第1話
第1話
首筋に押し当てられた鉄の冷たさが、刃ではなく初冬の朝霜に似ていることに、私はうっすらと驚いていた。
七度目だ。 七度目の、断頭台。
鼻の奥には、湿った石畳と、昨夜誰かがこぼしたであろう葡萄酒の腐りかけた匂いがからみついている。広場の端で薪を割る乾いた音が一定の間隔で響き、その間隙だけ、群衆の罵声がきれいに切り取られていく。
「──異端の聖女ミリア様を害そうとした罪により。ローゼンベルク侯爵令嬢エミリア。汝の首をもって贖えとの聖断である」
法官の声は、いつも『汝の首をもって贖え』のところで一拍空く。 四度目までは聞き流していた。五度目で気づき、六度目で諦めた。そして七度目の今、私の喉の奥で、別の声が立ち上がる。
──ああ、これ、私、知ってる。
唐突に、それは降ってきた。 湿気を吸って重くなったスーツの袖口。終電に駆けこんだときの、生暖かい人いきれ。指先で弾いた液晶の光。締め切り。督促。差し出した菓子折り。それから、深夜の横断歩道で、ヘッドライトが網膜の上で静かに膨らんでいく、あの瞬間。クラクションの音は、思っていたよりずっと遠かった。アスファルトに頬がついたとき、私はまだ、明日提出するはずだった稟議書の項目番号を頭の中で数えていたような気がする。
『……死んだのか、私』
そう、たしかに死んだのだ、一度。 日付の変わる頃、社畜と呼ばれていたあのころの私が、湿った夜のアスファルトの上で。
そして目を開けたら、十二歳だった。
十二歳の婚約発表。十三歳の冬のお茶会。十四歳の刺繍の授業。十五歳、王立学院の入学式の朝──。その先の三年余りの記憶が、地下水脈のように一気につながっていく。
聖女ミリアの登場。 蔑みの眼差し。 震える肩。零れ落ちる涙。涙の、量。
──あの涙、絶対、おかしい。
私は、社員番号でしか呼ばれなかったころ、毎月さばかされた経費精算書の、領収書の筆跡を見比べる癖を、まだ、指先に残していた。あれと同じ目で、私はいつも、泣くミリアの濡れた瞼を観察していた。観察するだけで、何もできずに。
涙の落ちる速度。瞼の腫れ方。鼻の頭の赤みが、ほんの数秒だけ遅れて立ち上がること。──演技ではない涙は、もっと不器用で、もっと不揃いに頬を伝うはずだった。あの子の涙は、いつも左の目尻から、定規で測ったように同じ角度で滑り落ちていく。私は気づいていた。気づいていながら、扇の影で、ただ唇を噛んだ。
ぐっと奥歯を噛んだら、血の味と、鉄の味と、終電で食べそびれたコンビニのおにぎりの薄い塩の味まで、いっぺんに舌に戻ってきた。
七度、この台に上がった。 一度目は、わけもわからず首を落とされた。 二度目は、王太子殿下の袖を両手で掴み、誤解です、と声を震わせた。彼の指は、一度たりとも私を握り返さなかった。袖口の刺繍が私の爪に引っかかって、糸が一本、ぷつりと切れた音だけが、やけに鮮明に耳に残っている。あのとき殿下は、切れた糸の方を、私の指よりも先に見た。視線の順序というものが、人の本心を、これほどあっさり暴くものだとは知らなかった。 三度目は、逃げた。荒野を行く馬車の中で、雇った刺客の短剣に喉を裂かれた。最後に見たのは、車窓の外を流れていく、名前も知らない黄色い小さな花の群れだった。 四度目は、ミリアの足元に膝をついて謝った。ドレスに泥がしみていく感触の中で、彼女は私の頭を撫で、その手の親指の腹に、見覚えのない白い粉がほんの少し、ついていた。──白い粉。あのとき私は、それを汗止めの白粉だと思い込もうとした。けれど、白粉は、あんなふうに細かい結晶の粒にはならない。あれは、もっと尖った、わずかに青みを帯びた、結晶。経費精算で何度も突き返した、ある特殊薬剤の納品書に、輸入元の備考欄として小さく印刷されていた、あの粉の絵姿によく似ていた。指先で潰せば、きしりと音が鳴るはずの、結晶。 五度目は、毒で先に死のうとした。失敗した。喉を焼いて、三日三晩のたうって、それでも生き延びてしまい、結局は同じ広場に引きずり出された。 六度目は──、もう、覚えていない。
『……ばかだな、本当に』
