第1話
第1話
扇の骨が、私の手の中で軋んだ音を立てた。
七色のシャンデリアの真下、磨き抜かれた鏡張りの大広間で、私──公爵令嬢セシリア・ヴァランタインは、銀糸の刺繍を施した夜会服の裾を、ほんのわずかに沈めていた。卒業夜会の終盤、本来であれば一年の修練を讃える曲が流れているはずの時刻である。
「セシリア・ヴァランタイン」
第二王子レオンハルト・グラン・カステリアの、低く張りのある声が、楽団のざわめきをひと息に断ち切った。彼の指は、震える小柄な少女──聖女と呼ばれる平民出のミレーユ・ロシュの肩を、見せつけるように抱き寄せている。
「貴公は、我が婚約者の地位にありながら、平民出の聖女に再三の害を加え、教会の階段から突き落とすに至った。冷酷であり、悪辣である。よって本日この場をもって、貴公との婚約を、正式に破棄する」
頭の奥で、何かが静かに弾けた。痛みではない。長く錆びついていた錠前が、外れた音だった。
──ああ、これは『銀星の薔薇』、第二王子ルートの末。私は今、断罪されている。
病室の白い天井、点滴の管が右腕の血管に這う鈍い重さ、母が古道具屋で買ってきてくれた、放熱ファンの唸る中古のノートパソコン。震える指でセーブデータを巻き戻し続けた、退屈で長すぎた最後の夏。意中の五人すべてにセシリアが懐かれた瞬間、悪役令嬢の処刑ルートは確定する。私はそのとき、五通りの死を何度も見届けた。最後はギロチン、その前は毒杯、その前は塔から突き落とされ、その前は──。
『……死んだのね、私』
胸の奥で短く呟いてから、私は閉じた扇を、ゆっくりと膝の前で組み直した。骨組の螺鈿が、シャンデリアの光をひと粒掬って、私の指先に小さな虹を散らす。その細やかな煌めきさえ、今の私には、過去の自分の死を弔う燭の火のように見えた。
レオンハルトの背後で、宰相派の若い貴族たちが薄く笑っていた。父──公爵ヴァランタインが昨年、政敵の謀により療養名目で王領を退けられた、あの夜と同じ笑いだ。母はもうこの世にいない。屋敷に頼れる兄弟もない。社交界における私の盾は、半年前に既にすべて剥がれ落ちていた。
『つまり、脚本は粛々と進行している。私の処刑予定日は、夏至の朝』
身体の芯が冷えていく感覚を、私は意識して数えた。一、二、三。震えていない。頬の血の気が引いて青ざめてはいるはずだが、表情は崩れていない。十二の歳から叩き込まれた礼儀作法が、今このときばかりは私を救っていた。
「セシリア様……どうか、わたくしを、お許しくださいませ」
ミレーユが、涙に濡れた瞳で私を見上げる。淡い金の髪、戸籍の確かでない祖父譲りの薄翠の瞳、磨かれきっていない子音の発音。教会が拾い、王家が囲い、いずれは王妃となる予定の、聖女。
『あなたが、教会の地下で何を握っていたか、私はもう知っているのよ』
物語の終盤、彼女は『分岐の最奥』においてのみ、ひっそりと旧時代の魔導書のページを撫でていた。表のシナリオでは健気な少女、裏では扇動者。原作のセシリアは、その裏面に気づかぬまま、王都広場のギロチン台に上った。
私はゆっくりと顔を上げた。
「殿下」
声が、思いのほか澄んで通った。広間の端に控えていた老侍従が、ぴくりと白い眉を動かす。
「ご宣告、確かに承りました」
ざわめきが、波になって広間を満たした。 「あら、認めるの」「やはり後ろめたいことが」「公爵家も、これで終わりね」 扇の陰で囁き合う令嬢たちの声を、私はひとりずつ拾い上げて、頭の中の帳簿に書き留めていく。誰が誰の派閥か。誰がレオンハルトに媚び、誰が父の失脚に乗じて領地境を侵してきた家か。──全員、覚えていく。
「ただ、一点だけ、申し上げておきたい儀がございます」
扇を、口元の高さに開き直した。社交界において、これより内密の話に入るという合図である。レオンハルトの眉が、わずかに寄った。
「教会の階段の件、聖女様が転落なさった日付は、この春、三月二十日と伺っております。当夜、わたくしは父の見舞いのため王都を離れ、領南の修道院にて夜を過ごしておりました。送迎にあたった近衛の御名と、修道院長の証言は、いずれも記録に残されておりますわ」
