Novelis
← 目次

七度目の断頭台、私は記録する側へ

第2話 第2話

第2話

第2話

枕元の銀盆が、二度、軽く打ち合わされた。

「お嬢様。お目覚めのお時間でございます」

侍女頭マルタの声は、七度のループで一度も変わらない。私の目覚めの不機嫌に対する、彼女の備えもまた。お湯の温度、洗面の順序、湯気の上がる白いタオルが何枚目で差し出されるか──そのすべてが、暗譜済みの楽譜のように立ち上がってくる。

『──おはよう、マルタ』

声には出さない。 これまで六度のエミリアは、この時刻、必ず気だるげに「もう少し」と寝返りを打った。それが侯爵令嬢らしい朝の所作だと、誰かが──たぶん、母親が──幼い頃に教え込んだのだろう。

私は、絹のシーツをめくり、両足を絨毯の上に揃えて下ろした。 絨毯の毛足が、踝の内側でわずかに沈む。冷えた朝の空気が、寝衣の裾の隙間から、足首をひと撫でして抜けていく。

七度目は、自分で起きる。

「マルタ。昨日の朝より、湯を一段高くしてちょうだい」

絹の襟を整える気配が、扉の向こうで、ぴたり、と止まった。マルタは、私の朝の指図というものを、おそらく十年ぶりに耳にしたはずだ。彼女は、何も問わず、ただ「かしこまりました」と低く応え、衣装室の扉の向こうへと消える。

鏡台の前まで歩いた。 窓の縁から差し込む薄青い光が、白い化粧台の天板を、一筋、横切っている。鏡の中で、十五歳のエミリア・ローゼンベルクが、こちらを見返した。

蜂蜜色の髪は、夜の三つ編みのまま。寝起きの左頬には、枕の縫い目の跡が、薄く、平行に二本、刻まれている。──ああ、こんなところにこんな跡が残るものだったのか。前世の私は、社員寮のせんべい布団で、いつも頬の同じ位置に、同じような跡を残して目を覚ましていた。

『顔の作り方を、決めなければ』

両手で頬を、ゆっくりと押し上げてみる。 これまでの六度、この鏡の前で、私は必ずどれかひとつの顔を作っていた。一度目は、何も知らない令嬢の、無防備な微笑。二度目は、王太子の前で完璧であろうとする、訓練された微笑。三度目以降は、どれも、媚びと焦りと諦めの混ざった、見るに堪えない顔。

七度目の今日、私はそのどれも、選ばない。

息を、肋骨の奥まで一度落として、そのまま、ゆっくりと吐き切る。吐き終えた瞬間、頬の筋肉から余分な力が抜け、唇の両端が、ほんのわずかだけ、上がった。 鏡の中の私が、新しい顔をしていた。媚びでも、怯えでも、嘲りでもない、事実だけを見ている人間の顔。

『これでいい』

朝食の卓に降りてゆくと、父の席は、すでに空だった。

「お父様は」 「夜半、王宮よりお呼び立てがございまして」と、家令のヴィーラントが告げる。「朝のうちにはお戻りに、と」 「お母様は」 「奥様は、まだご寝室でいらっしゃいます」

定型の答え。これも、暗譜の中にある。 六度目までの私は、この時刻、必ず父の不在を寂しがるか、母の起床の遅さに苛立つかしていた。──馬鹿げている。社畜だった頃の私は、上司の在席を願ったことなど一度もなかった。むしろ、不在の朝こそ、書類が片付くというものだった。

「ヴィーラント。入学式までの段取りを、もう一度、口頭で確認してもらえる」

家令の眉が、ほんのわずかに動いた。けれど、彼は決して問い返さない。それが、ローゼンベルク家に三十年仕える男の流儀である。

「七時三十分、馬車のご支度。八時、王立学院前にてご降車。八時十五分、新入生控室にてご休息。八時四十五分、講堂正面より入場。式は九時開式、十時三十分閉式。閉式後、上級生による校内案内が予定されておりますが、ご令嬢方は中庭の散策にお進みになるのが慣例でございます」

「中庭は、回避します」

ヴィーラントは、息を呑む寸前で、それを止めた。

「中庭ではなく、講堂裏の図書館へ移ります。入学者名簿と教師陣の担当一覧を、閉式までに一読しておきたい。写しを一部、馬車の中で渡してちょうだい」

「……かしこまりました」

『中庭の散策』とは、つまり、王太子殿下とその取り巻きが、令嬢たちの品定めをする時間のことだ。六度のループで、私はあの中庭で、必ず、王太子の指先がミリアの髪に触れるのを目撃してきた。そして、扇の影で、唇を噛んだ。 七度目の今日、私はそもそも、その舞台に立たない。立たなければ、観客席にもならずに済む。