爪が、掌に食い込む。 社畜だったころの私のほうが、まだ、書類の不備を見つけて上司に食ってかかるくらいの根性はあった。だというのに、転生して貴族令嬢の身体に入った瞬間、私は『悪役令嬢』という名前のついた台本を、当たり前のように、ありがたく演じはじめてしまっていた。
──ローゼンベルク家の令嬢として、品よく嘆くこと。 ──不当な扱いに対しても、扇の影で堪えること。 ──最後には、髪を振り乱さず、首を差し出すこと。
馬鹿げている。 あの会社で、定時を一時間過ぎても残業申請ひとつ通せなかった頃の自分のほうが、まだ、戦っていた。
風が一陣、首筋を撫でた。 法官が、刃を吊るした縄を握り直す気配がある。麻縄が滑車に擦れる、ぎし、という低い音。それが、私の心音の隙間を、一拍ずつ正確に埋めていく。
『どうして』──と、これまでのループでは、必ずこの位置で、私は問うことをやめていた。 なぜ私が断罪されるのか。なぜミリアの涙ばかりが信じられるのか。なぜ、王太子は、私の指先ひとつまともに見ようとしないのか。 それを、品の良さの陰に隠して、丁寧に、丁寧に、見ないふりをしてきた。
『見なかったのは、私の方だ』
七度目で、私はようやく、その一行を、自分の頭の中で書ききった。書きおえた瞬間、胸の奥で、長いあいだ伏せられていた領収書の束が、ばさりと表に返るような、乾いた音がした。
頭上の刃が、軋んで揺れる。 法官が最後の祈祷を唱え終える。
そのとき、こめかみの奥で、ぱちん、と、何かが弾けた。
時計の針が逆向きに回る音──ではない。 もっと、間違ったページに挟まれていた書類が、一度束ごと引き抜かれて、正しい位置に挿し直される、そんな、乾いた感触。
意識が、輪郭を失って、淡いところへと薄れていく。耳の遠くで、群衆の声が、ぞっとするほどゆっくりと、間延びしていく。視界の端で、誰かが投げた腐った林檎が、宙に止まったまま、ゆるゆると形を崩していくのが見えた。落ちる前の雨粒のように、世界が、すべての落下を一度だけ、忘れたみたいだった。
ああ、来る。 七度目の終わりは、いつも、八度目の始まりだ。
だが、今回ばかりは、違う。
『──台本を、書き換える』
唇は動かなかった。動かす必要も、もうなかった。 胸の中で唱えたそれは、社畜だった頃の私と、ローゼンベルク家の令嬢である私と、その両方の声でできていた。
事実だけを、積み上げる。 私は、もう、嘆かない。 媚びない。縋らない。役を演じ直さない。 そもそも、最初から、与えられた役を演じる気が、ない。
縄が、軋む。
ぱさり、と、絹の感触が、指先に触れた。
首筋の冷たさが、ふっと、季節違いの春の風に変わる。鉄錆の匂いが、糊のきいたシーツの匂いに、静かに置き換わる。瞼の裏側に、見慣れた天蓋の刺繍が、ぼんやりと、像を結び始める。
天蓋の四隅に金糸で縫いとられているのは、ローゼンベルク家の銀百合の紋章。
──目を、開けた。
窓の向こうから差し込む光は、まだ薄青い。卓上の銀の置時計が、六時十二分を指している。 今日は、三月の十五日。 王立学院の、入学式の朝だ。
侍女が、扉の外で、いつものように静かに気配を整えている。衣擦れの音、銀の盆を持ち直すかすかな響き、廊下の絨毯を踏む慎ましい足音。──そのすべての順序を、私はもう、暗譜できるほど知っている。 私は、ゆっくりと身を起こした。前世の最後に握った満員電車のつり革の重みと、七度の処刑台で軋んだ縄の感触を、両方の掌に残したまま、鏡台の前まで歩く。素足の裏に絨毯の毛足が沈み、そのやわらかさが、生きている、という事実だけを、淡々と告げてくる。
そこに映ったのは、十五歳のエミリア・ローゼンベルク。蜂蜜色の髪、きつい印象を与える紫の瞳、薄く嗤うように歪みやすい唇──『悪役令嬢』の顔。
その顔の、唇の端を、私は、そっと、押し上げた。 媚びでもなく、怯えでもなく、嘲りでもない、ただの微笑が、鏡の中に静かに置かれる。
「ごきげんよう、エミリア」
七度目までと、まったく同じ声。 けれど、その声を聴いている耳は、もう、別人のものだ。
廊下の遠くで、馬車の支度が始まる音がした。