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氷華の令嬢、辺境にて目覚める

第1話 第1話

第1話

第1話

シャンデリアの灯が金の杯に揺れる夜会の只中で、第二王子ロイド殿下は私の手の甲を掴んだまま、声を張り上げた。

「エルシア・ヴァレンティア──貴様との婚約は、本日この場をもって破棄する」

広間のざわめきが一拍遅れて凪いだ。私の左手薬指に嵌められた銀の指輪が、王子の握力にきしんで内側の宝石をこすり、うすく熱を持った。封印の指輪。我が一族が代々、生まれ落ちた瞬間に強制される、魔力を封じる枷である。指の関節に食い込むその痛みだけを意識の真ん中に置きながら、私は表情を一片も崩さずに黙礼した。

「……仰せのとおりに」

驚きはなかった。三月前から殿下と男爵令嬢の睦まじい逢瀬の噂は社交界の隅々まで届いていたし、私を「魔法の才を欠いた出来損ない」と公然と嘲るための場が、この夜会で用意されていたことも、ヴァレンティア家に出入りする商人筋から漏れ伝わっていた。

「この女は領民の前でも杖を振るえぬ無能。ヴァレンティア家の名に泥を塗る存在を、王宮に置いておくわけにはいかぬ。──処分は、辺境ルイン領への永久追放とする。氷竜の徘徊する荒野で、せいぜい貴様にできることを示してみるがいい」

ルイン。大陸の北端、年の半分が氷雪に閉ざされ、魔物の濃度が王都の数十倍と言われる凍土。三代続いて領主が赴任三月以内に殺された、事実上の死刑宣告地である。会場の貴族たちが小さな歓声を上げたのは、私の追放が娯楽として完成したからだろう。袖口の刺繍がきしむほど深く頭を下げる間も、薬指の指輪はちりちりと内側を焼き続けている。封印に抗おうとする魔力が、こんな時に限って肌の下で暴れている。私は唇の裏側を奥歯で噛んで、息の温度を一定に保った。

退出を許されて回廊へ抜けると、背後から細い足音が追ってきた。父の派遣した護衛ではない、もっと軽い、息を切らした足音だ。

「お嬢様、お嬢様……っ」

侍女のリゼだった。十五になったばかりのこの娘は、私が幼い頃から世話係として宛がわれた数少ない味方で、今夜は夜会への同行を命じておいた。頬は熱で紅く、目は涙の膜に揺れている。朝から熱を押して支度を整えてくれていたのだ。

「お辛いでしょう、こんな仕打ちは、あんまりです」

「立てる。馬車まで歩けないようなら、私が抱えるわ」

リゼは首を横に振り、嗚咽を喉の奥へ飲み込んだ。私は手袋を脱いで、彼女の汗ばんだ額に掌を当てた。封印の枷の内側で、解けることを許されない魔力がほのかな冷気となって指先に滲み出る。普段なら危険な兆候だが、今夜だけは、熱に苦しむこの娘のために少しだけ抜け道を作ってやりたかった。

「屋敷に着いたら、厨房を借りて薬湯を煮るわ。リンドウの根と山桃の皮を煎じれば、明け方には熱が引く」

「そんな、お嬢様のお手で煮るなんて……っ」

「私の手は、剣も持たず杖も振れぬ手ということになっている。せめて鍋ぐらいは持たせてもらわないと、釣り合いが取れないでしょう」

冗談めかして言うと、リゼは涙を拭って小さく笑った。馬車に乗り込み、王宮の門が背後で閉じる音を聴きながら、私は窓の外を流れる街灯の橙色を眺めていた。蹄の音が石畳を叩くたび、車内の灯火が揺れて、向かいに座るリゼの輪郭をぼんやり浮かび上がらせる。彼女は私の膝にそっと額を寄せ、熱に浮かされた寝息を立て始めた。私はその髪をひと房だけ指に絡めながら、自分の鼓動が思いのほか静かであることに気づいた。屈辱も恐怖も、おそらく心の底にはあるはずなのに、表面には何ひとつ波が立たない。封印の指輪が魔力を抑え込むのと同じ要領で、私の感情もまた、長年の訓練で内側に封じ込められているのだろう。夜会で私を笑った貴族の誰一人として、私が侍女のために自ら鍋を持つ女だとは想像もしないだろう。──それでよかった。「出来損ない」の仮面は、私を守る最後の一枚なのだから。

屋敷に戻ると、父アスベル公爵は書斎で一人、葡萄酒の杯を傾けていた。暖炉の火はもう熾になりかけ、書架に並ぶ古い背表紙の金箔だけがちらちらと赤く揺れている。机上には王家の紋章が押された封蝋済みの書状が一枚、伏せて置かれていた。私が入っていくと、視線を上げ、ためらう間もなく低く言った。

