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凍土の魔女は台帳を握る

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の七時。私は東棟の窓際に立っていた。

窓硝子は半分が割れて、麻布で塞いである。その隙間から差し込む光が、剥がれかけた壁紙の薔薇柄を縞模様に切り分けていた。私の吐く息は、白く薄い扇のかたちになって、一瞬で消える。

「お嬢さま、お支度が整いました」

エルナの声に、私は振り返った。侍女の腕には、母から託された宝石箱。蓋の象牙細工に、王家紋章の鷲が彫り込まれている。エルナの指が箱の縁を撫でる動作は、まるで生き物の背を最後に撫でるようだった。

「鷲は、削ぎ落としてちょうだい」と私は言った。「象牙ごと、構わない。隣領で値が付くのは宝石本体だけ。王家紋章はむしろ、買い叩かれる材料になります」

「は、はい」

「商人ヨアヒムには、私の名を出して構いません。エイレンドルフ公爵令嬢の嫁入り道具、と。宝石商は値を疑った時ほど高く付ける生き物。出自を明かしたほうが早いの」

エルナが頷く。彼女の目元の隈は、昨夜より深くなっていた。

「それから——道中、決して馬を急がせないこと。氷の轍に車輪を取られたら、銀貨もろともあなたを失う。私は宝石より、あなたを失うほうが惜しい」

侍女の頬が、ほんの一瞬だけ赤くなった。寒さのせいだと、私は気づかないふりをした。革袋を抱え直したエルナを馬丁に預け、私は東門に立って、灰色の朝靄に消えていく馬車の轍を、しばらく見送った。

執事ガレンは、館の一階奥の小書庫で私を待っていた。

書庫と呼ぶには、悲しすぎる部屋だった。三方の書棚のうち、書物が残っているのは半分にも満たない。残った革表紙の背は湿気で歪み、白い斑点が浮いている。ガレンが机の上に積み上げていたのは、過去十年分の徴税報告書と、領内会計簿、それに領民台帳。

「お時間をいただき、申し訳ございませぬ」

ガレンが頭を下げた。その白髪の生え際が、昨夜より一段、薄くなったように見えた。

「順を追って」と私は椅子を引いた。「会計簿から。直近五年で構いません」

ガレンが帳簿を開く。私はインク壺の隣に置かれた羽根ペンを取り、欄外に自分の符牒を書き込み始めた。羽根の軸が指の腹に触れるたび、王宮の赤絨毯敷きの執務室で、宰相補佐官たちと並んで国費の頁を捲っていた日々が、薄絹のように記憶の上を滑っていく。あの頃、赤い字は紙の上の数字だった。今、目の前の赤い字は、井戸端に倒れた誰かの背中の冷たさに、直接つながっている。

赤い字。赤い字。赤い字。

天文十八年の項に、わずかに黒い字が混じっている。地代収入、二千三百クラウン。けれど支出の頁を捲ると、王都への上納金が二千八百クラウン。差し引き五百クラウンの赤字を、領主は前任者の私財で埋めていたのだ——前任者というのは、十年前に流行り病で死んだ、ガレンの主人にあたる老辺境伯。

「……ガレン」と私はペンを止めた。「先代様は、領を維持するために、ご自身の銀器をどれほどお売りに?」

老執事の喉が、ごくりと鳴った。

「最後は、奥様のご結婚指輪まで」

私は黙って頁を捲った。次の年の項に、同じ手跡で「指輪、隣領にて売却。八十クラウン」と書き込まれていた。文字の運びが、わずかに震えている。痩せた手の震えではない。涙を堪えた手の震えだ。私の指の関節が、その記述の上で一度だけ止まった。インクの粒が紙の繊維に滲んだ跡まで、十年の時を超えてなお湿っているように感じられて、私は瞼の裏側が熱くなるのを、深い呼吸で押し戻した。

「ガレン。先代様のお墓は、どちらに」

「館の裏手、古井戸の脇に」

「では、後ほど線香を上げに参ります」と私は言った。「私はあの方の負債を引き継ぎます。負債とは、銀貨の話ではない——あの方が領民を見捨てなかった、その意志の話です」

老執事は、頭を下げたまま、長い間動かなかった。机の上に置かれた手の甲に、皺の一つに沿って、わずかに濡れた線が走るのを、私は見ないふりをして、次の帳簿に手を伸ばした。窓の外で、雀が一羽、凍った枝を蹴って飛び立つ音がした。それ以外、書庫はしんと静まり返り、暖炉の入っていない冷気が、私の足首から膝へと這い上がってきた。

