見えなくなるまで立っていた。立ち尽くしていた、と言った方が正確だ。足が動かなかった。
部屋に戻り、白薔薇を花瓶に挿した。ルルが涙を拭いている。
「お嬢さま……」
「泣かないで、ルル。あの人は戻るわ」
「お嬢さまこそ、泣いていらっしゃいます」
頬に手を当てた。濡れていた。左目だけから流れた涙が、頬を伝っていた。右目はもう涙を流せるほどの力がなかった。
白薔薇が、花瓶の中で月光を受けて光った。あの日の処刑台を思い出した。すべてはあそこから始まった。「あなたは、必ずわたくしを愛します」——あの予言は、もう予言ではない。願いだ。わたくしの、ただの願いだ。
わたくしは、窓の外の北の空を見上げた。星が瞬いている。星詠みの目で見れば、そのうちのいくつかがリオンの行く先を照らしているのが分かった。北極星を中心に、小さな星たちが弧を描いている。あの星たちが、リオンの頭上にも同じように輝いている。同じ空の下にいる。それだけが、今の慰めだった。
(星よ。あの人を——守って)
星詠みが星に祈ることは、掟に反する。けれど、もう掟を気にしている余裕はなかった。
白薔薇の匂いが、枕元から漂ってきた。花瓶の中の薔薇は、まだ咲いている。リオンが出発前に庭から摘んできたもの。花弁が少し開きすぎて、中心の蕊が見えている。明日には散り始めるかもしれない。けれど今夜は、まだ咲いている。
わたくしはベッドに横になったが、眠れなかった。右半身の星紋が鈍く脈打ち、リオンの手の温もりの記憶が遠くなっていく。彼がいなくなって、まだ一晩も経っていないのに、もう手の温もりが薄れている。記憶の中の温もりは、現実の温もりにはかなわない。
枕を左手で抱きしめた。白薔薇の匂いを吸い込みながら、目を閉じた。
明日から、リオンのいない日が始まる。三歩後ろの足音がない日。書庫で手を伸ばしてくれる人がいない日。月明かりの下で手を包んでくれる温もりがない日。
それでも、わたくしはここにいる。銀盤を抱えて。母の日記を読み解いて。始祖の古文書の謎を追って。リオンが戻るまでに、できることをすべてやっておかなければならない。
(待つだけではない。わたくしも、わたくしの戦い方で戦う)
そう決めて、ようやく少しだけ——眠れた。