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断罪の守護聖人

第3話 第3話

第3話

第3話

路地に入ってすぐ、俺は少女の手を引いて、荷車の陰に身を沈めた。

 石壁と石壁の隙間は、大人がひとり肩を縮めれば通れる程度の幅しかない。昼下がりの陽が斜めに差し込み、積まれた空樽の腹に苔の筋を浮かび上がらせていた。どこかの窓から、子どもが歌う節回しが、途切れ途切れに降ってくる。そのすぐ上に、硬い靴音が重なった。 「……来たな」  俺は小さく呟く。広場から外れた方角、石畳の奥から、今度は揃った足音が近づいてくる。三人ではない。十は下らない。先ほどの三人が応援を呼びに走った、その応援だ。応援にしては早すぎる。最初から、街のどこかに控えていた部隊がいたと見るのが自然だった。  少女の指が、俺の袖をきゅっと掴んだ。 「……逃げないの」 「逃げると、お前の足が追いつかない」  掠れた答えだったが、嘘ではなかった。銀髪の少女の足首は、細く、片側がわずかに腫れていた。さっき突き飛ばされたときに捻ったのだろう。走れば、まず転ぶ。転べば、捕まる。  それに、と俺は内心で付け加える。  ここで逃げてしまえば、この少女は明日もまた、同じ棍棒の下に立たされる。ならば、今日のうちに、棍棒を振る手のほうを止めたほうが早い。 「耳を塞いでおけ」 「え」 「音はしないが、念のためだ」  少女は素直に両手で耳を覆った。水色の瞳だけが、荷車の影から俺を見上げている。怯えと、ほんの少しの信頼が、半分ずつ混じった目だった。前世の裁判のときに、俺が欲しかったのと、たぶん同じ種類の目だ。  足音が、路地の入口で止まった。

「出てこい。銀髪の娘を匿っている者だな」  よく通る声だった。先ほどの三人とは明らかに違う、命令に慣れた響き。俺はゆっくりと立ち上がり、荷車の陰から路地の中央に歩み出た。少女は置いて、ひとりで。  路地の入口を塞いでいたのは、十二人の領主兵だった。革鎧ではなく、胸当ての揃った正規兵の装いで、先頭に立つ隊長格は、鞘の装飾に金が入っている。抜き身の剣を肩に預け、退屈そうな顔でこちらを値踏みしてきた。 「……その面だと、さっきの三人を脅したのはお前か」 「脅してはいない」 「ほう」 「下がれと言っただけだ」  隊長が、ふっと鼻で笑った。部下たちも追随して、低い笑いが路地に満ちる。十二の鉄の気配が、俺ひとりに向けて、ゆっくりと集束していく。 「威勢だけは一人前だな、痩せっぽち。剣も持たずに、何を下がらせるつもりだ」  俺は答えず、ただ、念じた。

 ──守護。

 それだけでよかった。  足元の影が、一息に広がった。路地の幅いっぱいに、黒が流れ込む。石畳の継ぎ目を黒が塗り潰し、次の瞬間には、俺と兵士たちの間に、黒銀の鎧が音もなく立っていた。兜の奥で、青白い光が二つ灯る。前の時より深い光だ。夜の底から引きずり上げてきたような、濁りのない青。  隊長の笑いが、途中で止まった。 「な──」 「やめろ」  俺は、一言だけ、言った。  声を張り上げたわけではない。怒鳴ったわけでもない。ただ、普通に言っただけだ。それなのに、その二文字が、路地の空気を割った。  騎士は、動いた。  いや、動いたのかどうか、俺の目にも確信はなかった。ただ、気づけば先頭の隊長の剣は、鞘に納まった状態で、持ち主の腰から外されていた。帯革ごと、である。隊長はそれに気づかず、空の腰に手を添えようとして、ぎくりと固まった。  二人目の兵士の槍は、石突きを上にして、逆さに地面へ差し込まれていた。穂先は石畳にめり込み、石に傷ひとつつけないまま、ただ、そこに植わっていた。  三人目の盾は、すでに本人の背中に回されていた。革紐の結び目が、きちんと結び直されている。まるで別人が、その兵士を後ろから支度し直したかのような整い方だった。  四人目の兜は、目深にずり下ろされて、視界を塞いでいた。  五人目の剣帯は、隣の兵士の剣帯と、ゆるく結ばれて繋がっていた。  誰ひとり、血を流していない。誰ひとり、殴られていない。倒れている者もいない。ただ、戦う準備だけが、一人残らず丁寧に解かれていた。  十二人が、自分の身に起きたことを、順番に理解していく。その表情は、恐怖というよりも、むしろ、幼い子どもが悪戯をされたときの顔に近かった。誰を責めていいのかわからない、という顔。 「……下がれ」  俺はもう一度、同じ言葉を、同じ高さで言った。  隊長は、今度は何も言い返さなかった。唇が小刻みに震え、喉の奥で、言葉にならない音が一度だけ鳴った。部下たちは、互いの顔を見合わせる余裕さえなく、自分の腰や手元を忙しなく触っては、何かを確かめようとしていた。剣がない。槍が逆さだ。盾が背中にある。兜が下がっている。──そのどれもが、抵抗を不可能にしていた。抵抗を不可能にしたまま、怪我はひとつもさせていない。  それが、いちばん恐ろしかったのだろう。  先頭の隊長が、がくりと片膝をついた。力が抜けた、という膝のつき方だった。つられるように、後ろの兵士たちの足がふらつく。誰かが、声にならない呻きを漏らした。騎士は、一歩も動かずに、ただ路地の中央に立っている。それだけで、十二人分の戦意が、路地の端から順番に、水のように引いていった。

