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影の郵便局と秘密の手紙

第25話 第25話「王都の春」

第25話

第25話「王都の春」

# 第25話「王都の春」

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 全てが終わった朝は、驚くほど静かだった。  監査院への提出は三日前に終えた。ユリアン様と二人で、王立監査院の石造りの正門をくぐった。受付の文官に名前を告げたとき、声が震えた。「エメラ・リルティング」。自分の名前を公の場で名乗ったのは、社交界の茶会以来だった。あのときは「悪役令嬢」として。今回は、文書の正当な所有者として。  ユリアン様が隣に立っていた。副団長の制服ではなく、フェルネ家の正装。銀の釦が並ぶ黒い上着に、胸元に護りの印を模したブローチ。家の名誉を賭けた装い。受付の文官がユリアン様の名前を聞いた瞬間、態度が変わった。「フェルネ家の。少々お待ちください」。名前の持つ力。叔母がそれを悪用し、ユリアン様はそれを正しく使った。  監査院の奥の部屋で、二十三枚の文書を正式に提出した。ユリアン様が文書の来歴を説明し、私が母の経緯を語った。監査官は白髪の痩せた男で、文書を一枚ずつ丁寧に読んだ。読み終えるまでに二時間かかった。  監査官は言った。「調査を開始します。期間は未定です。お二人の安全について、監査院として可能な範囲で配慮します」。それだけだった。正義の剣が振り下ろされるような劇的な瞬間はなかった。ただ、文書が正しい場所に渡った。母が望んだ通りに。  監査院を出たとき、空が高かった。初夏の雲が白く薄く流れていた。ユリアン様が隣を歩いていた。二人とも何も言わなかった。言葉がいらなかった。歩調が自然に合った。石畳を踏む靴音が、二つ重なって一つのリズムになった。  ユリアン様が「終わりましたね」と言い、私は「始まりました」と答えた。ユリアン様が微笑んだ。「あなたらしい」。その笑みが、監査院の重い石壁よりも確かな安堵をくれた。

 そして今朝。叔父の家を出る日が来た。  監査院の調査によって、リルティング家の遺産の一部が私に返還されることが決まった。正確には、叔父が流用した修繕費のうち、エメラの個人財産に相当する分の返還命令。金額は大きくない。けれど王都の小さな下宿に半年分の家賃を払うには足りた。  荷物は驚くほど少なかった。母の手帳。銀の鍵。護りの印の手紙。送れない手紙の束、十四通。タイムの鉢。着替えが二着。それだけ。二年間この家で暮らしたのに、持ち出すものがこれだけしかない。屋根裏の部屋を見回した。古い椅子と机。低い天井。小窓。蝋燭のなくなった燭台。この部屋で何百通の手紙を書き、何百回も天井の木目を見つめた。  タイムの鉢を抱えた。花が五輪に増えていた。紫色の小さな花が、葉の間からこちらを見ている。この鉢だけは、絶対に持っていく。  階段を降りた。一階の廊下に、叔父が立っていた。 「行くのか」 「はい」  叔父は何か言おうとして、やめた。口を開き、閉じ、パイプを回した。それから、小さく頷いた。 「……体に気をつけなさい」  それだけだった。叔父らしい言葉。必要最小限。感情を込めない。でもその声にわずかな湿り気があった。  台所を通った。アンナが作業台の前に立っていた。目が合った。アンナは何も言わなかった。私も何も言わなかった。この人は叔母の耳だった。でも、アンナもまたこの家の使用人であり、叔母の命令に従う以外の選択肢を持たなかった。恨みはない。ただ、もう用済みだ。  勝手口を出た。石段に、セレナが立っていた。  腕を組み、壁にもたれ、横を向いている。いつものポーズ。けれど目元が少し赤い。 「セレナ」 「……別に。見送りなんかじゃないわ。たまたま通りかかっただけ」 「うん」 「あと——」  セレナが声を落とした。壁から体を離し、まっすぐ私を見た。 「リゼットが泣いてた。昨日の夜。あの子はあなたが好きだったから。無邪気だけど、鈍いだけど。あの子なりに」 「リゼットに伝えて。遊びに来ていいって」 「……伝える」  セレナが一歩近づいた。手を伸ばし、タイムの鉢の縁に指先を触れた。紫の花を見つめている。 「きれいね。これ」 「タイムの花。ユリアン様にもらった種から育てた」 「そう」  セレナの指が花弁に触れかけて、止まった。触れると壊れそうだと思ったのかもしれない。指を引っ込めて、ポケットに手を突っ込んだ。 「エメラ。私も——いつか、ここを出る」 「待ってる」  セレナが目をそらした。けれど口元がかすかに緩んだ。笑みとは呼べない。けれど、鉄板の下の柔らかい部分が一瞬だけ覗いた。  勝手口を出た。振り返らなかった。振り返ったら、この家の記憶に引き戻される。二年間の小言と無視と、台所の匂いと、屋根裏の天井の木目と。全部を置いていく。持っていくのはタイムの鉢と、手紙の束だけ。  路地に出ると、朝の空気が肺に入った。洗いたてのシーツのような清潔な空気。叔父の家の空気とは違った。叔父の家の空気は、薔薇の香水と銀食器の磨き粉と、言えない秘密の重さが混ざっていた。路地の空気にはそれがない。ただの空気。誰のものでもない空気。この空気を吸って歩ける。それだけで足が軽かった。

