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影の郵便局と秘密の手紙

第26話 第26話「手紙の家」

第26話

第26話「手紙の家」

# 第26話「手紙の家」

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 下宿に越して一週間目の日曜日に、訪問者が来た。  二人。マリーヌが先に階段を上がってきて、その後ろからセレナが遠慮がちについてきた。セレナは下宿の入り口で足を止め、洗濯屋の看板を見上げて「こんな場所に住んでいるの」と呟いた。声にはいつものぶっきらぼうさがあったが、侮蔑ではなく、ただの確認だった。 「狭いけど、入って」  三人が入ると部屋はいっぱいだった。ベッドにマリーヌ、椅子にセレナ、私は床に座った。窓辺のタイムが三人を見下ろしている。花の数がさらに増えて、小さな紫の群れが茎を彩っていた。  マリーヌが紙袋を差し出した。中身は焼き菓子と、小さな陶器のカップ三つ。 「引っ越し祝い。カップは文具店の隣の陶器屋で買ったの。安物だけど、形がかわいいでしょう」  カップを手に取った。白地に青い線が一本、縁に沿って描かれている。素朴な、けれど丁寧な仕事。三つとも同じ柄だが、微妙に線の太さが違う。手描きだからだ。一つ一つ、人の手が作ったもの。 「ありがとう、マリーヌ。私、自分のカップを持つのは初めてかもしれない。叔父の家では叔母の食器を使っていたから」 「じゃあ記念すべき一杯目ね」  マリーヌが持ってきた茶葉でお茶を淹れた。下宿の共用台所で湯を沸かし、小さなポットに注いだ。部屋に戻ると、茶葉の香りが狭い空間を満たした。甘い、少し草の香りがする緑茶。タイムの花の香りと混ざって、不思議な温度の香りになった。  三人でカップを持った。陶器の縁が唇に触れたとき、温かさが口元から頬に伝わった。自分のカップで飲む最初のお茶。叔父の家では、台所で立ったまま残り湯を飲んでいた。座って、友人と、自分のカップで。こんなに違うものか。  焼き菓子を分けた。マリーヌが持ってきたのは蜂蜜入りのクッキーで、噛むとさくさくと音がして、口の中に甘さが広がった。バターの香ばしさが鼻に抜ける。窓から差し込む午後の光が、菓子の表面の砂糖粒をきらきら光らせていた。  セレナは菓子を一つだけ取り、小さく齧った。窓の外を見ている。何を考えているのかわからない顔。でも、ここにいる。叔母の家から出て、日曜日の午後にここまで来た。それだけで十分だった。 「セレナ。叔母様は元気?」 「……相変わらず。あなたが出て行ったことで機嫌が悪いけど、表面上は『厄介者がいなくなって清々した』という態度を取っている。父はずっと書斎に籠もっている。リゼットは——リゼットだけがいつも通り」 「リゼットは強いね」 「鈍いだけよ」  セレナが言い捨てるように言った。でもその声に、少しだけ柔らかさがあった。妹への不器用な愛情。セレナは感情を棘で覆う人だ。でも棘の下に柔らかいものがあることを、あの夜から知っている。  マリーヌがカップを膝に載せて、エメラを見た。  話はとりとめのない方向に流れた。マリーヌが最近読んだ詩集の話をした。「恋の詩ばかりでうんざりするけど、一篇だけ手紙について書かれたものがあって——『届かない言葉は消えるのではない。空中で待っている。受取人が来るまで』って」。私は黙ってその一節を胸の中で繰り返した。届かない言葉は空中で待っている。送れない手紙の束が、枕元でまさにそうしている。 「ねえ、エメラ。一つ聞いてもいい?」 「何?」 「ユリアン様とは、まだ手紙を続けているの?」 「続けている。影の郵便局がまた使えるようになったから、水曜日に手紙が届く」 「会える距離にいるのに、手紙を書くの?」  マリーヌの問いに、セレナも顔をこちらに向けた。二人の視線が集まった。  考えた。会える距離にいる。下宿から騎士団の庭園まで、歩いて半時間もかからない。声で話せる。対面で会える。それでも手紙を書いている。なぜだろう。 「会えるのに手紙を書くのは、贅沢かもしれない。でも——声で言えないことが、まだある。手紙の中でしか出せない自分が、まだいる。前よりは声の自分と紙の自分が近づいたけど、まだ完全には重なっていない。だから書く」 「ロマンチストね」マリーヌが微笑んだ。 「違うわ」セレナが口を挟んだ。「それは——必要なことよ。言葉には回路が要る。声の回路と紙の回路は別物。どちらか一方では足りない」  セレナの言葉に驚いた。この人が「回路」という言葉を使うとは。 「ユリアン様が言ったのよ」と私が言いかけたら、セレナが首を振った。 「あなたの手紙を読んだことはないわ。でも——あなたが屋根裏で手紙を書いている音は聞こえていた。ペンが紙を走る音。インク壺の蓋を開ける音。封筒を折る音。毎晩、寝る前に。あの音が聞こえると、あなたが何か大切なことをしているのだとわかった」  セレナは壁のほうを向いた。カップを口に運び、茶を一口飲んだ。それ以上は語らなかった。でも今の言葉は、あの夜の涙と同じだ。鉄板の下から漏れ出たもの。セレナは二年間、壁越しに私の手紙を聞いていた。ペンの音を。インクの匂いを。封筒を折る紙の擦れを。聞いていて、何も言わなかった。聞いていたことすら、今日まで言わなかった。  部屋が静かになった。三人の呼吸と、窓の外の鳥の声と、階下の洗濯屋の水音。この静けさが心地よかった。叔父の家の静けさは緊張の静けさだった。ここの静けさは安心の静けさだ。  マリーヌが二杯目の茶を注いだ。カップが温かい。手のひらで包むと、陶器の熱が指先に伝わった。 「マリーヌ。セレナ。ありがとう」 「何に?」マリーヌが首を傾げた。 「来てくれたことに。この部屋に初めて来てくれたお客さんだから」 「そう。じゃあ次は私の家に来なさい。お父様も会いたがっているわ。あの文書のことで、監査院にいくつか追加で聞きたいことがあるらしいの」 「わかった」  セレナが立ち上がった。「帰る」。短い。いつものセレナだ。 「また来ていい?」  セレナの声が小さかった。こちらを見ずに、扉の取っ手に手をかけたまま聞いた。 「いつでも」  セレナは頷いて、扉を開けた。マリーヌも立ち上がり、空になった紙袋を畳んだ。 「エメラ。友達でいてくれてありがとう」  マリーヌの言葉が、胸に落ちた。友達。初めてその言葉を向けられた。茶会で出会って、噂を調べてくれて、手紙を届けてくれて、引っ越し祝いを持ってきてくれた人。この人が友達でなければ、誰が友達なのか。 「こちらこそ」  二人が帰った後、部屋に三つのカップが残った。茶の染みがカップの底に薄く残っている。使った痕跡。誰かがここに来て、一緒にお茶を飲んだ痕跡。カップを洗わずに、しばらく机の上に置いておいた。三つのカップが三角形に並んでいる。友情の幾何学。この部屋に人が来て、お茶を飲んで、帰っていった。その事実が、壁の染みや軋む床板よりもこの部屋を「家」にしてくれる。家とは建物ではなく、誰かが訪ねてきてくれる場所のことだ。  夕日がカップの縁に当たって、青い線が光った。三つとも同じ光り方をしている。けれど微妙に違う。手描きだから。  便箋を広げた。ユリアン様への手紙。

