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十年ぶりの涙が精霊王を起こす

第1話 精霊王の手

第1話

精霊王の手

「リーゼ。今夜はやめておいたほうがいい」

鏡台の上で、風の精霊が小さな声で言った。

舞踏会用のドレスを着せられたばかりの私は、鏡越しに彼の方を見た。手のひらほどの大きさの、透き通った翼を持つ風の精霊だ。名前はない。精霊に名前はない。でも彼らは私の唯一の「お友達」で、私が七歳の時からずっと私の周りにいた。

「今夜って、舞踏会?」

「うん。変な匂いがする。王宮の方角から、まだ少し遠いんだけど、嫌な匂いが流れてきてる。フィルベルト殿下の周りに、悪意のかたちをした何かが巻きついてる感じ」

「悪意のかたち?」

「ミミ男爵令嬢に近い。最近、殿下の周りに、あの子の気配ばかりが濃くなってる。風の道がずっと歪んでるんだ」

私はため息をついた。今さら驚くことでもなかった。この一ヶ月、フィルベルトが私の顔を見るたびに顔をしかめる頻度は露骨に増えていた。卒業舞踏会の前に、何かが起こることは、私もなんとなく予感していた。

「大丈夫。行くよ。欠席したら、それこそ何を言われるか分からない」

「……リーゼ」

「ね、ありがとう。心配してくれて」

私は指先で風の精霊の小さな頭をそっと撫でた。彼はほんの少し安心したように翼を震わせ、それから私の髪の中へと飛び込んだ。そのまま舞踏会場まで付いて来る気らしい。

父が馬車の扉を開けてくれた。父の手のひらは、今夜もほんの少し冷たかった。七歳の冬の夜から、十年間ずっと冷たいままだ。「リーゼ、その話は、絶対に、誰にもしてはいけないよ」と震える声で言ったあの夜の、あの冷たさが、父の手のひらに染み付いてしまっている。

「いってらっしゃい」

父の声は、今夜もまた震えていた。

---

「リーゼロッテ・エスフィーア! ここに前へ出てきなさい!」

大広間の天井に、王太子フィルベルトの声が跳ね返った。

私の髪の中に潜んでいた風の精霊が、びくりと身を縮めた。「やっぱり」と彼の小さな声が聞こえた。「やっぱり、今夜だった」

私は静かにグラスを置いた。赤い果実水の水面が揺れ、隣に浮いていた水の精霊が小さな波紋を作った。大丈夫、と私は唇の形だけで彼らに告げた。大丈夫、あなたたちを巻き込ませないから。

ドレスの裾をひと掬いして、大広間の中央へ歩き出した。貴族たちが左右に道を空けた。その動作にあるのは、汚物を避ける類の嫌悪だった。中央のシャンデリアの下に、フィルベルトが立っていた。彼の腕に、男爵令嬢ミミがしがみついている。私と目が合うと、ミミは口の端だけで笑った。

その瞬間、私の髪の中で風の精霊が息を呑んだ。

「……リーゼ」小さな声で彼が囁いた。「あの子、普通じゃない。人の皮をかぶった何かが、中に入ってる」

私は表情を変えなかった。変えられなかった、というほうが正しい。

「私はお前との婚約を、本日この場で破棄する!」

フィルベルトの声が会場に響いた。どよめき。視線。囁き。

「お前は長年、学園の中庭で誰もいない空中に向かって話しかけていた! 気味の悪い独り言を、皆が何度も見ている! 挙げ句の果てに、ここにいるミミを呪詛で呪った疑いまである!」

私は心の中で小さく苦笑した。

中庭で私が話していたのは、いつも風の精霊だった。彼らは私の靴の上で転げ、スカートの裾で鬼ごっこをし、学園の噂話を聞かせてくれた。それを「気味の悪い独り言」と呼ばれるのは、もう慣れた。十年間ずっとそうだったから。

ただ、ミミを呪ったというのは――違う。呪ってなどいない。むしろ、今この瞬間、呪いに近い「何か」が、ミミの側から立ち昇っているのを、私の髪の中の風の精霊が感じ取っている。

この場でそれを告発することは、できない。

言ったところで、誰にも信じられない。いや、信じられる前に、私は「気味の悪い令嬢」として火刑台に送られる可能性さえある。七歳の冬に父が震えながら言ったのは、たぶん、そういう世界を父が知っていたからだ。

「申し開きは?」

フィルベルトの声には、私への興味が一欠片もなかった。

「――ございません」

私は静かに答えた。

会場の空気が一瞬で冷えた。フィルベルトの眉がほんの少し不快そうに寄った。期待した場面と違う。それが分かった。

「婚約は破棄してくださって結構です。本日付けでエスフィーア家を出ます。辺境の祖母の屋敷へ、一人で参ります」

「ふん。賢明だな」

フィルベルトの返事は早すぎた。私を早くここから消したいのだ。

私は背を向けた。

背中に囁きの刃が無数に突き刺さった。「気味の悪い令嬢」「妄言を吐いて」「やっと解放された」――。けれど私は振り返らなかった。振り返ったら、私の髪の中の風の精霊が、私の代わりに泣いているのが見えてしまう。

