第1話
第1話
扇の骨が、私の指のなかで一度だけ軋んだ。
王宮の大広間。三百十二の硝子で組まれた大シャンデリアの真下で、王太子レオハルト・グランツバルト第三の声が、磨き上げられた大理石の床を滑っていく。
「公爵令嬢クラリス・エイレンドルフとの婚約を、ここに破棄する」
絹の襟が、首筋に擦れた。喉に張り付いていた唾を、私はゆっくりと飲み下す。背後で誰かが息を呑む音、扇の絹紙が触れ合うかさかさという音、磨き上げられた長靴の踵が一つ、二つと床を打つ音——王宮の音という音が、不自然な距離で耳に届く。
王太子の隣に立つのは、聖女候補ミレイユ・ロランドゥ。象牙色の祭服の上から、レオハルトの大きな手が彼女の細い指を包み込んでいた。指先がわずかに震えていることを、私の目は否応もなく見て取る。怯えているのではない。震えるほどに歓んでいる、その種類の震え方だ。
——なるほど。脚本通り、ね。
爪が掌に食い込む。私は十二歳から十八年、この王太子の隣に立つために組み上げられた人間だった。礼節、舞踏、刺繍、薬草学、王家紋章学、第七階梯までの宮廷魔法、そして帝国語と古典神聖文字。それらの教程を一つも違えず、私は完璧な公爵令嬢クラリス・エイレンドルフを演じきってきたつもりだった。
「貴様は、女として致命的なまでに冷たい」
レオハルトの言葉が、装飾的な天井に反響する。「そして、聖女ミレイユに対する数々の嫌がらせは到底見過ごせぬものであった。よって——」
(嫌がらせ、ね。私はあなたに会うために、毎朝四時に起きて魔法陣の暗記をしていたのだけれど。)
扇を閉じる。骨と骨が触れる、控えめな音。
それでも私は、笑わない。涙も流さない。涙の一滴を、今この瞬間、誰かの勝利の硝子細工に変えてやる気はなかった。代わりに私は、両膝を折って深く一礼する。背筋を伸ばし、視線は正面、息を腹の底に落として——王女に教わった、敗者の礼。
「王太子殿下のご決定、謹んで承ります」
声は、思いのほか平らに響いた。
広間の重い扉が背中で閉ざされた瞬間、私付きの侍女エルナが小さくしゃくり上げた。
「お、お嬢さま——」
「外套を」と私は短く言った。「あなたが、ね」
エルナの肩が、薄絹の制服の下で雀のように震えている。私は自分の毛皮の外套を肩から外し、そのまま小柄な侍女の背に掛け直した。十二月の王宮回廊は、広間の熱気の分だけ余計に冷たい。
「お嬢さまが、お風邪を——」
「私は冷たい女らしいから、平気よ」
冗談のつもりが、口の端だけが持ち上がった。エルナはそれでも、震える声で「失礼いたします」と頭を下げ、外套のなかに首を埋める。
「霜枯れ辺境伯領」と、宮廷書記官の冷たい声が、回廊の角でもう一度告げた。「公爵令嬢クラリス様の追放先、北の最果て。明朝七時、東門にて馬車を仕立てます」
霜枯れ。王国地図の北の縁、凍土と痩せ犬の絵だけがあしらわれた、ほとんど落書きに近い小さな白い領地。父が酒の席で「あれは王国の盲腸だ」と笑っていた、半世紀前の戦乱で領主が絶えた廃領。
三日三晩。雪と松脂の香り、馬の鼻息、車輪が氷の轍に乗り上げる衝撃。それらが交互に、革張りの座席の私を揺らし続けた。膝の上に積んだ書類束は、辺境伯領を引き継ぐにあたって宰相府から押し付けられた領民台帳と、過去十年分の徴税報告書。
「お嬢さま、もうお休みになっては」
向かいに座るエルナが、ランタンの火を細めながら囁いた。馬車の天井に吊られた小さなランタンの炎が、彼女の目の下の隈を黄色く揺らしている。
「あなたこそ寝なさい。私には、読まなくてはいけないものがある」
台帳を一頁ずつめくっていく。インクの匂いが、古かった。この領地に最後に書記官の手が入ったのは、おそらく十年以上前。死亡届の頁が、異様に厚い。私は人差し指の腹で、罫線に沿って名前をなぞっていった。
——マリア・ヴィルク、餓死、天文二十年三月。 ——ヨーゼフ・グレーバー、凍死、天文二十年三月。 ——リーゼ・ブラント、餓死、天文二十一年一月。
頁が、また一頁。
——アンネ・グレーバー(三歳)、母乳枯渇による衰弱、天文二十二年二月。
指が、止まった。
革張りの座席が、また一度、氷の轍に飛ばされて跳ねる。私の喉の奥で、扇の骨を軋ませた時と同じ音が、もう一度鳴った気がした。涙腺が、まったく予告もなしに緩む。けれど私は、涙を額の前で受け止めた。指の関節で押し戻し、頁の上に落とさなかった。インクが滲めば、この子の名前が、もう一度死ぬ。
「エルナ」と、私は囁いた。「ねえ、エルナ。私たち、王宮に置き去りにしてきたのは何だったかしら」
侍女は、ランタン越しの目を瞬いた。
