第15話
第15話「視界の翳り」
# 第15話「視界の翳り」
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銀盤の文字が、読めなかった。
右端が暗い。右目の視界の端に、灰色の靄がかかっている。星紋が首の付け根まで這い上がったのは三日前。それ以来、右目の端が少しずつ翳り始めていた。最初は疲れ目だと思った。目を擦れば消えるだろうと。けれど靄は消えなかった。朝目覚めるたびに、灰色の領域が少しずつ広がっている。
朝、銀盤を覗いたとき、映像の右半分がぼやけていた。左目を凝らせば読めるが、精度が落ちている。昨日見えた未来の細部が、今日はもう霞んで見えない。人の顔の輪郭が崩れ、風景の端が溶けている。鮮明だった世界が、少しずつ水に浸した水彩画のようになっていく。
隠した。リオンにも、ディランにも。
けれど、ルルには隠せなかった。
「お嬢さま」
書斎で銀盤を磨いていたとき、ルルが紅茶を運んできた。カップとソーサーが触れ合う小さな音が聞こえた。ルルの歩き方でカップの中身が揺れ、紅茶の香りが漂ってくる。いつもより少し渋い匂いだった。わたくしはルルの差し出すカップに手を伸ばし——ルルの右側にあったカップを取り損ねた。指先が空を掻いた。左手で掴み直したが、紅茶が少しこぼれた。温かい液体がテーブルの上に小さな水溜まりを作り、紅茶の色がテーブルクロスに染みていく。
「お嬢さま。いま、カップが見えていませんでしたよね」
ルルの目が、真っ直ぐにわたくしを見ていた。いつもの丸い目が、今は鋭かった。そばかすの浮いた頬が紅潮し、唇がきつく結ばれている。この子がこんな顔をするのは、わたくしが嘘をついたときだけだ。
「……少し、右目がぼやけているだけですわ」
「少しじゃありません。昨日も、廊下の角で壁にぶつかりそうになっていました。一昨日は、階段の段差を踏み外しかけていた。あたしが見ていないとでも——」
ルルの声が詰まった。目のふちが赤くなっていく。涙が溜まっている。けれど、まだ落ちない。堪えている。この子は、泣くのを堪えるとき、息を止める癖がある。今も呼吸が止まっていた。
「お嬢さま」
「ルル——」
「あたし、お嬢さまを失いたくないです」
涙がこぼれた。ルルの涙だ。小さなそばかすの頬を伝って、顎から落ちた。テーブルの上の紅茶の染みの隣に、透明な雫が一つ落ちた。
「あたし、お母さまのときは間に合わなかった。あたしが侍女になったときには、もうお母さまはいらっしゃらなかった。でもお嬢さまは——お嬢さまは、あたしの目の前にいる。いるのに、少しずつ、遠くなっていく気がして——」
ルルの声が震えていた。小さな拳がスカートの裾を握りしめている。白い指の関節が浮き出ていた。この子の手は、いつもわたくしの髪を梳き、紅茶を淹れ、花瓶の水を替える手だ。その手が今、怒りと悲しみで震えている。
わたくしは、ルルを抱きしめた。小さな体が震えていた。ルルの栗色の髪が頬に触れた。石鹸の匂いがした。毎朝きちんと髪を洗う子だった。その清潔さが、この子の誠実さそのもののようで、胸が痛んだ。
「ルル。わたくしは、まだここにいますわ」
「ぜったい、いなくならないでください」
「約束はできないわ。けれど——諦めてはいません」
ルルの体を離すと、赤い目がわたくしを見上げていた。信じたいけれど信じきれない目。わたくしはルルの頬の涙を親指で拭った。温かい涙だった。
ルルを落ち着かせた後、一人で薔薇園に出た。藤の花がもう散り始めている。石畳の上に紫の花びらが積もっていた。踏むたびに花びらが潰れ、甘い汁が石畳に跡を残す。初夏の日差しが肌を焼き、けれど右半身の星紋は氷のように冷たかった。体の左右で季節が違うような感覚。
右目の視界が、また少し狭くなった。噴水が視界の端で欠けている。以前は見えていた噴水の右端が、灰色の靄に呑まれていた。
「侵食を止める術」
セレスティアの声が、背後から聞こえた。振り返ると、噴水の縁に座っている。三度目の邂逅。黒いドレスの裾が石畳に流れ、午後の光の中で彼女の影が長く伸びていた。今日のセレスティアは、いつもの妖艶さが薄い。目の下に隈があり、黒い手袋の指先がかすかに震えていた。
「もう一度、提案するわ。星紋の侵食を止める術。条件は——」
「予言を指示通りにすること。でしょう。前と同じ」
「少し変えたわ。予言ではなく、次の議会で、わたくしの改正案に賛成すること」
わたくしは、セレスティアを見つめた。金色の瞳に、今日は嘲りがなかった。代わりに、疲労があった。瞳の奥の光が鈍い。十二年間の疲労が、ここにきて表面に滲み出しているようだった。
「なぜ、そこまでして書き換えを禁じたいのですの」
「あなたのお母さまのような犠牲者を、二度と出さないためよ」
声に力がなかった。いつもの余裕のある声ではない。本心から言っている声だった。けれど——。
