第1話
第1話
刃が落ちる音を、俺は確かに聞いた。
首筋に走ったのは、痛みですらない、ただの冷たさだった。視界が斜めに傾いで、石畳に散った自分の髪が妙に鮮明に見える。広場を埋めた民衆の顔。嘲笑。石礫。唾。誰一人として、俺の名を呼ばなかった。 「──冤罪、だぞ」 声にならない声で呟く。貴族令嬢への暴行容疑。やってもいない。仕組んだのは婚約を破棄したかった第二王子で、俺はただ、その令嬢に家庭教師として雇われていただけの平民だった。証言者は金で買われ、弁護人はつかず、裁判は半日で終わった。 誰も、守ってはくれなかった。 意識が闇に沈む寸前、闇の底から光が伸びてきた。金色の、柔らかい光。その中心に、人のかたちをした何かが立っている。 「──あなたは、選ばれし器」 声は、耳ではなく胸の奥に直接落ちてきた。 「理不尽に殺された魂を、世界は長く見過ごしてきました。今度は、世界があなたに詫びる番です」 女神、と直感した。白い衣。金の髪。瞳だけが、なぜか深く沈んだ夜の色をしていた。その額に、見慣れぬ紋章が一瞬だけ浮かんで、消えた。 詫びる? 誰が。何を。 問い返そうとした瞬間、光が爆ぜた。
◇
目を開けたとき、俺はまだ広場の石畳の上にいた。 ……いや、違う。 処刑台がない。断頭台も、見物していた民衆もいない。石畳の質感は似ているが、継ぎ目の模様が違う。見上げた空には、淡い青の中に、白い月と、うっすらと赤い月が、二つ並んで浮かんでいた。 「……月が、二つ」 自分の声で、ようやく生きていることを確かめる。首筋に触れてみる。繋がっている。痛みもない。指先でなぞると、刃が落ちたはずの位置には、薄い線状のひきつれだけがかすかに残っていた。まるで、女神が縫い目を残すのを忘れた針のように。体は処刑される直前のまま、十八の俺のままだ。着ているものも囚人服ではなく、見たこともない粗末な旅装に変わっていた。麻らしき布はごわつき、肩の縫い目から乾いた藁の匂いがした。腰には革の巾着が下がっていて、中を探ると、角の丸い銅貨が数枚と、黒パンの欠片がひとつ。誰かが──たぶん女神が──最低限の路銀を押し込んでおいてくれたらしい。 なるほど。これが、女神の言う「詫び」か。 妙に冷静な自分に、むしろ驚く。普通ならパニックになるべき場面だ。だが一度死んだ人間にとって、二つの月くらいでは心は揺れない。死のほうが、ずっと理不尽だった。 広場の隅には、市が立っていた。 見たこともない果物を並べる老婆。革鎧をつけた男たち。耳の長い少女が、兜を深くかぶって足早に通り過ぎていく。言葉は──なぜか、わかる。女神の仕業だろう。空気には、焼けた香辛料と獣脂の匂いが混じり、どこかで鍛冶の槌音が間遠に響いていた。遠くで誰かが値切り、別の誰かが笑い、赤子が泣いている。生きている音だ、と思った。前世の処刑広場にもこんな音はあったはずなのに、あのとき俺の耳は、嘲笑しか拾わなかった。 「ここは、どこだ」 呟いた瞬間だった。 視界の右上に、半透明の文字列が浮かび上がった。
──Status── 名前:アレン 種族:人間 Lv:1 スキル:【SSS:守護契約】
スキル欄は、たった一行。 だが、その一行が、他のどんな装飾よりも雄弁に輝いていた。 「SSS……?」 声に出してから、周囲をさっと見回す。誰にも聞かれていない。よかった。前世で培った「目立つと殺される」という本能が、まだ機能している。 SSS。聞いたことはないが、英雄譚に出てくるどんなランク表記よりも上だ。しかも「守護契約」。響きが不穏なほど重い。 俺は広場の端、古びた井戸の陰に移動してから、そっと意識を集中した。井戸の石枠は長年の手垢で黒ずんで、縁には苔が筋を引いていた。覗き込めば、底のほうで小さく自分の顔が揺れている。知らない旅装、知らない空の色。それでも、目だけは、前世で判決を聞いたあのときと同じ目をしていた。 ステータスが何なら、スキルの中身も読めるはずだ。 念じる。 「……守護契約、発動」 小声で、試すように。 足元の影が、波打った。 