第1話
第1話
「さわっても、いいですか。シロに」
その問いを聞くのに、悠生は半年を費やした。
振り返れば、搾乳の半ばだった。桶の底には青みを帯びた白い乳が三分の二ほど溜まっていて、指先はまだ拍子を刻んでいた。戸口に立ったレイラの声は、喉の奥が渇いたときのような、細い掠れた音だった。悠生はそのとき、自分でも気づかないうちに、一瞬だけ手の動きを止めていた。
ここから半年を遡れば、この問いの意味が分かる。遡らなければ、何も分からない。
だから話は、その朝の最初の音から始める。
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目覚ましが鳴る前に、悠生は目を開けた。
石壁の向こうで、シロが身じろぎする音がしたからだった。一トンを越える体が藁の上で重心を移すと、壁の底から低く響きが伝わる。耳というより、背中で聞く音だ。北海道の実家で祖父の牛を世話していたころから、この音で目が覚める癖だけは変わらない。
小窓の外は、乳白色の霧で何も見えなかった。三メートル先の石塀の輪郭がかろうじて分かる程度だ。霧の粒は細かく、吸い込むと鼻の奥がしんと湿る。悠生は深く一度だけ息を吸い、吐いた。霧谷の四月は、麓よりひと月半も遅れて春が来る。
作業着の上からウールの外套を羽織り、長靴に足を入れる。ヴァルツの革職人に二ヶ月がかりで作らせた、悠生のための一足だ。底は硬く、踵は分厚い。石の牧舎の床は想像以上に足に来る。道具は、身体を守る最初の砦だった。戸口の釘に掛けてあった桶を二つ手に取り、母屋を出る。桶は樫の木でできていて、内側だけを蜜蝋で丁寧に磨いてある。乳の匂いを吸わせない工夫だった。
石畳を十歩。牧舎の扉。閂は二重。上を先に抜き、下を抜く。順番を変えると扉が手前に倒れてくる。最初の週にそれで鼻を強打した。以来、順番は間違えていない。
扉を引くと、藁の匂いと温かい獣の息が、どっと外に流れ出した。
「シロ、おはよう」
低く声をかけると、奥の厩から鼻を鳴らす音が返ってきた。肩高二メートル強、雪のように白い毛並み。額から銀の一本角。両肩から半透明の翼が生えているが、先端は擦り切れて丸くなっていて、背中に畳まれたまま動かない。教会の古文書では「雲角」と呼ばれる、大陸北方に数頭しかいない伝説級の魔獣。過去千年、どの畜産家も手なずけに失敗してきた生き物。悠生がその事実を知ったのはシロと暮らし始めて三ヶ月後のことで、順番が逆でよかったと、いまは思っている。
「昨日と同じ順番、いいか」
返事はない。代わりに、頭を少しだけ下げる。それが合図だった。悠生は腰を落とし、シロの右前脚の付け根を手のひら全体でゆっくり押した。三秒。左の付け根。また三秒。乳を出す前の、身体をほぐす手順。祖父のやり方を、そのまま持ち込んだ。
木の低い椅子を引き寄せ、桶を股のあいだに挟んで座る。両手を外套の内側で三十秒温めてから、指を添えた。冷えた手で触れば乳の出が悪くなる。最初の一搾りは、桶の底ではなく横にある別の小さな木皿に落とす。乳頭の先に溜まっていた古い乳を捨てる、最初の一搾り。これを桶に入れてはいけないと、子供の頃に祖父から何度も叩き込まれた。モンスターの乳だろうと、そこは変わらない。
二搾り目から、桶へ。
ぴしゃっ、と薄い音が立って、やがてそれは細い水流のような音に変わった。指先に伝わる乳の温度は、普通の乳牛より一度だけ低い。谷の霧と同じ温度で生きている生き物だった。
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そして、鈴の音。
一頭立ての馬がゆっくり石畳を近づいてくる。蹄の音は、荷が重くない日の音だ。悠生は手の動きを変えず、顎だけで戸口の方を示した。
「レイラ、入っていいぞ。閂だけ下ろし直しといて」
「おはようございます。……今日も、霧が濃いですね」
フードを目深にかぶった娘が、厩の方を覗き込むように立っていた。十九歳、ヴァルツから週に一度通ってくる荷馬車娘のレイラ。最初にここに来た日、彼女はシロを見た瞬間に腰を抜かして馬車の後ろに倒れ込んだ。今は少なくとも立っていられる。進歩だった。
「塩、持ってきてくれたか」
「はい。岩塩ふた袋と、小麦粉三袋。あと、司祭さまから、これ」
