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氷の微笑、悪役令嬢は算盤を取る

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の光が書斎の窓硝子を橙に染めはじめた頃、私は化粧台の前で、髪をひとつだけ、低く結い直していた。

夜会の銀の髪飾りは、もう外していた。代わりに、母が遺した地味な紺青の七宝の髪留めを、エルザの白い指に留めさせる。今日この日から、私は「断罪された婚約者」ではなく、「王都を退く公爵令嬢」として、振る舞わねばならない。

「お嬢様、家令長が、玄関広間にて、お待ちかねにございます」

鏡のなかの自分と、私はゆっくり目を合わせた。青ざめた頬、艶を失った唇──それでも、目の奥にだけは、湿り気が一片もなく、澄んでいる。

「お通しして。──書斎ではなく、母の応接間に」

エルザの指先が、髪留めの留め金のうえで、ほんの一瞬、止まった。母の応接間は、母が亡くなって以来、半年のあいだ鍵を閉ざしてきた部屋である。家令長が踏み入る権利を、もとから持たぬ場所だ。

『敷居の上で、立ち位置を組み替えるの』

胸のうちで、それだけを呟いた。私は黙って、先に廊下へ出た。

応接間の扉を、自らの手で押し開ける。半年ぶりの空気と、橙花の香油の残り香とが、ふと、鼻のあたりで混ざり合った。淡い橙色の壁布、母が好んだ刺繍の卓布、母の使った肘掛け椅子。私は──母の椅子ではなく、その向かいの、客人用の椅子に、自ら腰を下ろした。家令長は、母の椅子に座らされる。母の眼差しの位置に、彼を据える、ということだ。

扉が叩かれ、家令長が入室した。敷居の上で、彼の足音が、わずかにつまずいた。

「お早うございます、家令長殿」

私は背筋を伸ばしたまま、扇で唇のあたりを軽く隠した。家令長の視線が、橙色の壁布をひと撫でし、母の椅子のうえに落ち、それから、私のほうへ、ぎこちなく戻ってきた。

「お──お早うで、ございます、お嬢様」

声の最初の綻びを、私は確かに聞き取った。

「王都のヴァランタイン邸より、退去いたします」

私の言葉が、母の応接間の橙色の壁布のあいだに、まっすぐ落ちた。家令長の喉が、紳士の襟を内側から押し上げて、ひと呼吸ぶん、上下した。

「ご、ご退去、と申されますると」 「本日昼過ぎ、馬車三台にて。行き先は、母の遺領、辺境アシュフィールドにございますわ」

家令長の指が、膝の上で、もう一度組み替えられた。指の節が、朝の光のなかで、白く乾いて見える。彼の瞼が、二度、痙攣した。──宰相府からの伝令が、まだ届いていない。私が、彼の主筋より、半日先を取ったのだ。

『殿下方が、私の動きを縛る前に、私の足で、外へ抜ける』

胸のうちで、もう一度、盤面を確かめる。原作のセシリアは、卒業夜会の翌々日、宰相府の使者を屋敷に迎え、差し押さえの予告書を読み上げられ、自邸軟禁のままに春を迎え、夏の修道院送りを呑むしかなかった。──その「使者の到着」を、私は、半日、先に潰す。

そのとき、玄関広間の方向で、馬の蹄が、石畳を叩いた。続けて、家令長配下の若い小間使いが、応接間の扉を、慌てた手つきで叩いた。

「失礼いたします、お嬢様。──宰相府より、特使が、お見えにございます」

家令長の口角が、わずかに、上向きに痙攣した。──彼は、間に合うと、思ったのだ。私は扇を一度、閉じてから、また開いた。

「応接間に、お通しして」

特使は若い文官だった。深緑の宰相府の制服の襟を、几帳面に立てている。書状の蝋封は、まだ温いままだった。彼が馬上で温めながら運んできた書状である。

「セシリア・ヴァランタイン公爵令嬢に、宰相府より、第一通告」

特使の声が、応接間の高い天井に、わずかに上ずった。──私は彼の年齢を、目算で二十二と置いた。宰相派の若手のなかでも、最も気の弱い駒を、寄越したものらしい。

「ヴァランタイン家領南、東、北の三地区につき、来月十五日付をもって、王領への一時編入を予定する旨、お伝え申し上げます」

『早いこと』

口のなかに、また、鉄の味が薄く広がった。

「特使殿」

私は扇を閉じ、膝のうえに両手を重ね直した。

「謹んで、承りました」

特使の眉が、上がった。彼の予習では、私は反論し、嘆願し、半泣きで時を稼ごうとする──はずであった。家令長の口角が、強張った。

「ただ、一点」

私は、机の引き出しから、夜のうちにエルザと書き上げた羊皮紙を、滑らかに取り出した。

「南、東、北の三地区につきまして、ヴァランタイン家は本日付をもって、自主的に、王家へ返上申し上げます。来月十五日を待つには、及びませぬ」

特使が、息を呑んだ。家令長の頬が、ひと刷毛で、紙のように白くなった。

「私、セシリア・ヴァランタインは、母の遺領アシュフィールドのみを残し、本日昼、王都を発ちます。返上書には、すでに父の代理印を、押してございますわ」

『差し押さえの花を、咲く前に、私の手で、刈っておくの』

宰相派は、私の領地を奪うことで「功績」を積もうとしていた。──その功績を、奪う前に、自ら投げ捨てる。彼らの帳簿に書き入れるべき欄が、消える。レオンハルトが彼らに約束した褒賞の根拠も、半分、崩れる。

