第4話
第4話「社交界の棘」
# 第4話「社交界の棘」
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茶会に出ろ、と命じられたのは前日の夕食の席だった。 叔父が、スープ皿から目を上げずに言った。 「明日のベルモン子爵夫人の茶会に、お前も行きなさい。セレナとリゼットの付き添いという名目で構わない。荷物持ちが必要だ」 私は匙を止めて「はい」とだけ答えた。断る権利はない。この家で食事を与えられている以上、命じられたことには従う。それがこの二年間の暗黙の契約だった。 叔母のヘルダが、テーブルの向こうから私を見ていた。口元に薄い笑みが浮かんでいる。意図のある笑みだ。社交界にエメラを出すことに、叔母には何か目的があるのかもしれない。荷物持ちという名目の裏に、別の思惑が。 翌日の朝。お下がりのドレスの裾のほつれを昨夜のうちに繕い、髪を簡素にまとめて、私は従姉妹たちの後ろに立った。セレナは淡い水色の絹のドレスに銀のブローチ。リゼットは桃色のレースが重ねられた春らしい一着。どちらも仕立てたばかりの新品で、朝の陽の光の中で二人の背中は眩しく輝いていた。私のドレスは褪せた灰色。元はセレナのものだ。三度洗い直されて、色も形も最初の面影がない。 それでも、ドレスの胸元にはエプロンのポケットから移した母の鍵をこっそり忍ばせていた。お守りのつもりだった。
ベルモン子爵夫人の邸宅は、王都の中心街に近い瀟洒な石造りだった。門をくぐると手入れの行き届いた薔薇の庭が広がっている。蕾がほころびかけの薔薇が、柵沿いにずらりと並んでいた。春の盛りを待つ庭。開ききった花は一つもなく、全てが「もうすぐ」の手前で待機している。 サロンに通された。白いテーブルクロスの上に並ぶ銀の茶器。繊細な磁器のカップ。紅茶の湯気が立ち上り、花の甘い香りと混ざって鼻を包む。令嬢たちの笑い声が、高い天井に反射して柔らかく反響していた。十人ほどの若い令嬢と、数名の年配の夫人。色とりどりのドレスが、サロンの白い壁を背景に花壇のように並んでいる。 私がサロンの入り口に立った瞬間、空気が変わった。 笑い声が途切れたわけではない。けれど、視線が動いた。十人の令嬢たちの目が、一斉にこちらを向き、すぐに逸れた。逸れた先で、扇の陰に口を寄せて、囁き声が始まった。 「あれ、リルティングの──」 「ああ、あの悪役令嬢」 「よくこういう場に来られるわね。恥ずかしくないのかしら」 「子爵家のご長女って言っても、実質は使用人みたいなものでしょう?」 「あのドレス、見てごらんなさい。三年は前の流行よ」 声は意図的に聞こえる大きさだった。聞かせるための囁き。私に届くように計算された音量。耳の奥が焼けるように熱くなった。けれど表情は動かさない。この二年間で鍛えた技術が、ここでも私を守る。顔の筋肉を一つも動かさず、目を床に落として、壁際の椅子に向かう。 セレナとリゼットは何事もなかったかのように席に着いた。リゼットは周囲の令嬢たちと楽しげに挨拶を交わしている。「ねえ、そのリボン可愛い。どこで買ったの?」という声が聞こえた。セレナは紅茶のカップを手に取り、私のほうを一度も見なかった。 私は壁際の椅子に座った。荷物持ちの定位置だ。従姉妹たちの外套と手袋を膝の上に載せ、背筋を伸ばす。令嬢たちの会話に混ざることは期待されていないし、求められてもいない。 紅茶が運ばれてきた。私の前にもカップが置かれたが、それは給仕の少女の判断であって、招待者の意思ではないだろう。少女が小さく微笑んでくれた。温かい紅茶が喉を通る。ベルガモットの苦みと甘みが舌の上で混ざった。それだけが、今この場で私に与えられた慰めだった。 令嬢たちの話題は近々の舞踏会の出し物、夏のドレスの流行、どこかの侯爵家の跡取りが詩会で恥をかいた話。私には縁のない世界の言葉が、テーブルの上を蝶のように飛び交い、私の頭上を素通りしていく。 時折、視線がこちらに刺さった。目が合うと、すぐに逸らされる。逸らされた後に、くすくす笑いが聞こえる。棘だ。この空間全体が、柔らかい花の香りで覆われた棘の壁でできている。 「ねえ、リルティングのお嬢さん」 不意に声をかけられて、私は顔を上げた。 見覚えのない令嬢が、私のすぐ隣の椅子に腰を下ろしていた。亜麻色の髪を肩までゆるく巻いて、琥珀色の瞳。穏やかだが芯のある顔立ち。年は私と同じか少し上くらいだろう。