第1話
地雷スキルのはずだった
満月まで、あと三日。 冷たい鎧戸を押し開けた瞬間、十二歳の細い腕に、十一月の夜気が容赦なく刺さった。 見上げた空には、欠けの浅い月。青白い光が、辺境の村の屋根瓦を静かに濡らしている。俺は指先で窓枠を握りしめ、声を殺して呟いた。 「……三日後。見てろよ」 誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。たぶん、前世の俺に。三千時間ぶんの攻略知識を抱えたまま、地雷スキル一つで死ぬはずだった、画面の向こうのプレイヤーに。 レイン・アルヴェール。十二歳。下級貴族の三男。 この体の名前と肩書きが、頭の内側にようやく馴染んできた。馴染んだというより、押し付けられた設定が、意識の裏側で勝手に根を張り始めている、という方が近い。だって仕方ない。この世界は、俺にとって初めて踏む異世界じゃない。三千時間、モニター越しに眺め続けてきた、忌々しいほど懐かしい場所だ。 ゲーム「エルデンロア」。 そして俺は今、そのゲームの世界に、肉体ごと落ちている。
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話は、ほんの一時間前まで遡る。 目を覚ましたとき、最初に見えたのは粗い木材の天井だった。 節だらけの梁。橙色のランプの光。藁の匂い。薄い毛布の隙間から、湿った空気が忍び込んでくる。半身を起こしかけて、俺は自分の腕を見て、固まった。 細い。白い。骨ばった、子供の腕だ。 「……子供の、腕」 口から漏れた声は、俺が知っている声ではなかった。高く、掠れ、まだ喉が開ききっていない十代前半の声。慌てて毛布を剥ぐと、胸板も、足も、何もかもが小さい。縮んだ、というより、最初からこの寸法で作られた体。 記憶の糸を、必死にたぐる。 前世の俺は、三十を少し越えた社会人だった。仕事帰り、コンビニの袋を提げて、深夜の交差点で青信号を待っていた。そこから先は、あやふやだ。金属の塊が視界の端で膨らんで、音より先に衝撃が来て――そのあとは、暗い水の底に沈むみたいに、意識が溶けた。 そう。俺は確かに、一度死んだ。 そして気づいたら、ここにいる。 頭の奥で、小さな光が弾けた。 『称号:転生者 を獲得しました』 半透明の文字列が、視界の隅にぽんと浮かぶ。ゲームのUIそのままの、十年以上見慣れたフォント。 息が止まった。嘘だろ、と口の中で呟いた。けれど、次の瞬間、壁に掛かった木彫りの紋章が目に入って、俺は本気で悲鳴を上げそうになった。 鷲と剣。 その図案を、俺は知っている。嫌というほど見たことがある。 アルヴェール家。「エルデンロア」序盤、王国北東の辺境にいる下級貴族。チュートリアル終了直後に立ち寄る村のモブ家系。三男の名前はレイン。病弱で、十二歳の冬に流行病で死ぬ設定の、名前すら覚えられない脇役。 そいつに、俺はなっていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。 前世の俺は、社会人としては平凡だったが、ゲーマーとしては本物の廃人だった。ただやり込んでいただけじゃない。使われていないスキルのテキストを読み漁り、ネタで検証記事を書き、攻略wikiの片隅に誰にも読まれないメモを残す。そういうタイプの、救いようのない廃人だった。 三千時間ぶんの知識が、頭の中に整然と並んでいる。情報があるなら、整理から始めろ。 ステータスオープン。 そう念じた瞬間、目の前の空間に、半透明のウィンドウがふわりと展開した。
――レイン・アルヴェール Lv.1 HP 18 / MP 42 筋力1 体力2 敏捷3 魔力7 器用4 スキル:《解析 Lv.1》《星読み Lv.1》
三秒、固まった。 それから、声を出さずに悲鳴を上げた。 《星読み》。 公式攻略wikiに、赤字で「取るな」と書かれていた、伝説の地雷スキル。数ある不遇スキルの中でも「特級地雷」と呼ばれた、あの《星読み》。取得時の効果説明は「占いで命中+1%」。レベリングしても効果は1%ずつしか伸びず、しかも貴重なスキルスロットを一つ潰す。取ったプレイヤーはコメント欄で半年ネタにされ続ける、歴史的な罠スキル。 よりにもよって、初期スキルがそれ。 俺は頭を抱えた。――いや、違う。待て。 毛布を握る指に、じわりと力が入った。
前世の記憶の中で、ひとつだけ、引っかかっているものがあった。 引退する少し前の深夜、俺は使われていないスキルのテキストを片っ端から読み漁っていた。《星読み》の説明文には、こう書かれていた。 「星は、見る時と場所を選ぶ者にのみ、真を語る」 ただのフレーバーテキスト。雰囲気作りの飾り文句。世界中の誰もが流したその一文を、俺だけはなぜか気にした。他のスキルの説明文と、明らかに文体が違っていたからだ。ほとんどのスキルは効果をそっけなく列挙していたのに、《星読み》だけは、まるで物語のように条件を示唆していた。 夜間。満月。屋外。 その三条件を揃えて発動したら、何かが変わるのではないか。そう仮説を立てて、俺は検証日を翌週に設定した。 設定した翌日の夜、俺はコンビニからの帰り道で死んだ。 「……試さないで、死ぬのは、嫌だ」 掠れた声で呟いて、拳を握る。 もし仮説が正しかったなら。《星読み》はゲーム時代に誰一人到達しなかった未踏領域のスキル――下手をすれば、未来視に化ける可能性がある。 もし間違っていたら? そのときは普通にレベル上げして、スキルリセットの泉で取り直せばいい。