石畳に落ちた俺の影が、ぐにゃりと歪み、ゆっくりと持ち上がる。音はない。風もない。ただ、黒と銀で編まれた鎧が、影の中から滑り出すように立ち上がった。身の丈は俺より頭ひとつ分高い。兜の奥で、青白い光が二つ、静かに灯っている。鎧の継ぎ目からは、ほんのわずかに冷気が漏れていて、真夏の昼間だというのに、俺の肌がうっすら粟立った。 騎士は、片膝をついた。石畳がわずかに軋み、兜の庇がゆっくりと俺へ向けられる。 「──我が主」 低い、金属を擦るような声だった。耳の奥に直接鳴るようで、それでいて、広場の喧騒を一切邪魔しない。まるで、俺にしか聞こえないように調律された声だ。 「御身を害する者は、万津の波も、千の軍勢も、万死に値します。いかなる命も、この身にて」 俺は、しばらく黙っていた。 驚いていないわけではない。驚きすぎて、逆に声が出なかっただけだ。喉の奥が妙に乾いて、唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。 そして、だんだんと──可笑しくなってきた。 前世で俺を殺した連中。民衆。王子。裁判官。あの刃を落とした執行人。誰一人として、俺のために剣を抜いてはくれなかった。家庭教師として毎日顔を合わせていた令嬢ですら、最後には俯いたまま、こちらを見なかった。なのに、ここでは──見知らぬ伝説の騎士が、会ってたった数秒の俺に、命を捧げると言う。 笑いの発作は、腹の底からではなく、胸のもっと奥の、凍っていた場所から滲み出してきた。泣くのと、どう違うのかよくわからない震え方だった。 「……なるほど」 俺は口元だけで、小さく笑った。 「これは、チート判定で間違いないな」 冷静に、そう結論づける。 騒いではいけない。膝をついたまま微動だにしない騎士を、俺はもう一度じっと見下ろす。黒銀の鎧。紋章は──ない。否、胸の中央に、ごくうっすらと、見覚えのある印が浮いていた。 さっき女神の額で、一瞬だけ光った、あの紋章と同じものだ。あのとき見た夜の色の瞳が、脳裏でゆっくりと瞬く。詫びる番です、と女神は言った。ならばこの騎士は、詫びの形そのものなのかもしれない。 「……お前の名前は」 「主が与えたもうもの」 「じゃあ、まだ名前はないんだな」 「は」 俺は少し考えて、やめた。名前は、もう少し落ち着いてからでいい。適当につけて後悔するのは、前世で飼った犬で学んでいる。今はそれよりも、確かめておくべきことがある。 「立て。目立たないところに戻れるか」 「御意」 騎士は音もなく立ち上がり、そのまま霧のように俺の影へと沈んでいった。足元の影が、ほんの一瞬だけ濃くなって、元に戻る。影の縁が、ことりと石畳に馴染む音さえ聞こえた気がした。 誰にも、見られていない。 俺はゆっくりと息を吐いた。吐いた息は白くはならなかったが、胸の中に長くわだかまっていた何かが、ほんの少しだけ薄らいだのがわかった。 前世の記憶は、まだ首筋に刃の冷たさを覚えている。民衆の嘲笑も、捏造された証言も、判決を読み上げた裁判官の乾いた声も、全部、覚えている。忘れる気もない。忘れてしまったら、この二度目の命に、意味がなくなる気がした。 だが、今の俺には、たった一行のスキルがある。 そのとき、広場の向こうで、怒声が上がった。 「──逃がすな! そこのエルフの娘だ!」 兵士の声。続いて、硬い靴音。誰かが突き飛ばされた音。果物を並べていた籠が倒れ、赤い実が石畳に転がっていく。さっき市を足早に通り過ぎていった、兜の少女の姿が、人波の向こうにちらりと見えた。細い肩が震えている。兜の隙間から覗いた横顔は、俺が最後に見た令嬢よりも、ずっと幼かった。 処刑される者の痛みを、俺は誰より知っている。刃が落ちる前の、あの、世界から名前を呼ばれない孤独を。 井戸の陰から、俺は一歩、前に出た。石畳を踏む自分の足音が、やけにはっきりと耳に残る。影の中で、黒銀の騎士が身じろぎする気配がした。応と答えるような、静かな震え。 二つの月の下で、俺の二度目の人生は、たぶん今、この一歩から始まる。