「……化け物だ」  誰かが呟いた。兵士のひとりだったのか、それとも、路地の入口に集まり始めた見物人のひとりだったのか、俺には区別がつかなかった。  振り返ると、いつの間にか、路地の入口には人垣ができていた。広場から流れてきた者たちだ。果物を買いに来ていた老婆。荷を担いだ行商人。鍛冶の前掛けをしたままの男。耳の長い少女と、彼女を連れた痩せた旅装の男と、無傷で立ち尽くす十二人の領主兵と、その間に立つ黒銀の騎士を、彼らは言葉もなく見ていた。  ざわめきが、遅れて広がっていく。  化け物、と言った声に、別の声が重なった。 「いや、違う。兵士が、誰も怪我してない」 「見ろ、剣も槍も、壊されてない。ただ……取り上げられただけだ」 「あんな制圧の仕方が、あるか」  ざわめきは、恐怖の色ではなかった。困惑と、そして、奇妙な熱の入り混じった音だった。俺の耳は、その熱を、前世で一度も聞いたことがない種類のものだと判じた。処刑広場の嘲笑とも、市の値切り声とも違う。もっと静かで、もっと、戸惑いながら、何かに希望を見出しかけている、そんな音。  騎士が、俺のほうを振り返った。兜の奥の青い光が、俺を見上げる。指示を待つ目だった。今この場で兵士全員の首を刎ねることも、たぶん、こいつには造作もない。だが、俺はゆっくりと首を振った。 「戻れ」 「御意」  黒銀の輪郭が、音もなく影に沈む。足元の黒が、ことりと鳴いて元に戻った。  俺は、膝をついたままの隊長を見下ろした。 「その娘に、税は課されていない。課されていたとしても、棍棒で徴収するものじゃない。帰って、上にそう伝えろ」  隊長は、返事をしなかった。代わりに、こくこくと、何度も肯いた。  俺は、それで十分だと思った。  十二人の兵士たちは、互いに支え合うようにして、路地を出ていった。誰も、剣を構え直そうとはしなかった。構え直しても、無駄だと、もう知ってしまった者の背中だった。見物人の人垣が、彼らを通すために、ゆっくりと左右に割れた。

 路地の静けさが戻ってから、俺は荷車の陰に戻り、少女の手を取って立ち上がらせた。少女の耳からは、もう手が外れていた。いつから見ていたのかはわからない。ただ、水色の瞳の奥には、さっきまでとは違うものが灯っていた。怯えでも、困惑でもない。もっと、深いところで何かを確かめようとする目だった。 「……あなたは」 「名乗るほどの者じゃない」  俺は、できるだけ軽く答えた。少女は、それ以上、問い返してこなかった。ただ、俺の袖を掴む指先が、さっきよりも、ほんの少しだけ強くなった。  人垣は、まだ散らなかった。散らないまま、俺たちのほうを見ていた。  なるほど、と俺は内心で呟く。  前世で俺を断頭台に送ったのは、金で買われた証言者と、それを鵜呑みにした民衆だった。民衆は、強い者の言うことを信じる。棍棒を振る側が強ければ、棍棒を振る側を信じる。だが、今日、ここで、棍棒を振る側は、棍棒を取り上げられた。血ひとつ流さずに、取り上げられた。  ならば、民衆の「強い者」の定義は、今日から、少しだけ書き換わる。  胸の奥で、冷たい確信のようなものが、ことりと音を立てて据わった。  この力で、一人ずつ、取り上げていけばいい。棍棒を。剣を。絞首縄を。そして、それらを振るってきた手のほうを。血を流させずに、ただ、丁寧に、取り上げていく。前世の俺に誰もしてくれなかったことを、俺が、この世界で、誰かのためにやる。断罪、という言葉が、はじめて、俺の中で具体的な形を持った。  少女の指が、俺の袖を握ったまま、小さく震えていた。 「歩けるか」 「……うん」  俺たちは、路地の奥へ、ゆっくりと歩き出した。見物人たちは、割れたまま動かず、俺たちが通り過ぎるのを見送った。誰かが、小さく頭を下げた気がした。誰かが、何かを呟いた気がした。守護、と聞こえた気もしたし、聖人、と聞こえた気もした。気のせいかもしれなかった。

 路地を二度曲がり、三度曲がり、広場の喧騒が遠くなったところで、少女がふいに立ち止まった。  俺を見上げる目は、もう、怯えてはいなかった。 「わたし、リナ」  細い声が、夕方に傾きはじめた陽の中で、はっきりと聞こえた。 「エルフの……末裔。あなたが追い払ったのは、ただの税吏じゃない。この街で、わたしたちを狩ってる人たちの、ほんの末端」  俺は、黙って続きを待った。 「本当に悪いのは、もっと上にいる。ずっと、上に」  少女の水色の瞳が、夕陽を受けて、わずかに金色に染まった。その奥で、何かが、静かに俺を試していた。  影の中で、黒銀の騎士が、かすかに身じろぎした気がした。

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