「指輪は外すな。ルインに着いてからもだ。魔力を放ってはならぬ。我が一族の血が表に出れば、お前は王家にも、教会にも、追われる。死ぬまで隠せ。隠したまま、領地で朽ちろ」

朽ちろ、と。父はそれだけ言うと、もう私を見なかった。葡萄酒の杯を持つ指がほんの一瞬だけ震えたのを、私は見逃さなかった。その指の節は私の薬指の関節とよく似ていて、同じ血が流れていることを否応なしに思い出させた。私はゆっくりと頭を下げ、書斎を退出した。扉を閉める際、背後から聞こえた長い吐息は、ほとんど呻きに近かった。廊下を歩きながら、薬指の指輪にそっと触れる。父の声は冷たかったが、その奥に、娘を辺境へ送り出す者の罪悪感がうっすらと滲んでいた。父もまた、王家の機嫌を損ねれば一族ごと吊るされる立場の人だ。憎みきれない。憎んでしまえば、一人娘の私が抱えている荷物は、いまよりもう一段重くなる。

厨房に降りると、料理長は驚いた顔をしたが、私が無言で襷を結ぶのを見て、薬湯の支度の場所を黙って譲った。竈の火を熾し直し、銅鍋に井戸水を満たす。リンドウの根は乾燥して鞣し革のような色をしており、刃を入れると土と苦みの混ざった香りが立ち上った。山桃の皮を細く削り、火加減を弱めにして煮出す。湯気の中で薬草の繊維がほどけていく速度を眺めていると、ふしぎと指の疼きがやわらいでいく。鍋が湯気を立て始める頃、私の手元には、明日からの旅のために用意された木箱が運ばれてきた。中身は私物の最低限と、家伝の封印の指輪が三つ。一つは私の指に、残りはいざという時のための予備である。予備の指輪を眺めるたび、私は思う。なぜ我が一族は、これほどの数の封印を必要としたのだろう。なぜ「血が表に出れば追われる」のだろう。父はその問いに、生涯で一度も答えてくれたことがない。指輪の内側に刻まれた古い文字を、私は灯火に透かして睨んだ。読めない。読めるように育てられなかった。──ただ、読まれてはならぬ言葉だ、ということだけは、肌で知っている。

煎じ上がった薬湯を椀に移し、リゼの寝室へ運んだ。寝台の彼女に少しずつ飲ませてやると、頬の赤みが穏やかに引いて、ほどなく寝息が落ち着いた。私は彼女の額にもう一度掌を置き、それから立ち上がって、鎧戸の隙間から夜空を見上げた。星が痩せて見える。北の地平の方角だけ、雲が低く垂れて、街灯の光を吸い込んでいた。

辺境で、誰もが死ぬと言う土地で、私は何を失えるのだろう。王都の社交界も、第二王子の婚約者という肩書も、出来損ないと呼ばれることへの惨めさも、もう私の手元にはない。残るのは、薬指で疼く封印の枷と、その下に隠された、私自身でも底の見えない魔力だけだ。私はそっと指輪に唇を寄せた。冷たい銀の感触が、唇から胸の奥まで一筋に降りていく。

──隠さずに済む場所が、もしかしたら、ようやく手に入るのかもしれない。

口に出してはいけない言葉が、湯気の向こうで形になりかけて、すぐに消えた。私は襟元を正し、明日の朝、迎えの馬車に乗ることを自分に約束した。

夜明け前、玄関ホールで荷を待つ私のもとへ、執事のハンスが古い革袋をひとつ差し出した。革は長年どこかにしまい込まれていたとみえ、表面には細かなひび割れが走り、湿った地下蔵の匂いがかすかにこびりついている。普段は感情を一切表に出さないハンスの目が、その朝に限って、わずかに潤んでいた。

「奥様の遺品にございます。亡き奥様は、お嬢様が辺境へ立つ日があれば、これを必ず持たせよ、と」

「……母上が、そう、おっしゃったの」

「左様にございます。十二年、私が一人で預かっておりました。旦那様にも、お嬢様にも、申し上げぬようにと」

袋の口を開くと、中から滑り落ちたのは、私の薬指に嵌まる指輪と全く同じ意匠の、銀の指輪が一つ。母の指輪。──封印の指輪が、なぜ、亡き母の遺品の中にもう一つ。掌に乗せてみると、私の指輪より一回り細く、内側にだけ別の文字が彫り込まれているのが見えた。読めない文字。けれど一文字目の輪郭が、今朝厨房で透かして見た予備の指輪のそれと、明らかに違う。封印は一種類ではなかったのだ。

私が顔を上げる前に、玄関の扉が開き、霜の匂いを孕んだ風が頬を撫でた。馬車の御者が、出立を告げる声を低く張り上げる。私は母の指輪を握りしめ、ルインの方角を見据えた。指の中で、銀の枷が、ほんのかすかに、脈打った気がした。

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