紙を提出する必要はない。今この場にいる三百名の貴族の耳に、事実を一度だけ通しておけばよい。後日、誰かが裏を取れば、すぐに齟齬が露見する類の情報を、私は淡々と、感情を一切乗せず、置いた。
広間の空気が、一拍、確かに止まった。誰かが息を呑む細い音、絹擦れの衣ずれ、シャンパングラスの脚を握り直す指の小さな軋み──それらが、研がれた針のように私の耳に届いてくる。レオンハルトの背後で薄く笑っていた若い貴族たちの口角が、ひとり、またひとりと、目立たぬ角度で下がっていくのが、扇の陰から確かに見えた。宰相派の老侯爵の瞼が、ほんの一瞬、痙攣した。
「とは申せ──」
私はそこで一拍、間を取った。
「わたくしは、婚約破棄の宣告を覆していただこうとは、毛頭、考えておりません」
レオンハルトが、息を呑むのが、扇越しに見えた。
「殿下がそのようにお望みであられるならば」
ゆっくりと頭を下げ、また上げる。
「謹んで承りますわ」
その瞬間、自分の唇の端が、ほんのわずかに、上向きに引き上げられたのが分かった。氷の微笑──社交界の老婦人たちが、十四の頃の私にこっそりとつけたあだ名である。父が王都を離れて以来、私が長く封じていた、本来の私の表情だった。
「セ、セシリア──」
レオンハルトの声から、初めて余裕が消えた。彼は脚本通りに私を断罪したつもりで、脚本にない返答を受け取り、その齟齬の意味を、彼の頭脳がうまく処理しきれずにいる。額に、うっすらと汗が浮かんでいた。
『脚本は、ここから、私が組み替える』
胸の中で、それだけを呟いた。「負けない」とは、まだ言わない。決意の宣言は、それを実行する具体的な手順が組み上がってから、初めて意味を持つ。今の私の手の中にあるのは、辺境アシュフィールドの相続権、父の残してくれた数本の細い人脈、そして──物語の知識という名の、半年分の先読み。三つだけ。だが、十分だ。
私は片膝の沈みを正し、夜会服の裾を一寸だけ持ち上げ、緩やかに、しかし完全な角度で、最後の礼を取った。十二年間、拷問のような姿勢矯正に耐えてきた背骨が、まっすぐに伸びていた。
「皆様、長らくお世話になりましてございます」
沈黙が、シャンデリアの硝子の擦れ合う細い音まで、広間に響かせた。
「ヴァランタイン公爵家の名は、本日この場では汚させていただきましたが、必ずや、わたくしの手で磨き直して、御覧に入れます。──いずれ、また」
「『いずれ』、だと」
レオンハルトが、噛みつくように呟いた。私は答えず、踵を返した。
ヒールが大理石を打つ音が、自分でも意外なほど均一に響いていた。一歩、二歩。すれ違いざま、聖女ミレーユの瞳の奥で、涙には不釣り合いな冷たい光が一瞬よぎったのを、私は見逃さなかった。
『あなたとも、また、必ずお会いしますわ』
心で告げてから、大広間の両開きの扉の前に立つ。若い従者の手によって、扉がゆっくりと開かれた。
外の廊下から流れ込んできた夜気が、化粧の下に滲んでいた汗を、ようやく冷やした。
馬車回しまでの長い回廊を、私はひとりで歩いた。誰も、追ってはこなかった。父が王都を離れて以来、ヴァランタインの娘に近づくことは、社交界において、ある種の自殺行為だったからだ。
回廊の端、月明かりの差す柱の影で、ひとりの侍女が、私の外套を胸に抱えて、立っていた。
「お嬢様」
寡黙なはずのエルザの声が、わずかに震えていた。私は黙って外套を受け取り、肩に羽織る。重い毛織の生地が、強張りきっていた肩の輪郭を、ようやく解いた。
「エルザ」
「は、はい」
「明日の朝一番で、王都の屋敷を引き払う準備を、始めて頂戴。行き先は──母の遺した、辺境のアシュフィールド領」
エルザの目が、月の下で大きく見開かれた。私は彼女の震える指先を、自分の手のひらでそっと包む。十二の歳から私の髪を結ってきた、骨ばった指だった。
「半年あれば、十分よ」
何が、とは言わなかった。エルザもまた、問わなかった。ただ、深く頷いて、私のために馬車の扉を、自らの手で開けた。
私は夜会服の裾をひとつ持ち上げ、馬車の踏み板に、足をかけた。