会計簿の次は、領民台帳。

私は最後尾の頁から逆に開いていく。死亡欄の連なりは、馬車のなかで読んだ通り。けれどその欄の隅、小さな赤鉛筆の書き込みが、私の指を止めた。

「井戸枯渇」

たった三文字。日付は三日前。書き手の筆跡は、ガレンのものではない。もっと若い、たどたどしい手跡。鉛筆の芯を強く押し付けたせいか、紙の裏側にまで凹みが透けて見える。

「この字は、どなたの?」

ガレンが頁を覗き込んで、口元を引き結んだ。

「下働きのトムの娘、ハンナでございます。十二歳。読み書きは、儂が冬の夜に少しずつ教えました。井戸が枯れたあの朝、領民台帳の隅に、自ら書き付けたのです——次の死人の名前を、誰かが書かねばならぬから、と」

私の指先が、その三文字の上で、強く押さえつけられた。

紙が、わずかに凹んだ。

——十二歳。私が王太子の婚約者として、王家紋章学の最初の課題を渡された歳と、同じ。あの日、教師に渡された羽根ペンの軽さと、今この赤鉛筆の重さの差が、私の喉の奥にひっかかった鉄の粒のように、いつまでも溶けなかった。

「ガレン」と私は、できるだけ平らな声で言った。「宝石箱の代金が届くまで、三日。それまでに、井戸を浚います。今日中に、男手を四人」

「井戸の浚いは、女子供を寄せ付けてはなりませぬ。底に何が沈んでおるか、分かりませぬゆえ」

「ええ。けれど私は、縁までは立ち会います」

老執事の唇が、何か言いかけて、止まった。

午後、館の裏手。

集まった男たちは四人。骨ばった肩、節くれだった指、痩せた頬。けれど目だけが、奇妙にぎらついていた。三日後に届くという麦の話が、口伝てに領を一周したらしい。希望というものは、空腹の人間の目を、こんなにも硬く灯すのかと、私は初めて知った。

最年長の男が、進み出て頭を下げた。

「ヨーゼフと申します。先代様の代から、井戸番をしておりました」

「ヨーゼフ」と私は頷いた。「井戸の構造を、教えてください」

「深さ、十二歩ほど。底は岩盤で、湧き水はその割れ目から。十年前までは、釣瓶を七度引けば、領全戸の朝の水が賄えました」

「十年前から、徐々に減ったのですか」

「いえ、減ったのではございませぬ。三月前、急に水量が落ちました。そして三日前、釣瓶が泥だけを掬い始めまして」

私は井戸の縁石に手を置いた。昨夜、苔の下に幾何学紋様を見つけた、あの場所。今は朝のうちに苔をすべて剥がさせてあったので、縁石の彫刻が白い陽光のなかに剥き出しになっている。

放射状に走る、八本の線。線と線の交点に、点が一つずつ。点の周囲を取り巻く、二重の円環。円環の外側には、私の知らない文字。神聖文字でも帝国古語でもなく、ましてや王国紋章学のいずれの記号でもない、けれど明確に「読まれることを前提とした」記号の連なり。

ヨーゼフが、私の視線の先を覗き込んで、息を呑んだ。

「これは……縁石の模様にございますか。儂、五十年井戸番をしておりますが、苔の下にこのようなものが——」

「縁石ごと、彫り直されたのでしょう」と私は言った。「五十年より、ずっと前に」

縄を腰に巻いた男たちが、互いの体に縄を結わえ合わせ、井戸の底へ下りていく。麻縄が縁石を擦る乾いた音と、男たちの靴底が石壁を叩く湿った音とが、交互に井戸口から立ち昇ってきた。私は縁石の前に膝をつき、剥き出しになった紋様の一点に、人差し指の腹を載せた。

冷たい石の感触。

その奥に、もう一つ、別の感触。脈を打つような、わずかな振動。私の魔力感応が、第七階梯の宮廷魔法のいずれにも該当しない波形を、指先で聞き取った。

——土地が、息をしている。

私は息を細くして、指を離した。今は、まだ早い。男たちが井戸の底で何を見つけるか、それを聞いてからにしよう。

風が、館の崩れた屋根の隙間から吹き降りてきた。私の前髪を、もう一度持ち上げる。私はその風に、ほんの少しだけ、香りを感じた気がした——雪と松脂の他に、もっと古い、地下深くから昇ってくる、湿った土の匂い。

井戸の底で、男たちの掛け声が止んだ。

「お嬢さま!」とヨーゼフが縁から身を乗り出して叫んだ。「底の岩盤に、何かが——縁石と、同じ模様が——!」

腰の縄が、ぴんと張った。

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