「お、お嬢様、それは、いささか、性急に──」

家令長の唇が、震えた。彼の禄もまた、その三地区から差配されていた。──彼の半年は、これで、空白に変わる。

「家令長殿」

私は声の調子を、わずかに、優しく整えた。

「あなたの、これまでの忠勤に、深く感謝申し上げますわ。アシュフィールドの寒気は、お年を召された御身体には、些か応えるかと存じます。──ここで、お別れ、と致しましょう」

家令長の喉から、ひゅう、と細い音が漏れた。

正午、ヴァランタイン邸の正面玄関に、馬車三台が静かに連なった。

先頭の馬車には、私とエルザ。二台目には、庭師頭のヴェルナー、厨房のリーゼロッテ、昨夜のうちに名を呼び上げ、私の側に立つことを誓った若い従僕、合わせて七名。三台目には、母の遺品と、書斎から運び出した書類の束、そして父の蔵書のうち、絶対に宰相派の手に渡らせてはならぬ、領地経営に関する古い帳簿の一切。

『七人。──私の選んだ、七人』

私は廊下の端で、出立を見送るために整列した、残る使用人の顔を、ひとりずつ、視線でなぞった。家令長の冷えた表情。その下の三人の、薄笑い。半年前から雇われた小間使いたちの、安堵に似た緊張。──彼らは、今日この瞬間から、宰相府の禄で食う者たちである。私は咎めない。咎める意味が、もはや、ない。

「ご一同、これまで、本当に、ご苦労さまでした」

私は深々と、礼を取った。十二の歳から叩き込まれた、最も丁重な角度の礼である。誰一人、口を開かなかった。半年前なら考えられぬ、薄い沈黙が、玄関広間の天井から、しんと降りてきた。

馬車に乗り込む直前、若い従者がひとり、私の足元に、ふっと跪いた。家令長配下の若手で、私は名を、まだ覚えていなかった。

「お嬢様。──どうか、私を、お連れくださいませんか」

彼の両手が、玄関の石を、握りしめていた。爪のあいだに、半月形に石屑が食い込んでいる。

「お理由を、お聞かせ願えますかしら」

「父が、領南の小作に、ございました。──今朝、家令長殿の指示で、領南の小作には、宰相府の新たな徴収が、来月から課されると、聞きました」

私は彼の指の付け根に、わずかに、私の指先を触れさせた。骨ばった、若い指だった。指の腹に、まだ少年の体温が残っている。

「お名前を」 「ヨーナス、と申します」 「ヨーナス、三台目の馬車にお乗りなさい。荷台の隣でよろしければ」

ヨーナスの瞼が、強く、ひとつだけ瞬いた。

『八人目』

胸のうちで、私は数を、ひとつ書き換えた。

馬車が動きはじめた。鉄輪が石畳を、低く、噛んだ。私は窓硝子に額を寄せ、ヴァランタイン邸の鉄門が、ゆっくり後ろへ流れていくのを、見送った。半年前、父が王都を退かれた朝、私は門のうちから、父の馬車を見送っていた。──今日、私は、門のそとへ、出ていく。

「お嬢様」

向かいの座席で、エルザが、低く言った。

「窓を、お閉めくださいませ。──王宮の、大時計塔の窓辺に、お人影が」

私は窓硝子に額を当てたまま、ゆっくりと視線だけを上げた。

王宮の大時計塔。十四階の、北向きの窓。そこに、二つの影が、立っていた。

ひとつは、長身の影。鎖で吊られた青い肩章が、午後の日射しのなかで、わずかに鈍い光を放っていた。レオンハルト・グラン・カステリア。──彼は、ひとりで、佇んでいるのではなかった。

そのすぐ傍ら、半歩だけ後ろに、もうひとつ、ずっと小柄な、淡い金の髪の影が、寄り添っていた。聖女ミレーユ。彼女の白い指が、レオンハルトの肘の内側を、ごく自然な角度で、支えていた。──まるで、永年そうしてきた者の、慣れた所作で。

私は瞼を、わずかに、伏せた。

『ご覧になりたいのなら、最後まで、ご覧あそばせ』

胸のうちで、それだけを告げた。馬車は、王宮の影を、ひとつずつ、後ろへ流していく。

ミレーユの薄翠の瞳が、ふと、こちらに向けられた──ような、気がした。距離は十町。ありえぬはずの視線が、それでも、私の頬の表面に、冷たい絹の指先のように、撫でて、過ぎた。

『あなたの脚本も、もう、ここから先は、白紙ですわ』

私はエルザの手のうえに、自分の手を、そっと重ねた。馬車の鉄輪が、王都の最後の石橋を、軽やかに、ひとつだけ、跳ねた。

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