大広間の重い扉を、私は自分の手で押し開けた。

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王宮の庭園に出ると、月が中天にかかっていた。

石畳はしんと静まり返り、噴水の水音だけが微かに響いていた。私は噴水のふちに腰を下ろした。

「……ごめんね」

髪の中の風の精霊に、私は小さく言った。

「君たちを巻き込めない。辺境の屋敷に着いたら、もう少し、普通に話せる場所を作るから」

「リーゼ」

風の精霊が、そっと髪から出てきた。彼の小さな瞳に、困惑と心配と、それから――今まで見たことのない種類の緊張が滲んでいた。

「リーゼ。さっきから、庭園の気配が変なんだ。月の光の密度が、今夜だけ、おかしい」

「え?」

「何か、ずっと古いものが、目を覚まそうとしてる」

私が空を見上げた瞬間、ぽろりと、たったひと粒、涙が頬を伝った。

自分でも予期していなかった一粒だった。十年ぶりの涙だった。月の光を吸って、石畳にぽつりと落ちた。

――風が、止まった。

庭園の空気が、時間を抱いて眠るように凍った。月の光がいつもより青く、石畳のすべてが薄く銀色に輝き始めた。髪の中から出ていた風の精霊が、ふるりと震え、そして――深々と、空の方角に向かって頭を垂れた。

私の前に、誰かが立っていた。

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人型だった。けれど輪郭は風に揺らぎ、髪は星の光でできていて、瞳の中には深い夜の宇宙が広がっていた。背の高い若い男の姿。ただしその「若さ」は、千年擦り切れなかった種類のものだった。

「泣くな、我が主、リーゼロッテよ」

声が、直接頭の中に届いた。

「あなたは――」

「私はエルセオン。古い言葉で精霊王と呼ばれる者だ」

精霊王。神話の中にだけ存在する名前。家庭教師が一度だけ、古い書物の行間で口にした名前。「自分にふさわしい主が現れた時にだけ目覚める」と書かれていた名前。

私の肩で、風の精霊がかすれた声で囁いた。「本物だ、リーゼ。本当に、千年ぶりに目覚めた方だ」

「お前の眼差しが千年の封印に細い亀裂を入れていた。そして今夜、お前の涙の一滴が、最後の封印を解いた」

「私の、ひと粒の涙が……?」

「精霊を視る者は数多くいる。だが、精霊の悲しみを自分の悲しみとして涙する者は、千年に一人もいなかった。お前こそが、私が待ち続けた主だ」

エルセオンは星の光でできた手を、ゆっくりと差し出した。

「契約してくれるか、リーゼロッテ・エスフィーア。お前が我が主となるなら、私は眠ってきた精霊王の力のすべてを、ためらいなく差し出そう」

私は震える指をその手に重ねた。

触れた瞬間、世界が一変した。頭の中に膨大な知識が流れ込んできた。風、水、土、火、そして――未来を視る方法。私は膝をつきそうになり、エルセオンの手が私を静かに支えた。

「これからは、お前こそが、私の唯一の主だ」

私は恐る恐る、未来視を少しだけ使ってみた。

見えた。

数年後、神聖国家アルティスの王宮の玉座に、私自身が座っている光景。頭には金色の冠。肩には白い精霊の羽衣。足元には、膝をついて頭を垂れるフィルベルトと――ミミの姿。ミミの輪郭の奥に、人ではない何かの影が、うっすらと透けて見えた。

私は、息を呑んだ。

「エルセオン。一つ訊いていい?」

「なんなりと、我が主よ」

「ミミ・男爵令嬢の中に、何か、別のものが入っていませんか」

エルセオンの瞳の奥で、夜の宇宙が、ほんの一瞬、鋭く光った。

「――視えたのか。初夜の主にしては、恐ろしく鋭いな」

風の精霊が、私の髪の中でぎゅっと小さくなった。

「ではやはり」

「その話は、辺境の屋敷へ向かう道すがら、ゆっくりとしよう。今はまず、この場から離れる方がいい。呪いのかたちをしたものは、主を取り戻した精霊王の気配に、すぐ勘づく」

私はゆっくりと微笑んだ。誰にも見せたことのない、本物の微笑みだった。

婚約破棄の夜の幕が開いたばかりで、もう次の謎の幕が上がっていた。それでも不思議と、私の足は震えていなかった。

「エルセオン。参りましょう。辺境の祖母の屋敷へ」

「承知した、我が主よ」

精霊王は深く頷き、私の手を取った。

歩き出した私の背後で、舞踏会場の音楽はもう別の世界のもののように遠かった。フィルベルトもミミも――いや、ミミの中にいる「何か」も、まだ私を「気味の悪い令嬢」だと信じているのだろう。その嘲笑が、いずれ静かな後悔に変わる日が来ることを、私はもう未来視の力で知っていた。

神聖国家アルティスの長い夜が、ここから始まる。

十年ぶりの涙と、千年ぶりの王と、人の皮をかぶった何か。三つの秘密を抱えたまま、私の夜が始まる。

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