第3話
第3話
「お嬢さま!」とヨーゼフの叫びが、井戸口の縁に跳ね返った。「底の岩盤に、縁石と同じ——!」
私は迷わなかった。迷うという贅沢を、霜枯れの帳簿はもう許してくれない。
「私も降ります」
ヨーゼフの皺だらけの顔が、瞬時に強張った。眉の上の古い傷痕が、ランタンの光を受けて引き攣れる。
「お嬢さま、井戸の底は男の場所にて——」
「ガレン」と私は背後の老執事を振り返った。「予備の麻縄を、二重に。それから私の懐中ランタンを、紐で吊り下げて。降りるあいだ、私の右手が届く高さに保ってください」
老執事の唇が、何か言いかけて、止まった。彼の目には、昨夜書庫で会計簿の頁を捲った私の指の動きを見ていた、あの光が、もう一度灯っていた。逆らわぬ、と決めた目。彼は無言で頷き、若い下働きを呼び寄せた。命じる声は短く、けれど麻縄を結ぶ指先に、ためらいの素振りはなかった。結び目を確かめるたびに、老執事の喉仏が一度ずつ上下した。彼は私を娘のように見ていた頃の手つきを、こんな日になって取り戻してしまったのだ。
外套を脱ぐ。毛皮の重みが腕から離れ、十二月の冷気が肋骨の裏側まで一気に滑り込んだ。歯の根が、自分でも分からぬうちに鳴る。喉の奥で、空気そのものが小さな霜の粒のように刺さる。靴の踝の革紐をきつく締め直し、腰布の上から麻縄を二重に巻いた。繊維が薄い腹に食い込んで、息を吸うたびに擦れる。手袋は外した。指先で岩盤の紋様を読まねばならない。剥き出しの指先に、夕暮れの井戸風が、針のように刺さる。爪の付け根が、ほんの数瞬で青みを帯びるのが、ランタンの黄色い光の下でも分かった。
「降りるあいだ、縄を緩めず、急がず。底に着いたら、男たちは岩盤から半歩、下がってください」
縁石を跨ぐ。靴底が湿った石を捉え、苔の青臭さが立ち上った。
井戸の壁面は、想像していたより滑らかだった。湧き水が長い年月をかけて、石を撫で続けた跡。掌で触れると、冷たさよりも先に、磨かれた物のもつ独特の柔らかさが、皮膚に伝わってくる。降下は思いのほか早く、十二歩——ヨーゼフの言った深さが、私の身長に直すと十一回ほどの繰り返しに置き換わった。半ばで一度、ランタンの炎が縦に細くなり、それから立ち直る。地下に、風が流れている。換気の経路が、井戸口とは別にどこかに通じている、ということだ。私の頬を撫でる微風には、地表の霜とは違う、湿った土と、古い銅の銭を握りしめた手のひらに似た匂いが混じっていた。降りるあいだ、頭上の井戸口の円が、見上げるたびに小さくなっていく。空を切り取った青灰色の窓が、私の肩幅ほど、それから掌ほど、最後には銀貨ほどの大きさに縮んで、私を地中の暗がりへと引き渡した。
長靴の底が、湿った泥を踏む。それから、その下の岩盤の硬い感触が、踝まで伝わってきた。男たちが約束通り半歩下がって、私のために岩盤を空けてくれている。四人ぶんの汗の匂いと、湿った土の匂いと、ほんの微かに、鉄錆に似た古い匂い。誰一人、口を開かない。ただ呼吸の音だけが、四つ、不規則に重なって、井戸底の石壁に吸い込まれていく。
ランタンが、岩盤を黄色く照らし出す。
私は、息を呑んだ。
縁石の紋様の、十倍の規模だった。直径にして、私の身長を二人ぶん並べたほどの円環。八本ではなく、十六本の放射線。線と線の交点に置かれた点は、白い石灰質ではなく、黒い金属——磁鉄鉱のような、けれどそれよりも深い色合いの石が、岩盤に嵌め込まれている。円環の外側には、縁石にあったのと同じ未知の文字が、私が読み取れるだけでも四十二字、岩盤を一周していた。文字の刻みは深く、けれど縁は不思議なほどに磨り減っておらず、まるで昨日彫られたかのように鋭い影を、ランタンの光のなかに落としている。
「ヨーゼフ」と、私は喉の奥でつかえた声を絞り出した。「あなたがた井戸番の口伝えに、この井戸を最初に掘った者の名は、伝わっていますか」
「いえ……儂の祖父も、その前も、ただ『古井戸』と呼んでおりました」
老人の声は、自分の言葉そのものに怯えていた。喉の奥で何度も唾を飲み込む音が、岩盤に低く反響する。彼はランタンを掲げる手をわずかに震わせ、その震えが光の輪を揺らして、文字の影を生き物のように脈動させた。