『ユリアン様。今日、マリーヌとセレナが部屋に来ました。初めてのお客さんです。三人で茶を飲みました。友達と呼べる人が初めてできたかもしれません。  会えるのに手紙を書くのは贅沢ですね。でも、贅沢を許してください。声ではまだ言えないことが、ペンの先からなら出てきます。あなたにもそういうことがあると信じています。  ——あなたの手紙を待つ人より』

 封をして、窓辺に置いた。明日、影の郵便局に持っていく。タイムの花が手紙の封筒に影を落としていた。紫の影。手紙と花が、窓辺で並んでいる。  夜、ユリアン様からの返事を想像した。あの端正な筆跡で何と書いてくるだろう。予想は外れるかもしれない。手紙の楽しさはそこにある。予想できない言葉が届く。声の会話は即応だ。考える隙がない。手紙は考える時間をくれる。書く側にも、読む側にも。その時間の中で、言葉が磨かれる。  ユリアン様の返事は水曜日に届くだろう。あの端正な筆跡で、何と書いてくるだろう。「贅沢な言葉こそ、最も美しいのです」。そう書いてきそうだ。いや、予想は外れるかもしれない。手紙の楽しさはそこにある。予想できない言葉が届く。声の会話は即応だ。考える隙がない。手紙は考える時間をくれる。書く側にも、読む側にも。その時間の中で、言葉が磨かれる。  目を閉じた。枕の横に十四通の送れない手紙の束がある。いつかユリアン様に渡す。でも今日ではない。全てが落ち着いたら。声と紙の両方で、十四通分の想いを渡せる日が来たら。そのとき、告白の返事も一緒に。

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