紅茶を一口ふくみ、舌の裏で、温度だけを確かめる。前世のオフィスで、五分で冷めたインスタントを流し込んでいた頃の舌が、ゆっくりと、香りというものを思い出していく。

「ヴィーラント。もうひとつ」 「はい」 「領地の薬師、ハイネル老が、まだ存命であれば、王都へ呼び寄せる手筈を整えて。表向きは、私の体調管理のため。扱いは、内密に」 「……ハイネル殿を、でございますか」 「それから、先代様にお仕えしていた、元騎士団詰めのアルベルト殿。隠居所の住所、把握していて」 「庭師の名簿の付録に、控えがございます」 「呼んでください。同じく、内密に」

ヴィーラントは、長い沈黙の後、ただ一言、「承りました」と頭を下げた。 彼の沈黙の長さは、私が、十年ぶりに『お嬢様』ではなく『この家の主のひとり』として口を開いたことへの、彼なりの礼の取り方だった。

馬車の窓の外、王都の朝は、いつもより、空気の粒が細かく見えた。 七度のループで、私は何度この景色を眺めただろう。並木の若葉、石畳の継ぎ目、商家の庇の下で猫が伸びをする位置──そのどれもが、暗譜の中にある。けれど、暗譜していると気づいた瞬間から、景色は、ようやく、ただの景色になる。

膝の上には、ヴィーラントが届けた写しの束。教師陣の担当一覧、入学者名簿、それに、ローゼンベルク領の今期の収支報告の控え。私は、報告書の方を、先に開いた。

『南西の小麦の作付け、去年より三分減。理由は、霜害ではなく、農具の更新の遅れ。──これは、私の代で、動かせる』

馬車が、緩やかに止まる。 御者が扉を開け、白手袋を差し出した。

私は、その手を取り、ステップを降りた。

ステップから石畳まで、距離は約一尺。 六度目までの私は、この一尺を、いつも、令嬢らしくつま先から、ふわりと降りていた。

七度目の今日、私は、踵から降りる。

踵が、石畳に、こつ、と着いた。 それは、社畜だった頃の私の歩幅だった。終電に間に合わせるために、ヒールを鳴らして駅の階段を駆け上がっていた頃の、地に足のついた、生活者の歩幅。

王立学院の正門は、薄朝の光の中で、白く乾いていた。 門前には、すでに同期入学の令嬢たちの一群がある。レースの陰から目だけが動き、私の到着を確認し、すぐに、互いの扇の影に隠れて囁き合う気配が、波紋のように広がった。

『噂のローゼンベルクのご令嬢よ』 『あの、王太子殿下の婚約者でいらっしゃる』 『気の強い方と伺っておりますわ』

──七度、聞いた。

六度目までの私は、この囁きを背中に受けて、必ず、二つのうちのどちらかをした。顎を上げ、令嬢たちを冷ややかに睨むか。あるいは、扇で口元を隠し、聞こえないふりで早足に通り過ぎるか。どちらも、結果は同じだった。『気位の高い悪役令嬢エミリア』の評価だけが、毎度、確かに更新されていった。

七度目の今日、私はそのどちらも、選ばない。

囁きの群れに、まっすぐ歩み寄った。

「ごきげんよう、皆様」

声を、張らない。扇も、開かない。

「本日より、ご一緒させていただきます。ローゼンベルク家のエミリアと申します」

令嬢たちの扇が、一斉に止まった。レースの隙間で、十数対の瞳が、私の顔を、はじめて、正面から見た。 私は、その視線を、数えるように、ひとりずつ、受けていった。誰の瞳が泳ぎ、誰の唇が乾き、誰の指先が扇の骨を強く握ったか。すべての小さな反応を、頭の隅の手帳の罫線に、淡々と書き写していく。

「……ごきげんよう」

最初に、それを返したのは、群れのいちばん端、栗色の髪の小柄な令嬢だった。 他の令嬢たちが、慌てて、それぞれの『ごきげんよう』を、わずかに不揃いな間で、私の足元に置いていく。

私は、ひとりひとりに、まったく同じ深さで、頭を下げた。 ひとりひとり、まったく同じ深さで、ということが、おそらく今日の彼女たちの記憶の中で、いちばん、不気味だったはずだ。

正門の奥、講堂へ続く石畳の真ん中で、ふいに、空気の温度が、一段、下がった。

並木の影から、銀の刺繍の入った濃紺の上着が、姿を現す。 艶のある黒髪、抑制された歩幅、視線だけが先に到着するような、あの、独特の足の運び。──王太子殿下、ジーグフリート。

六度のループで、必ず、私を、この一尺の距離で、見下ろしてきた人。

殿下の視線が、私の顔の上に止まる。 そして、ほんの半瞬、止まったまま、動かなくなった。

これまで、彼の瞳が、私の顔の上で『止まった』ことは、一度もなかった。袖口の刺繍に、扇の柄に、髪飾りの宝石に──いつだって、彼の視線は、私の顔の周辺を撫でて、すぐに、別の場所へと逸れていった。

「……エミリア嬢」 「ごきげんよう、殿下」

私は、軽く、膝を折る。 顔は、上げたまま。視線は、外さない。

殿下の喉仏が、ほんのわずかに、上下した。

『──気づきましたか、殿下』

胸のうちで、私は、頭の中の手帳の、新しいページを、一枚、静かに、めくった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