第3話
第3話
殿下の喉仏が動いた半瞬を、私は、頭の隅の手帳の左端に、書き留めた。
「……入学式の前に、少し、話せるか」 「式の後でしたら、図書館におります」 「図書館」 「閉式の直後より、入学者名簿を一読する予定です」
殿下は、私の言葉のひとつひとつを、まるで聞き慣れぬ外国語のように、口の中で、ゆっくりと繰り返した。それから、何かを問おうとして、結局、首だけを、軽く、振った。
「……後で、訪ねる」
短い言葉を残して、殿下は並木の奥へと消えていった。歩幅が、行きと帰りで、ほんの二寸ばかり、違っている。──六度のループで、私が、初めて目にした、あの方の動揺の形だった。
講堂の正面扉が、左右に押し開かれる。 内側から、白磁の床に塗り込められた蝋の匂いが、ふわりと押し寄せ、続いて、薄く焚かれた乳香の煙、新しい羊皮紙のささくれた香り、誰かのドレスから漂う、僅かに甘い、薔薇水の残り香までが、私の鼻先に、順番に並んでいく。
『この匂いの並びを、私は、知っている』
六度の入学式で、私は必ず、このにおいの只中で、ひとりの少女の登場を、待たされてきた。 七度目の今日、私は、待たない。観察する側に、立つ。
新入生の列の、後方寄り。薄紅のリボンを背に垂らした、栗色の髪の小柄な娘が、慎ましく俯いている。 聖女ミリア。──と、後の世が呼ぶことになる、本日の、もうひとりの主役。
司式の祈祷が、講堂の高い天井に吸い上げられて、薄く反響していた。 入学者の代表挨拶のため、ミリアが、列の後ろから、講壇の方へと、たおやかに進み出ていく。
その左手の指先が、リボンの結び目に、ほんの一瞬、触れた。
『──いまの動き、見たことがある』
瞳の奥で、過去六度のループの、似た場面が、一斉に巻き戻されていく。三度目の入学式、四度目の朝の礼拝、五度目の聖典暗誦の試問。ミリアは、何かが起こる直前、必ず、左手の指先で、襟元か、リボンの結び目に触れる癖があった。あれは、ただの仕草ではない。
講壇の前に立った娘の、白い襟元が、ふっと、淡く、光を帯びた。
「……お、おお」 「あれは、聖痕では」 「神に選ばれし、御印……」
周囲の新入生たちが、息を呑む音が、ぽつ、ぽつ、と連鎖する。司祭が、聖典を取り落としそうな手つきで、十字を切った。前列の令嬢のひとりは、扇を取り落とし、骨と骨が床に当たって、乾いた小さな音を立てた。
私は、扇を開かない。 ただ、瞼を、半寸ほど、細める。
光は、青みがかった、白。襟元の刺繍の、銀糸の中央で、わずかに揺らぎながら、明滅している。明滅の周期は、おおよそ、三拍ごと。──司祭の祈祷の韻律と、ぴたりと、同期している。
『燐(りん)、ではない』
前世の経費精算で、私は、化学薬品商社からの請求書を、何度、突き返したことだろう。輸入元の備考欄に、ごく小さな活字で、こう印字されていた──『湿気との反応により短時間発光。粉末状で衣料に塗布する場合、肌に触れぬよう留意のこと』。
舶来の品で、輸送中の温度差で、しばしば結晶が砕け、伝票上の重量と、現物の重量が、わずかに、合わなくなる。私は、その誤差を、毎度、赤鉛筆で、丸く囲んでいた。──七度目の今日、その赤い丸の感触が、指の腹に、ふいに、戻ってくる。香水商の倉庫で、一度だけ、現物を見せてもらったことがある。手袋越しではあったが、指先で、そっと圧した瞬間、布越しの皮膚の温度で、結晶の縁が、すぐに湿りを帯び、淡い、青白い光が、指紋の渦に沿って、ぽう、と立ち上がった。──いま、ミリアの襟元に揺れている光と、まったく、同じ色味だった。
青みを帯びた、白い結晶。空気中の微量な水分と、人の体温に温められた汗とで、ゆるやかに反応し、数分のあいだ、淡い光を放つ。
ミリアの襟元の刺繍は、内側に、ほんのわずか、膨らんでいた。 銀糸の織りの裏に、その粉が、塗り込められている。
司祭が、震える声で、彼女を『聖女』と呼びかけた。 ミリアは、頬をほんのり染め、伏目がちに、長い睫毛を、二度、ゆっくりと、瞬かせた。──睫毛の伏せられる角度は、左右ともに、まったく同じ。十二度。
『振り付けがある』
私は、夜会服の内側のポケットから、革表紙の小さな手帳を取り出した。十三歳の冬、父が、寒い書斎で、誕生日にと差し出してくれた帳面である。本来は、刺繍の図案や、心に残った詩の一節を書きとめるためのもの。 六度のループで、私は、これを、一度も、開かなかった。
