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氷の微笑、悪役令嬢は算盤を取る

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の革張りの座面が、私の腰のあたりで、小さく沈んだ。

王宮を出て四半刻、車輪が王都の石畳を踏む音は、思いのほか規則正しい二拍子で、私の脈の倍ほどの遅さで刻まれていた。窓硝子に額を寄せると、夜気の冷たさが化粧の下の汗を一筋、こめかみへと押し戻していく。銀杏の街路樹の合間から、王宮の最後のシャンデリアのひと粒が、ようやく視界の隅に流れて、消えた。

「お嬢様」

向かいの座席で、エルザが膝掛けの毛織を差し出した。私は黙って受け取り、夜会服の腿に掛ける。毛織の重みが、強張りを解いてしまいそうになる肩を、もう一度束ね直してくれた。

「お顔の色が、ひどくお悪うございます」 「化粧で誤魔化せる範囲よ。屋敷に着きましたら、まず、父の書斎の鍵を開けてちょうだい」

エルザの白い指先が、銀の燭台の柄の上で、ぴくりと止まった。父が王領を退けられて以来、書斎の鍵を許される者は、私とエルザの二人きりである。屋敷の家令長は、宰相派の差配で半年前から入れ替わった。

『つまり、家の半分は、すでに敵地』

胸のうちで、盤面をもう一度、置き直した。十二の歳のころ、領南の小川で父と並んで石を積み上げた、灰色の小石の感触を、なぜか唐突に思い出した。あの川は、確か、母の故郷から流れ落ちる支流だったはずだ。

馬車が石橋を渡る瞬間、車輪の音が甲高く跳ねた。エルザが胸に抱いていた燭台が、絹の布越しに、ことりと、低く鳴った。東の屋根の稜線に、薄水色がゆっくり広がりはじめている。──夜は、まもなく、明ける。

ヴァランタイン邸の鉄門は、私が幼い頃と寸分たがわぬ角度で開いた。砂利を踏む靴音、玄関広間の燭涙の蝋の匂い、家令長の慇懃すぎる腰の沈め方。──すべて、半年前から繰り返してきた光景である。

「お早いお戻りで、お嬢様」

家令長の細い声に、私は会釈ひとつだけを返した。視線は合わせない。彼の眉のあたりが、ほんのわずか、こわばったのを横目に確かめてから、私はまっすぐ父の書斎へ向かった。エルザが廊下の燭をひとつだけ点して、先を歩く。背後で家令長の足音が、敷居の手前で止まる。彼は鍵を持たない。

書斎の扉を閉め、内側から閂を下ろした瞬間、私は初めて、夜会用の張りを肩から落とした。閂が木枠に噛み合う鈍い音が、扉一枚を隔てた廊下のざわめきを、ふっと遠くへ押しやってくれる。胸の底で凝っていた息が、ようやく、自分の呼吸の速度を取り戻した。

机の上には、父の留守を装って積み上げられた紙束の山。その大半が、領地境の侵犯を告げる「通告書」と、宰相府からの「査問予告」だった。私はランプを近づけ、上から順に目を通していく。羊皮紙のひと枚ひと枚が、湿気を吸って、指の腹にわずかに重く貼りつく。蝋の封の赤が、燈火に照らされるたび、古い血の色のように沈んで見えた。

──アシュフィールド領北東斜面の伐採権、ベルクハイン伯爵家による無断申請。 ──南境、川向こうの牧草地、ルッツ侯爵家による測量開始。 ──宰相府、ヴァランタイン家領南三カ所に関し、来月十五日付の差し押さえを検討。

『早いこと』

口のなかで、鉄の味がした。卒業夜会の断罪は、儀式に過ぎない。彼らの本命は、私と父の名のもとから領地を一片ずつ削り取り、宰相派の禄として再分配することだ。原作の脚本通りであれば、私は来月のうちに王都の屋敷を奪われ、夏至までに辺境の修道院へ押し込められる。──そこで、原作のセシリアは、病で死ぬ。

「エルザ」 「はい」 「屋敷の使用人三十名を、忠誠順に、頭のなかで並べて頂戴」

エルザは、燭の影のなかで、ゆっくり指を折りはじめた。

「庭師頭のヴェルナー、亡き奥様の代から仕えております。確実にお嬢様の側にございます。厨房のリーゼロッテ、代々のヴァランタインの家。──家令長と、その下の三名は、宰相府より遣わされた者。若い小間使いはいずれも昨年以降の採用にて、信を置けるとは、わたくしの口からは申し上げられませぬ」

『信に足るは、せいぜい七人。残りは、見張られている駒として運用する』

私は紙束の隅に、爪先ほどの大きさで「七」と書きつけた。それから羽ペンを置き、顔を上げた。インクの黒が、燈火の輪のなかで、ほんのわずかに乾きかけ、紙の繊維へとゆっくり染み広がっていく。