深緑のドレスは飾り気が少ないが仕立ては良い。他の令嬢たちの華やかさとは違う、落ち着いた佇まいだった。 「マリーヌ・デュヴァルと申します。宮廷文官デュヴァル家の娘です。お隣、よろしいかしら」 「……ええ、もちろん」 驚いた。この場で私に自ら近づいてくる令嬢がいるとは思わなかった。周囲の視線が一瞬、こちらに集中したが、マリーヌは気にする気配がなかった。 「私、大きな茶会は苦手で。人が多いと誰と話していいかわからなくなるの。壁際の席のほうが、実はお菓子に近いでしょう?」 そう言って、テーブルの端に並んだ菓子皿からクッキーを一つ取り、私にも勧めた。その動作があまりにも自然で、私は反射的に手を伸ばしてしまった。 「ありがとうございます」 「右の列のバター多めのが美味しいわよ。あと、左端のはレモンが強すぎるから注意」 小声で教えてくれたその声に、嫌味も同情もなかった。私を「悪役令嬢」として見ていない。少なくとも、そのレッテルを通して私を見ることを、この人は選んでいない。 「あなた、お手紙は書く方?」 マリーヌが何気なく尋ねた。 「……ええ、少し」 「私も好きなの。手で書く手紙って、声とは違うことが言えるでしょう。普段言えないことが、紙の上だと不思議と出てくる」 心臓が跳ねた。この人は、私と同じことを感じている。手紙の中でだけ本当の自分になれるあの感覚を。 「ええ。その通りだと思います」 「やっぱり。あなた、手紙が似合う人だと思ったの。目がそういう目をしているから」 意味がわからなかった。けれど、悪い意味ではないことだけはわかった。 マリーヌは茶会の残りの時間、私のそばにいた。大げさに話しかけてくるわけでも、私の事情を根掘り葉掘り聞くわけでもなく、ただ時折、菓子の感想や窓の外の庭の薔薇について短い言葉を交わした。他の令嬢たちがそれを見て、怪訝そうに顔を見合わせていたが、マリーヌは一度も周囲を気にしなかった。 茶会が終わる頃、マリーヌが立ち上がりながら言った。 「また、どこかでお会いできると嬉しいわ。リルティングさん」 「……エメラ、で構いません」 「ではエメラ。私のことはマリーヌと呼んでくださいな」 その名を心の中で繰り返した。マリーヌ。この茶会で棘でないものに触れたのは、この人だけだった。
帰りの馬車の中は、沈黙だった。 リゼットは隣の席でうとうとしている。茶会ではしゃぎすぎたのだろう。頬が紅潮したまま、小さな寝息を立てている。セレナは向かいの席で、窓の外を見ていた。夕暮れの王都の通りが、車窓を流れていく。石畳の上を走る車輪の音が、がたがたと一定のリズムを刻む。 セレナの横顔は、いつもの冷たい表情だった。唇は薄く閉じられ、視線は遠い。何を考えているのかわからない。茶会の間、セレナは一度も私のほうを見なかった。他の令嬢たちが私を囁きの標的にしている間も、マリーヌが隣に座っている間も。 屋敷の門前で馬車が止まった。御者が扉を開ける。リゼットが目を覚まし、欠伸をしながら先に降りた。私も続こうと腰を上げたとき、セレナが口を開いた。 「エメラ」 振り向いた。セレナは窓の外を見たまま、私のほうを見なかった。夕陽がその横顔の半分を赤く染めている。 「……あの場に、出てこなければよかったのに」 それだけ言って、セレナは馬車から降りた。スカートの裾を軽く摘んで、門をくぐっていく。背中は真っ直ぐで、一度も振り返らなかった。 私は馬車の中に残されたまま、その言葉を反芻した。 冷たく言い放ったのか。それとも、あの場で私が傷つくことを、最初からわかっていたのか。「出てこなければよかった」は、非難だったのか。嘲笑だったのか。それとも──私が傷つくのを見たくなかったのか。 御者に促されて馬車を降りた。門の中に入りながら、手の中に残ったマリーヌのクッキーの甘さと、セレナの声の硬さを、交互に思い返していた。棘と、棘でないもの。この世界は、どちらでできているのだろう。 屋根裏の自室に戻り、机に向かった。ユリアン様への手紙を書こう。今日あったことの全部は書けない。社交界の冷たさも、セレナの不可解な言葉も、灰色のドレスの惨めさも。でも、一つだけ書ける。 茶会で、菓子を勧めてくれた人がいた。右の列のバター多めがおいしい、と教えてくれた人が。名前はマリーヌ。手紙が似合う目をしている、と言ってくれた。 ペンが走り始めた。紙の上で、今日の痛みが少しずつ、言葉に姿を変えていく。