レイラは厩の入口で立ち止まったまま、布に包まれた包みを掲げた。
「そこの木箱に置いといて。あとで見る」
「……あの」
「ん」
「さわっても、いいですか。シロに」
——そうして、話は冒頭に戻る。
悠生は一瞬だけ手を止めた。シロは顎を下げたまま、目だけをレイラの方へ動かしていた。瞳の色は、いつもの青よりわずかに深い。嫌がってはいない。けれど、積極的に許してもいない。半年かけて悠生が読めるようになった、この牛の「中立」の表情だった。
「右の肩口。翼の付け根の手前。そこだけ」
レイラはごくりと喉を鳴らして、すり足で近づいてきた。冷えた手のひらが、シロの白い毛並みに触れる。シロは一度だけ、深く息を吐いた。翼の薄い膜が、ほんのわずかに震えた。
「……あったかい」
レイラの声は、震えていた。怖くて、ではない。別の震え方だった。半年前まで、彼女はこの牛を「討伐対象の化け物」として父親から聞かされて育ってきた。その毛並みに手のひらで触れ、その温度を指先で受け取った人間は、ヴァルツの街のどこにもいない。いま震えているのは、たぶん彼女の知識と、手のひらの温度の、その差の分だった。
悠生は口元だけで小さく笑って、桶の持ち手に指をかけた。
半年間、悠生はこの牛を飼いながら、誰かにこの場所を見せる日のことを一度も想像していなかった。見せたいと思ったこともない。祖父の搾乳の手順を、ただ自分の身体の外に持ち出し、霧谷の石の上に置き直す——悠生がやっているのは、本当にそれだけの作業だった。誰かがここに立ち、シロの毛並みに触れ、その温度に声を震わせるという未来は、設計図のどこにも書かれていなかった。
それが今朝、一行だけ書き足された。
書き足したのは悠生ではなく、レイラの指先だった。悠生はただ、その指先が触れてよい場所を、二センチの帯で指定しただけだ。半年かかって指先で測り出した、この牛の「許しの線」。その線を他人に差し出したのは、今朝が初めてだった。
最後のひと搾り。雲角の乳は、人間の牛のそれよりわずかに青みを帯びている。匂いは、草と、遠い雪解け水と、ほんの少しの鉄。加工室の熟成棚でひと晩寝かせれば、この青みは消える。代わりに、舌の奥に一拍遅れて広がる甘みが出る。それがこの乳の正体だった。
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レイラを馬車で送り出したあと、悠生は加工室の窓辺に立って、搾りたての乳を素焼きの甕に移した。
そのとき、厩の奥でシロが立ち上がった。
半年間、搾乳のあと朝の餌を食べ終えるまで、シロはその場から動いたことがない。動かないことが、シロの朝の形だった。一トンを越える体が立ち上がる音は、建物全体を一度だけ、ほんのわずかに揺らした。悠生は乳を移していた手を止めて、厩の方を振り返った。
シロは顎を上げ、半ば畳んでいた翼を、肩口から一センチだけ持ち上げていた。半年で一度も見たことのない角度だった。視線は、谷の南の斜面へ向いている。
悠生もその方向を見た。
霧のなかに、二つ。いや、三つ。人影のような縦長の影が、ゆっくり動いている。馬はいない。徒歩だ。この谷に徒歩で入ってくる者は、普通ではない。ヴァルツの荷馬車がここまで半日かかる距離を、徒歩で踏み込んでくるとしたら、理由はひとつしかない。誰かを、あるいは何かを、目的があって探している者だ。
シロの翼が、もう一センチ持ち上がった。退化しかけているはずの、その薄い膜の奥で、何かが音もなく張り詰めていた。悠生はその張り詰め方を、北海道の実家で一度だけ見たことがあった。祖父が高齢で引退を決めた最後の日、一番古い雌牛が、いつもと同じ朝の餌を目の前にしたまま、ただ耳だけを後ろに向けて立ち尽くしていた。何も起こっていない牧舎の空気の中で、その牛の耳だけが、誰にも説明できない何かを先に聞いていた。
いま、シロの翼がしていることも、あの耳に似ていた。
悠生は素焼きの甕に布を被せ、熟成棚の下段にそっと戻した。それから加工室の壁に立てかけてある、長い木の棒を一本、手に取った。棒の先には、鉄の輪が結わえてある。牛を追うための道具だ。武器ではない。悠生が持っているのは、ただそれだけだった。
悠生は棒の根元を、祖父の手の感触を思い出す位置に握り直した。
霧が、ほんの少しだけ動いた。