転職システムも、スキル枠の再編機能も、この世界には存在する。最悪のシナリオでも、俺は「地雷持ちの下級貴族三男」から「ただの下級貴族三男」に戻るだけだ。 問題は、時間だった。 俺は、この世界の「本当のストーリー」を知っている。三年後、王国北部に《災厄の獣》が現れる。本編のクライマックス、何度リトライしても主人公パーティが半壊する鬼畜イベント。そしてその獣の進撃ルート上には――このアルヴェール領がある。 ゲーム画面の中では、俺はモニター越しに笑って見ていた。笑える立場だった。 だが今、俺はその村の、その家の、その部屋の中にいる。 「……家族を、守らないと」 顔もまだ、はっきりとは思い出せない。 けれど、この体の記憶の奥には、薄ぼんやりと温度が残っていた。昨日、熱にうなされる俺の額に冷たい布を当ててくれた、誰かの小さな掌。前世の俺には、家族と呼べる誰かはほとんどいなかった。ゲームの中のNPCの方が、よほど俺に話しかけてくれた。 その俺が、今、肉体ごとゲームの中に落ちて、初めて知らない誰かの温度を腹の底で感じている。 だったら、やるべきことは一つだ。 廃人知識を全部使い切る。地雷と呼ばれたスキルを、本物の武器に変える。三年後の災厄までに、少なくともこの部屋の中の温度だけは、何があっても守り切る。 そう決めて――俺は毛布をはねのけ、窓辺まで歩いていった。
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そして、時間は冒頭に戻る。 冷たい鎧戸。満月まで三日の、青白い夜空。俺は今、そこに立っている。 視線を空から地上へ落とし、《解析》スキルを起動した。窓の下、屋敷裏手の林にぽつぽつと淡い文字列が浮かぶ。
――夜風草(Lv.3):微量の魔力回復。夜間にのみ採取可能。
知っている。序盤で腐るほど集めたやつだ。 ふっ、と口角が上がるのを自覚した。この世界は、俺が知っているあの世界だ。アイテム名も、スキルテキストも、内部データベースも、全部あの頃のまま維持されている。 ならば、戦える。 俺はスキル欄を開き直した。《星読み Lv.1》の文字の横に、見慣れない小さな印が一つある。細い星のマーク。ゲーム画面には絶対に出ていなかった、新規のアイコンだ。吸い込まれるように意識を集中すると、隠されていたテキストが、ゆっくりと展開した。
――《星読み》:月が満ち、星が空を支配する夜、持ち主は「一手先」を視る。 Lv.10達成時、前提条件を満たした上で発動すれば、《未来視》へ昇格する。
息が、止まった。 ゲームには絶対に、絶対に表示されていなかった一文。これは、この世界の「中の人」になった者にしか読めない、本物のスキル説明だ。 「……やっぱり、正解だ」 声が震えているのは、寒さのせいではなかった。 やはり検証仮説は正しかった。正しかったどころじゃない。《星読み》は、ゲーム時代のプレイヤー全員が見逃した、最強クラスの隠しスキル。誰も育てなかった。誰も検証しなかった。 だからこそ、俺だけが独占できる。 「三日後の満月、絶対に逃さない」 窓枠に額を押し当てて、俺は静かに笑った。モニターの前で歓声を上げた夜と同じ感覚が、十二歳の細い胸の奥で脈打ち始めている。 だが、浮かれている時間はない。 頭の奥では、前世のゲーマー脳が勝手にタスクを組み始めていた。三日以内に《星読み》をLv.10まで引き上げる。このゲームのスキルレベルは使用回数依存だから、寝る前と起床後に最低五十回。次に、敏捷と体力が低すぎる。夜明けとともに村の裏でランニングと素振り。ゴブリン一匹にすら勝てない初期ステータスのままでは、戦場どころか裏山にも出られない。 ゲーム知識は武器だ。だが、身体能力まで自動でついてくるわけじゃない。そこを勘違いした転生者から順に、この生真面目な世界では死ぬ。俺はその順番に並ぶつもりはない。
――不意に、背後の扉の向こうで、とん、とん、と小さな足音が聞こえた。 廊下の板を踏む、軽い足音。誰かが、俺の部屋に近づいてくる。 「レイン兄さま、まだ起きてるの?」 舌足らずな、女の子の声だった。 その声を聞いた瞬間、記憶の底から、ふわりと一つの顔が浮かび上がった。妹――エレナ。ゲームでは台詞すら一つも与えられていない、ただの「モブ妹」設定。病弱な兄の看病をするだけの、背景キャラ。 だが、今この世界では違う。 俺は慌てて鎧戸を閉め、布団に戻ろうとしてやめた。代わりに、扉をそっと開ける。ランプを両手で抱えた小さな女の子が、目を真ん丸にしてこちらを見上げていた。ぼさぼさの寝癖。薄い夜着の裾。 「……エレナ。起こしてごめんな」 その名前を口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。前世の俺には、こんな夜中に心配しに来てくれる誰かなんて、一人もいなかった。 俺は膝を折って、妹の頭にそっと手を置いた。細い髪が、指の間をすべっていく。温かい。呆れるほど、温かい。この感触だけで、俺はもう後戻りできなくなる。 「兄さま、お熱、治ったの?」 「ああ。もう、大丈夫だ」 嘘ではなかった。 本当に治った。治ったどころか、ここから始めるのだ。 俺は、地雷スキルを握りしめた十二歳の転生者として、静かに決意した。 ここは、俺の知っているゲームの世界。 そして俺は、そのゲームで誰もクリアできなかった《真・エルデンロア》を、今度こそ――この手で、現実で攻略する。 この小さな手の温もりを、三年後の災厄から守り抜くために。 満月まで、あと三日。カウントダウンは、もう、始まっている。