「もう一点、確認したいことがあるの」

エルザの白い指が、燭台の柄を握ったまま、止まった。指の関節が、燭の橙に照らされ、ひと回り蒼く浮き上がる。

「あなたの──お祖母さまの、こと」

エルザの瞳が、ろうそくの灯を映して、ひと粒だけ揺れた。

「……お嬢様は、いつ、お気付きに」

エルザの声は、ほとんど吐息だった。私は机の引き出しの奥から、母の形見の小さな木箱を取り出した。蓋を開ける。古い樫の匂いと、母が好んだ橙花の香油の残り香が、ほんの一瞬だけ、燈火の温みのなかで重なった。内側に、薄青い線で刻まれた紋様がひとつ、湿気にわずかに滲みながら、残っていた。

「母が亡くなる前の冬。これを見せてもらったの。『エルザの祖母から預かったもの』、と」

私は紋様を指の腹で撫でた。冷えた木の肌に、線刻のごく細い段差が、爪の根に触れる。指先の冷えとは別に、線の底にだけ、ほのかに体温に近い温度が残っているような、奇妙な錯覚があった。

「当時は意味が分からなかった。けれど、この紋様は──『銀星の薔薇』の隠しルートで、悪役令嬢が決して触れぬ階層の文献に、一度きり出てくるのよ」

『水の精霊との、契約刻印』

幾百時間、悪役令嬢の死をなぞり続けたあの夏の終わりに、私は最深部の脚注で、ようやくこの線に行き当たった。プレイヤーの大半は到達しない。私は、到達した。

エルザは、しばらく、声を出さなかった。やがて、襟元の白い布を、自分の指で、わずかに引き下げた。布地が肌から離れる、衣擦れのごく細い音が、書斎の静けさのなかで、奇妙なほど鮮明に響いた。

鎖骨のすぐ下、白い肌の上に、薄青い同じ紋様が、木箱のそれよりも鮮やかに、彼女自身の肉に刻まれていた。燈火の傾きにあわせて、線のひと筋ずつが、まるで内側から呼吸するように、淡く明滅して見えた。

「祖母は、辺境アシュフィールドの古き精霊使いの末にございました」

エルザの声は、一文ごとに、震えながら、ゆっくりと固められていった。

「晩年、奥様にお仕えし、息を引き取る際、わたくしと、奥様にひとつずつ、刻印を遺しました。──『この子らが、共にひとつの土地を踏むときが来たら、契約は再び、目を覚ますだろう』と」

私は息を細く吐いた。母の死後、私のもとに残された唯一の侍女が、エルザだった。たまたまではない。母は十年以上も前から、この夜のために、エルザを私の側に縫いつけていた。

『母上。──あなたは、どこまで、お見通しでしたの』

胸のうちで、母の名を、初めて誇りに近い熱で呼んだ。

私は机の上に、王都の地図と、辺境アシュフィールドの古い領図を並べた。父が療養に出る前夜、私の手のひらに無言で押しつけた、あの粗末な羊皮紙である。

「エルザ。──Xデーは、半年後の、建国祭よ」

エルザが顔を上げた。

「王家、宰相派、レオンハルト殿下、聖女ミレーユ。──盤上の駒が、王都の大広間に一同に揃うのは、あの夜だけ。決着の場所を、私から動かすわけにはいかない」

私は指を三本、地図のうえに立てた。

「精霊との契約。銀の鉱脈。隣国との、王家を介さぬ交渉路」

爪先で、印を、地図の三点に残していく。

「いずれも、ゲームの隠しルートで、ほんの数行ずつ触れられた財よ。原作のセシリアは、決して気づかなかった。──私は、半年で、この三つを取りに行くわ」

「お嬢様」

エルザが、初めて、震える指を、私の手の甲のうえに重ねた。机の冷えが、二人の指のあいだで、ようやく一つの温度を持ちはじめる。

「祖母が遺した、もう一つの言葉がございます。──『契約には、必ず、代償が伴う』、と」

「承知しているわ」

私は短く答えた。代償の見当も、すでについていた。原作最深部の、ほんの数行の脚注。読み飛ばす者が大半の、淡い数字の列。

『──十分よ。私の命の値段は、もう一度、私が決めるの』

東の窓から、夜明けの最初の光が、机のうえの地図に細く差し込んだ。

辺境アシュフィールドの海岸線が、青みを残した薄明のなかで、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。私は羽ペンを握り直し、地図の余白に、ひとつだけ、日付を書き入れた。

──建国祭。半年後の、夏の終わり。

ペン先が羊皮紙を擦る微かな音が、書斎の闇の最後のひと滴を、押し出した。

「馬車の手配、明日の正午までに整えて頂戴。家令長には、私が直々に『退去のご挨拶』を申し上げるわ」

「かしこまりました」

エルザの声は、もう、震えていなかった。

私は地図を、ゆっくりと巻き戻した。羊皮紙の固い手触りが、半年分の重さを得て、掌のなかで、わずかに熱を持ちはじめていた。

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