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断罪の守護聖人

第2話 第2話

第2話

第2話

井戸の陰から踏み出した一歩は、思っていたよりも軽かった。

 石畳の継ぎ目に爪先が引っかかる。転びかけて、踏みとどまる。体はまだ、この世界の重力に慣れていないらしい。それでも、足は前に進んだ。前世で最後に歩いたのは、処刑台までの十三段だった。あのとき、膝は笑っていた。今は、笑っていない。 「──逃がすな!」  怒声がもう一度響く。人波が左右に割れた。見物する者と、巻き込まれまいとする者。どちらも、少女には手を差し伸べない。見覚えのある光景だ、と思う。前世で俺が引きずられていったときも、広場はちょうどこんな色をしていた。  少女は露店の柱の陰に身を寄せていた。兜は転がり落ち、長い銀の髪が、土埃にまみれて肩に張りついている。耳の先が、布の隙間から覗いていた。人間のそれよりも、わずかに尖っている。  兵士は三人。革鎧に、領主家のものらしい青い徽章。先頭の男が、棍棒を肩に担いでいた。 「税を踏み倒した上に、人間の市に紛れ込みやがって。ご領主様がどれほど慈悲深いか、その耳で聞かせてやる」  笑いながら、男は棍棒を振り上げた。  俺は、距離を測る。十歩。八歩。  走る必要はない。

 ──念じる。

 足元の影が、ことりと鳴った。石畳の継ぎ目に落ちた黒が、水のように盛り上がる。音はない。だが、空気の密度が変わったのを、皮膚が拾った。耳の奥が、一瞬だけ詰まる。高い山に登ったときの、あの感覚に似ていた。鼻先を、鉄と、それから古い雪のような匂いがかすめていく。舌の上に、わずかに金気が残った。影が、俺の呼吸に合わせて呼吸している。そう錯覚するほど、足裏の石が、ひとつ分だけ冷たかった。  黒銀の騎士は、今度は膝をつかなかった。  立ったまま、俺の半歩前に現れた。兜の奥で、青白い光が二つ、静かに瞬く。真昼の広場で、その一角だけが、ふっと夜になったようだった。頭上の陽射しは変わらないのに、騎士の肩の上にだけ、薄い霜が降りているように見える。広場の喧騒が、一枚布を隔てた向こう側に退いた。露店の軒で揺れていた風鈴の音さえ、途中でふつりと途切れたように遠く、近くで数珠を繰っていた老婆が、その手を止めたまま口を半開きにしているのが、視界の端をかすめた。どこかの赤ん坊が泣きかけた声までが、喉の途中で呑まれていく。甲冑のどこにも継ぎ目が見えないのに、関節だけが、生きもののようにわずかに呼吸している。  棍棒を振り上げた男の動きが、止まる。  いや、止まらされた。騎士が手を伸ばしたわけではない。ただ、そこに立っただけだ。それだけで、男の腕は宙で凍りついていた。まるで見えない糸が、肘の内側をやわらかく絡め取っているかのように。男の喉仏が、ごくりと大きく上下した。日焼けした顔から、血の気が、上から順に引いていくのが、はっきりと見てとれた。 「な、なんだ、お前──」 「下がれ」  低く、短い声が俺の口から出た。自分でも少し驚くほど、落ち着いた声だった。喉の奥に、他人の手が添えられて、音の高さを整えてくれたような、そんな感覚があった。  兵士たちの視線が、俺に集まる。十八の痩せた旅装の男。剣も持っていない。巾着には銅貨が数枚。どう見ても、脅威ではない。  先頭の男が、ようやく舌打ちをした。舌打ちのはずが、唇は乾いて、ぱさりと乾いた紙の音しか立たなかった。 「どこの食い詰めだ。引っ込んでろ、痛い目を見る前に」  棍棒が、ようやく動き出す。今度は俺に向かって。  俺は、動かなかった。  動く必要がなかったからだ。  騎士の指が、すっと伸びた。ただそれだけで、棍棒は手のひらの中で折れた。乾いた音もない。木が、蝋のようにぐにゃりと曲がり、男の握力ごと受け止められて、ぽとりと石畳に落ちた。続けざまに、騎士の左手が男の胸を軽く押す。本当に、軽く。赤子の額を撫でるよりも、なお柔らかく見えた。それだけで、革鎧の男は二歩、三歩と後退して、果物の籠に尻から突っ込んだ。  赤い実が、ころころと転がる。甘酸っぱい匂いが、立ちのぼった汗の匂いに混じって、俺の鼻先をかすめた。  二人目が剣を抜きかけた。抜き切る前に、鞘ごと、騎士の手に握られていた。いつ動いたのか、見えなかった。俺の目には、ただ黒銀の影がわずかに揺れた程度にしか映らなかった。鞘の革が、きしりと短く鳴いた。抜きかけた男の指が、柄からずるりと滑り落ちる。爪の先が、白くなっていた。 「──やめておけ」  俺の声は、自分の耳にも他人のもののように聞こえた。 「その娘を、放せ」  三人目は、もう棍棒を握ったまま、動けずにいた。顔色が、じわりと白くなっていく。額から伝った汗が、顎の先で震え、石畳に落ちて小さな黒い点を作った。広場のざわめきが、潮が引くようにやんでいく。誰かが、息を呑む音さえ聞こえた。遠くで、犬が一声、短く鳴いてやめた。