「あなたの方法では、犠牲者は出なくなる代わりに、悲劇の未来を変えることもできなくなりますわ」
「変えられないなら、受け入れるしかない。それが——星詠みの宿命よ」
セレスティアの声が、かすかに揺れた。宿命という言葉を口にするとき、金色の瞳が一瞬だけ伏せられた。この言葉をこの人は信じているのだろうか。それとも、信じたいだけなのか。
「お断りしますわ」
三度目の拒否。セレスティアは笑わなかった。ただ、目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とした。
「そう。——肩を超えたら、本当に手遅れになるわ」
去っていく黒い背中を見送った。セレスティアの足取りがいつもより遅い。黒い裾が石畳を引きずる音が、静かな薔薇園に残った。わたくしの右目の視界が、また少し狭くなった気がした。彼女の背中の右半分が、灰色の靄に溶けていく。
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その夜、夢を見た。
母が、銀盤の前に座っている。若い頃の母。銀灰色の髪が揺れ、淡い紫の瞳がわたくしを見ている。けれど、母の瞳はもう何も映していなかった。白く濁っている。視力を失った目。母の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その笑みは世界を見ているのではなく、記憶の中のものを見ている笑みだった。
部屋は暗かった。けれど銀盤だけが光っていた。銀面が独自の光を放ち、母の顔を下から照らしている。影が逆さまに落ちて、母の表情が別の意味を帯びた。
母が口を開いた。
「銀盤を壊しなさい」
「壊したら——星詠みの力を失いますわ」
「違う。壊すのは鏡としての銀盤。扉は、壊れない。鏡を壊して、扉を開けなさい」
母の手が、銀盤に触れた。指先が銀面を撫でると、銀面にひびが入った。蜘蛛の巣のように広がるひび。ひびの奥から、銀色ではない——金色の光が漏れた。温かい光だった。銀盤の冷たさとは正反対の、太陽のような温もり。
「扉の向こうに——」
母の声が途切れた。金色の光が揺れ、母の姿が薄れていく。手を伸ばしたが、指先は空を掴むだけだった。母の温もりも、声も、匂いも——すべてが遠ざかっていく。
夢が崩れた。
目覚めた。枕は涙で濡れていた。左目から流れた涙だ。右目はさらに暗くなっていた。視界の右三分の一が、灰色の幕に覆われている。朝の光が窓から差し込んでいたが、右目ではその光の端を捉えられなかった。左目だけで見る朝は、世界が半分になったようだった。
(母さま。銀盤を壊すとは、鏡を壊すこと。扉を開けること。——けれど、いつ? どうやって?)
答えは夢の中にあった。けれど、夢が壊れるのが早すぎた。母の声が途切れる前に——あと一言、あと一言だけ聞きたかった。
星紋が、首筋で脈打っている。脈動が耳の奥にまで響き、自分の鼓動と区別がつかなくなった。
時間がない。右目が閉じる前に。体が母と同じ道を辿る前に。
わたくしは左手で銀盤を掴んだ。銀面にわたくしの左目だけが映っている。片目の星詠み。半分の視界で、それでも前を見ている顔が、そこにあった。
銀盤を胸に抱いて、寝台に横になった。シーツの冷たさが背中に染みた。右半身は冷たく、左半身は温かい。体の中に季節の境界線がある。右側は冬、左側は夏。その境界線が、日に日に左側へ移動している。
天井の染みを左目で見つめながら、わたくしは指を一本ずつ動かした。左手の指は滑らかに動く。右手は——親指が遅れる。人差し指が途中で止まる。中指から先は、もう自分の指ではないようだった。
(あと、どれくらい)
母は三日で全身に広がったという。わたくしの侵食はもっと遅い。若いからか、それとも別の理由か。けれど、ゆっくりだからといって安心できるわけではない。ゆっくり壊れるのは、早く壊れるのと同じくらい——いや、もっと残酷だ。壊れていく自分を、毎日少しずつ確認させられるのだから。
枕元のテーブルに、リオンが摘んでくれた青い花が花瓶に挿してある。三日は持つと言われた花。もう五日目なのに、まだ咲いている。花弁の端がわずかに茶色く変色し始めているが、中心の白い筋はまだ鮮やかだった。
「あなたも、頑張っていますのね」
花に話しかけるのは初めてだった。星詠みは星に語りかけるが、花には語りかけない。けれど今のわたくしには、花の方が近かった。
リオンに言うべきだろうか。右目のこと。ルルには知られた。セレスティアには断った。リオンには——言えば、彼はきっと何かしようとする。星紋に触れて、痛みを和らげようとしてくれる。けれどそれは一時的な処置に過ぎない。根本的な解決は、銀盤の使い方を変えることだ。
始祖の古文書の言葉が、暗い寝室の天井に浮かんだ。「銀盤は鏡ではない。扉である」。扉を開けなければならない。そのためには覚悟がいる。そして、糸の片方を持つ者が。
時間が、少しずつ狭まっている。