 王都の東、市場通りから一本入った静かな路地に、下宿屋があった。石造りの二階建て。一階は洗濯屋で、二階に小さな部屋が三つ並んでいる。その一番奥の部屋。家賃は月に銀貨六枚。窓が南に面していて、午前中は日当たりがいい。  大家のおばさんが鍵を渡してくれた。鉄の鍵。ずっしりと重い。首に下げた銀の鍵とは別の重さ。銀の鍵は母の秘密を開けるもの。鉄の鍵は私の日常を開けるもの。二つの鍵を握って、階段を上がった。  扉を開けた。小さな部屋。ベッドと机と椅子。棚が一つ。壁に染みがあり、床板が軋む。叔父の屋敷の屋根裏より狭い。けれど——  ここは私の部屋だ。  初めて。十八年間の人生で、初めて、自分だけの部屋。叔母の声が降ってこない部屋。アンナに監視されない部屋。セレナの複雑な目に見つめられない部屋。ここで手紙を書いても、誰にも気づかれない。送れない手紙ではなく、送る手紙を書ける部屋。  窓辺にタイムの鉢を置いた。南向きの窓から午前の光が差し込んで、タイムの花に当たった。紫の花弁が透けて、光を通した。花が笑っているように見えた。  窓から見える景色。路地の向こうに低い屋根が連なり、その先に青い空が広がっている。叔父の屋敷の屋根裏からは空しか見えなかった。ここからは屋根も見える。他の人間が暮らしている屋根。私だけの世界ではない。  机に座り、便箋を広げた。新しい便箋だ。下宿に越してきた記念に、文具店で買った。紙の色が少しだけ青みがかっている。いい紙だ。母の手帳の紙よりも滑らかで、ペン先がすべるように走る。  ユリアン様に手紙を書いた。

『ユリアン様。今日、叔父の家を出ました。  王都の東の、小さな下宿にいます。窓辺にタイムの鉢を置きました。南向きの光が花に当たって、紫が透けています。  自分だけの部屋で手紙を書くのは初めてです。誰の視線も気にせず、好きなだけインクを使い、好きなだけ言葉を選べる。この贅沢が嬉しくて、何を書けばいいかわかりません。  嬉しいです。ただ、嬉しいです。  ——あなたの手紙を待つ人より。  追伸。もう「送れない手紙」は書きません。これからは全部、送ります。』

 封筒に入れ、封をした。今度は影の郵便局経由で送れる。宮廷の調査は監査院の介入で中断された。影の郵便局への圧力も緩んでいる。ユリアン様への手紙は、また水曜日に届く。  ヴァルター卿の告発も取り下げられた。監査院の調査が始まったことで、ヴァルター卿は状況を静観する側に回った。ユリアン様の副団長職も回復する見通しだとマリーヌから聞いた。  全てが解決したわけではない。監査院の調査はまだ続いている。嵐の夜の男の正体もわからない。叔母との関係は断絶したままだ。母の死の真相について、叔父が言いかけてやめた言葉がまだ胸の奥に引っかかっている。  けれど——窓辺のタイムの花が、静かに揺れている。花の数が増えた。茎の脇からも小さな蕾が出ている。この鉢は、叔父の家の屋根裏から私と一緒にここに来た。植物は場所を選ばない。光と水があれば、どこでも根を張り、花を咲かせる。私もそうでありたい。  ここが、私の新しい場所だ。  夕暮れの光が窓から差し込んで、部屋全体を橙色に染めた。下宿の壁の染みが、夕日に照らされて影絵のように見えた。何の形に見えるだろう。手紙を読んでいる人の横顔。そう見えた。  階下の洗濯屋から、石鹸の匂いと水をこする音が上がってきた。誰かの生活の音。この下宿には、私以外にも住人がいるのだろう。隣の部屋から椅子を引く音がした。壁一枚の向こうに、別の人生がある。叔父の家では、壁の向こうにあったのは監視と沈黙だった。ここでは——ただの人の暮らしがある。  窓を開けた。夕風が入り、タイムの花を揺らした。甘い清涼な香りが部屋に広がった。この香りが、ここを私の場所にしてくれる。どんな壁の染みも、軋む床板も、この香りがあれば居場所になる。

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