 兵士たちは、結局、棍棒を拾いもせずに退いていった。  先頭の男が、一度だけ振り返って、唾を吐く真似をした。だが、唾は飛ばなかった。口の中が、からからに乾いていたのだろう。足音は、来たときよりもずっと乱れていた。揃わない三人分の靴音が、石畳の上で互いを踏みそうになりながら、早足に路地の奥へと遠ざかっていく。途中、先頭の男の鞘の先が柱にぶつかったらしく、かつんと間の抜けた音が、広場の静けさの底に、ひとつだけ落ちた。  彼らの背が人波に消えてから、俺はようやく、騎士の肩に触れた。金属の表面は、真夏の昼間だというのに、指が一瞬痺れるほど冷たかった。触れた指先から、腕の付け根まで、細い針のような寒気が一息で駆け上がっていく。 「戻れ」 「御意」  騎士の輪郭が、すっと薄くなる。霧のように、俺の影へ沈んでいく。広場の光が、また元の昼に戻った。見ていた者たちのうち、半分は何が起きたのかまだ呑み込めていない顔をしている。残りの半分は、俺を見ていた。  まずいな、と思う。  目立つと殺される。前世で骨身に染みた教訓だ。この世界でもそれは変わらないだろう。  だが、目の前には、銀の髪の少女がいた。  まだ、うずくまったままだ。膝が震えている。俺を見上げる瞳は、薄い水色で、怯えと、それから、困惑が半分ずつ混じっていた。助けられた、という認識が、まだ追いついていない顔だった。長い睫毛の先に、涙とも汗ともつかないものが、ひと粒だけ、震えながら留まっている。 「立てるか」 「……どうして」  少女の声は、掠れていた。喉の奥で、一度、言葉が引っかかって、それから、ようやく押し出された声だった。 「どうして、助けたの。人間が、エルフを」  俺は、一瞬、答えに迷った。  前世の記憶がある、とは言えない。処刑台の上で誰も助けてくれなかったから、とも言いたくない。そのどちらも、この少女には重すぎる理由だ。  だから、俺は、いちばん短い答えを選んだ。 「気に入らなかった」  少女は、瞬きをした。水色の瞳の奥で、何かが、ゆっくりと焦点を結び直すのが見えた。 「三人がかりで、ひとりを棍棒で殴ろうとしていた。それが気に入らなかった。それだけだ」  少女は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、地面に落ちた兜を拾った。埃を払って、被り直そうとして、やめる。俺の前で耳を隠すことに、何か意味を感じたのかもしれない。指先が、兜の縁を一度だけ強く握りしめて、それから、力を抜いた。 「……ありがとう」  囁くような声だった。風に溶けてしまいそうなほど細いのに、その一音だけが、やけにはっきりと俺の鼓膜に残った。  俺は、肯きもせずに、広場の向こうに目をやった。兵士が消えた路地の奥では、まだ、硬い靴音が遠ざかっている。一人で引き下がる種類の足音ではない。応援を呼びに行く足音だ。  影の中で、騎士が身じろぎする気配がした。

 なるほど。  俺は、内心で呟く。これが、女神の言う「詫び」の本当の重さか。  たった一度、影から騎士を呼んだだけで、三人の兵士が退いた。広場の空気が変わった。銀髪の少女が、俺を見上げている。たぶん、この広場にいた全員の記憶に、今日の光景は、くっきりと焼きついただろう。  ──千の軍勢も、万死に値します。  騎士の、あの低い声が、耳の奥で鳴り直す。  つまり、この力は、使えば使うほど、俺を「見つけやすくする」力でもある。 「おい」  俺は、少女に手を差し出した。 「ここにいると、またあいつらの仲間が来る。歩けるなら、路地に入れ」  少女は、こくりと肯いて、俺の手を取った。細い指だった。指先が、まだ微かに震えている。立ち上がらせた拍子に、銀の髪から、乾いた薬草のような匂いがふわりと立った。  人波の隙間を縫って、俺たちは広場を離れる。背中に、視線を感じた。ひとつではない。ふたつ、みっつ。たぶん、それ以上。見物人の中に、明らかに兵士とは違う種類の目が、混じっていた。路地の角を曲がる寸前、石畳の上で、何かの硬い靴が、ことりと動いた気がした。  二つの月の下、俺の二度目の人生は、さっきやっと始まったばかりだ。  それなのに、もう、誰かに見つけられはじめている。

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