今日、最初の見開きを、開ける。
万年筆の硬い先端が、罫線の上に、淡い影を落とす。
『発光・三拍周期。祈祷韻律と同期』 『刺繍部位・襟元内側に膨らみ。触媒、湿度反応性結晶か』 『睫毛・左右ともに十二度。瞬き、二度』 『指先の癖・左手、結び目に触れる(発光直前)』
文字は、前世のオフィスで身についた、議事録の癖が抜けない。語尾が、令嬢の敬体ではなく、名詞止め。──それで、構わない。私は、いま、ローゼンベルクの令嬢ではなく、ひとりの調査員として、この場に立っている。
司祭の祈祷が、ふいに、声の高さを、半音だけ、上げた。 それに合わせるかのように、ミリアが、講壇の三段目から、足を、縺れさせる。
「あ──」
短い、抑えた悲鳴。 膝が、白磁の床に、ぱたん、と、落ちた。
新入生たちが、一斉に、息と、労いの声を漏らす。前列の令息のひとりが、咄嗟に、手を差し伸べに駆け寄る。彼の上着の襟章は、伯爵家の鷲。──六度のループで、必ず、この場面で、彼女の方へ駆け出していた、あの少年だ。
私は、その救助劇には、目を向けなかった。 代わりに、ミリアの、涙の、出る位置と、滑り落ちる速度を、目で追った。
左の目尻から、定規で測ったように、同じ角度で、頬を伝う。──七度目の、同じ涙。 頬の途中で、速度が落ちない。顎の手前で、ふっと、音もなく、消える。 鼻の頭の赤みは、涙より、およそ二秒、遅れて、立ち上がる。
涙の通った跡は、頬の上で、わずかに、白粉を、二筋、薄く、剥がしていた。剥がれの幅は、左右で、寸分、違わない。胸の上下も、見たかぎり、ほとんど、揺らがない。肩のラインも、嗚咽に震えるでもなく、ただ、楚々と、傾いだままで、止まっている。──哀しみに、息を、詰まらせる者の、肩の動きとは、ちがう。
それから私は、視線を、彼女の膝の方へと、低く、滑らせた。
白磁の床は、上級生の徒弟たちが、毎朝、丁寧に磨き込んでいる。膝を強く打ちつければ、レースの薄い膝当てなど、容易にすり切れ、繊維が、毛羽立つはず。 だが、ミリアの膝のレースには、糸の毛羽立ちひとつ、ない。 着地の角度が、浅すぎる。膝の皿の、いちばん前面ではなく、ふくらんだ内側の、肉の厚い部分から、先に、床へと、着いている。──あれは、痛みを、出さない、転び方だ。
万年筆の先が、罫線の上で、すっと、また、走る。
『涙・左目尻、定規角。本日も同一』 『鼻先の赤み・二秒遅れ。意図的か』 『転倒・膝内側より着地。擦り傷の見込み・無』 『救助の令息・伯爵家鷲紋章。名簿にて照合のこと』
胸の奥で、何かが、静かに、棚に置かれた。 怒りでは、ない。憐れみでも、ない。──事実だけが、整然と、私の頭の中の倉庫に、並んでいく感覚。
『嘘は、いつか、必ず、棚卸しに、引っかかる』
前世の私が、毎月の月末に、領収書の束を整理しながら、何度、口の中でつぶやいた言葉だったろう。
司祭が、ミリアを抱き起こす。彼女は、襟元の光を、まだ、薄く纏ったまま、講堂の中央通路を、たおやかに、歩いていく。 たどり着いた席は、新入生の列の中央。王太子殿下の、隣の、長椅子。──六度、彼女が、そこに、座ってきた位置だった。
殿下の視線が、しかし、隣に座った娘ではなく、ふいに、私の方へと、流れてきた。
私は、手帳を、ゆっくりと、閉じた。 革表紙の、擦れる、低い音。
乾いた、冬の枝が、軽く擦れあう音に、よく似ていた。私は、革表紙の上に、指の腹を、ほんのひととき、置いたままにする。父の書斎で嗅いだ、煙草の葉と、古い紙の、入り混じった匂いが、革の繊維の奥から、ふっと、立ちのぼってくる気がした。──父上、私は、本日、ようやく、この帳面の、一頁目を、汚しました。
殿下の眉が、ほんのわずかに、寄った。膝の上の指先が、上着の刺繍を、一度、握り直し、そのまま、動きを止めた。
『──気づきましたか、殿下』
胸の中で、私は、本日、二度目の、同じ問いを、静かに、置いた。
閉式の鐘が、鳴る。 講堂の扉が、ふたたび、押し開かれる。
私は、扇を持たぬ手で、手帳の革表紙を、指の腹で、一度だけ、軽く、押さえた。 踵が、白磁の床から、ことり、と、離れる。
図書館までの石畳を、一尺ずつ、踏んでゆく。
廊下の角を曲がる、その手前で、背後の、磨き込まれた床の上を、誰かの靴音が、ひとつ、確かに、追ってきている気配があった。