私は屈み込んだ。膝の薄絹のドレスが、泥に浸る。けれど私は、もうそれを惜しまなかった。岩盤の中央——十六本の放射線が交わる、ただ一点の、磨かれた小さな円形の窪みに、私は人差し指を伸ばした。指の腹が、その窪みの上方一寸ほどの空気層に差し掛かったとき、皮膚の表面に、毛羽立つような微かな静電が走った。指の関節の細い産毛が、一斉に逆立つのを、私は他人事のように観察した。
伸ばす、その途中で。
私の指先は、もう、自分の意志のものではなかった。
青い、と最初に思った。
雷の青ではない。星の青でもない。もっと深い、地下水の底に沈んだ何百年ぶんの闇に、ようやく一筋差し込んだ朝の青。それが私の人差し指の先から、手首、肘、肩、鎖骨、胸郭、腹腔、骨盤、膝、踝へと、血管のなかを駆け抜けていく。痛みではなかった。けれど痛みより遥かに深い、骨の髄を細い針で繊維ごと整え直されるような、そういう感覚。耳の奥で、低い、けれど澄んだ和音が、ひとつ、長く伸びていた。和音の隙間に、誰かが石板を爪先で軽く叩くような、規則正しい鼓動の音が混じっている。それが私自身の心臓の音だと気づくのに、たっぷり数瞬を要した。
——星詠みの民。
声ではなかった。けれど確かに、私の脳の襞のなかに、その音が刻まれた。羽根ペンで紙を引っ掻いた跡が指の腹に残るような、そういう刻まれ方だった。
——星詠みの民。三百年前に滅ぼされし者。土地を読み、地脈を聴き、星辰の運行から作物の盛衰を予見せし者ども。
岩盤の上で、私は膝立ちのまま動けなかった。視界の端で、男たちが何かを叫んでいるのが分かる。けれど音は、私の鼓膜の手前で止まり、彼らの口の動きだけが、ランタンの黄色い光のなかで、ゆっくりと開閉していた。世界そのものの速度が、ほんの一拍ぶん、私から遠ざかっていた。
——汝、契約を結ぶか。土地と、血の。
私の喉が、勝手に答えていた。けれどそれは、強いられた声ではなかった。むしろ、生まれてから十八年、一度も口にしたことのない、自分自身の最も深い場所からの返答だと、私は岩盤に膝をついたまま理解していた。
「結びます」
「お嬢さま!」というヨーゼフの叫びが、ようやく私の耳に届いた、のと同時に。岩盤の十六本の放射線が、一斉に青白く灯った。光が円環を時計回りに駆け、外側の四十二字を順に走査していく。文字が一つずつ、私の脳裏で意味に翻訳されていった——星辰、地脈、血、契約、解凍、覚醒。完全な訳ではない。けれど概略は、まるで王宮の家庭教師に教わった帝国古語の語彙表のように、私の記憶に整然と並べられた。整然と、けれど一語ごとに、奇妙に重い手応えを残しながら。
足元から、こぽり、と音がした。
岩盤の割れ目から、透明な水が滲み始める。一筋、二筋、それから網目のように。三月のあいだ涸れていた地下水が、十六本の放射線に呼ばれて、土地の奥から戻ってきた。男たちが息を呑む音が、四つ、ほぼ同時に重なる。誰かが小さく、神の名を呟いた。私の指は、岩盤の中央から、ようやく離れた。離れた指先に、温度のないぬくもりが、しばらくの間、まとわりつき続けた。湧き出す水は、私の踝を浸し、薄絹のドレスの裾を黒く染めながら、どこか遠い水脈の記憶を伝えるように、皮膚の上をなだらかに撫でて昇ってきた。
立ち上がる足が、震えていた。けれどその震えは、寒さのものでも、恐怖のものでもない。指の腹に残った、土地の脈動の余韻のためだった。
井戸口に戻されると、ガレンが両手で私の肩を支えた。彼の掌は、老人のものとは思えぬ熱を帯びていて、その熱が私の凍えた肩甲骨に、ようやく現実の輪郭を取り戻させた。私は外套を受け取り、毛皮の襟に顔を埋めて、しばらく息だけを整える。日はすでに西に傾き、館の崩れた屋根の影が、井戸の縁石の半分を覆っていた。
「ガレン」と私は、声を絞り出した。「下働きのハンナを、呼んでください。あの子に、井戸が戻ったと、自分の手で台帳に書かせます。それから、領民全員に、湯を沸かす許可を。今夜は、三日ぶりの温かい食事を」
老執事は深く頭を下げ、走り出した。
私は、井戸の縁石にもう一度手を置く。さきほどまで指先に脈打っていた青い波形は、もう感じない。けれど代わりに、別の、もっと遠い震動が、私の魔力感応の片隅をかすかに撫でた。
——北、領境の向こう。
視線を上げる。霜枯れの地平線、灰色の空の縁が、ほんのわずか、不自然な紫に滲んでいる気がした。それが何かを、私はまだ知らなかった。けれど指の腹に残る土地の脈は、その紫の方角に対して、確かに警戒の波形を刻んでいた。
翌朝、北の見張り台から、最初の角笛が鳴った。