「ティアラと、宝石箱でしょうか」
「いいえ」と私は首を振った。「あれは、装飾品。私たちが置き去りにしてきたのは、もう一つの脚本よ」
——王太子妃クラリス・グランツバルトという、用意されていた予定調和。
私は台帳を閉じ、膝の上で両手を重ねた。指は、まだ少し震えている。けれどそれは、悲しみのためではない。三歳の女の子の名前を、もう二度と餓死の頁に書かせない、と決めるために、震えているのだった。
霜枯れ辺境伯領、北門。
馬車から降りた私の長靴が、氷の上で何かを踏み砕く音を立てた。それが何か——萎びた野ねずみの骸だと気づくのに、半瞬かかった。
正面に、館。館と呼んでよいのか躊躇うほどの建物だった。三階建ての石造り、屋根は北側半分が崩落して空が見えており、東翼の窓は半数が板で打ち付けられている。煙突は二本のうち一本が折れて、雪を被ったまま地面に転がっていた。
そして、人。館の前の広場に、領民らしき人々が二十人ほど無言で並んでいた。骨と皮、という慣用句が、目の前で輪郭を持って立っているような姿だった。子どもの腕は私の手首ほどしか太さがなく、老婆の頬骨は皮膚を突き破る寸前まで尖っていた。
誰もが、私を見ない。正確には、視線を上げる気力がないのだ。下から上へ、目玉を動かすという動作にすら、彼らの体は燃料を割けない。
ただ一人、白髪を後ろで縛った老人が、私の前に進み出て深く腰を折った。
「お迎えにあがりました。霜枯れ辺境伯領、執事のガレンと申します」
声が、紙のようだった。
「クラリス・エイレンドルフです。本日付で、この領の主となります」
頷いて、私は彼に台帳の束を差し出す。ガレンは礼を述べてそれを受け取り、痩せた指で軽く震わせた。
「ガレン。単刀直入に伺います。この領の蔵に、麦は何日分残っていますか」
老執事の喉仏が、上下した。
「……三日分でございます」
私は息を吸う。冷気が肺の奥に刺さって、鉄の味が口のなかに薄く広がった。三日後には、三歳の女の子の名前が、また台帳に増える。
「エルナ」と私は侍女を振り返った。「私の宝石箱を、馬車から下ろしてちょうだい」
「お、お嬢さま、それは——」
「公爵家の婚約者として持参させられた装飾品の一切を、隣領の商人ヨアヒムの店に売り渡してきます。エルナ、あなたが私の代理人として、明朝、馬で出てちょうだい。換金後の銀貨は、ガレンに預けて、麦と種芋に化けさせます。麦は領民に等分、種芋は春の作付け用」
エルナの瞳孔が、ランタンの火のように開いた。
「お嬢さま、あれは——奥様が、お母様が、お嬢さまの嫁入りのために——」
「ええ。母から、王太子妃となる娘へ託された嫁入り道具。けれど私はもう、王太子妃にはなりません」
私は、左の薬指を見下ろした。婚約指輪の跡が、青白く凹んでいる。あの指輪は、今朝の段階で、すでに王宮の侍従に預けてきていた。
「あの宝石たちは、本来、私が王太子の隣で笑顔を作るための道具でした。今度は、私と一緒に、別の脚本を演じてもらいます」
ガレンの目に、光がともった。三日分の麦を抱えて立っていた老執事の目が、一度だけ強く濡れた。けれどそれを彼は、痩せた手の甲で押し戻し、深く頭を下げた。
「……承りました、クラリス様」
「礼は不要よ、ガレン」と私は首を振った。「私はあなたたちのために生き延びるのではない。私が、私のやり方で生き延びるために、あなたたちを生かす。順序が、逆」
そう言って、私は領民たちの方を向いた。
「私の名は、クラリス。今日からこの領の主であり、あなたたちの隣人です。来年の春までに、私たちは餓死者の頁を一行も増やさない。約束しましょう」
冷えた風が、館の崩れた屋根の隙間から吹き降りて、私の前髪を一瞬だけ持ち上げた。
その晩、私はガレンに案内されて、館の裏手の古井戸の前に立った。
「水源は、これだけでございます。けれど三日前から、釣瓶が空のまま上がってまいります。井戸枯れではなく——おそらく、何かが詰まっておるかと」
老執事のランタンが、井戸の縁石を黄色く照らし出した。縁石の苔の下に、私は奇妙なものを見た。苔をそっと撫でる。指の腹に、何かが触れる——平坦ではない、規則正しい彫刻。幾何学的な、放射状の紋様。私の知るどの王国魔法陣にも、神聖文字にも、紋章学の体系にも当てはまらない、けれど確かに「術式」だと、私の魔力感応が告げていた。
「……ガレン。明朝、領民から手の空いている男手を、四人。井戸を浚います」
老執事が、怪訝そうに眉を上げた。私は、縁石の紋様にもう一度指を触れる。指先が、ほんの一瞬、青く灯った気がした。
脚本は、もう破った。次に書かれる頁は、まだ誰の手にもない。