第1話
第1話
扇の骨が、掌の中で軋んだ。
大広間のシャンデリアの下、三百を超える貴族の視線が私の横顔に集まっていた。床に散った白薔薇の花弁が誰かの靴底に踏まれ、甘く青い匂いを肺に送り込んでくる。夜会の空気は蜜のように重く、ワインと蝋燭の蝋と、異国から取り寄せた香水が幾層にも折り重なって漂っていた。
「エレノア・ファルクリッド公爵令嬢」
王太子アレクシス殿下の声が、楽団の旋律を鋭く断ち切った。金糸の祭服が磨き上げた大理石に映り込み、その背後に控える薄紅のドレス——令嬢セシリア・ブランジェが、頤を伏せながら口角だけをほんの僅かに緩めているのが見えた。
「私は本日この場において、貴殿との婚約を破棄することを宣言する」
ざわめきが、潮騒のように広がった。
誰かが短く息を呑み、誰かが扇の陰で囁きを交わす。楽師が弓を下ろし、給仕が銀盆を取り落としかけて手首でかろうじて受けた。けれど私はまだ、目線を動かさなかった。ただ、閉じた扇の柄——祖母の代から受け継いだ銀細工の、鹿の細脚を模した部分——に爪を立て、そこへ体重をそっと預けていた。
「理由を伺ってもよろしゅうございますか、殿下」
自分の声が思いのほか平らに響いたことに、私は小さな安堵を覚えた。
「貴殿は平民上がりの従者に対しても分け隔てなく接し、侍従の子供に菓子を与え、馬丁の娘に書を貸した。王太子妃たる者の振る舞いとは言い難い。公爵家の品位に欠ける、と父王もご判断である」
品位、という二文字が、天井の金箔に跳ね返って冷たく降りてきた。
私はゆっくりと扇を腰の高さに戻し、左足を引いた。ドレスの裾が大理石を撫でる、乾いた絹ずれの音だけが、この一瞬、広間を支配する。
「承知いたしました、殿下」
深く、深く、腰を折る。額に落ちてくるのは、銀の前髪の重みではなく、十年間、並んで立ち続けてきた年月そのものの重さだった。
「長らくのご厚誼、謹んで感謝申し上げます。どうか末永く、セシリア様とご健勝であられますよう」
顔を上げたとき、殿下の視線がほんの一瞬だけ揺れた気がした。けれど、それを確かめるつもりは、もうない。私は一度も振り返らず、扇の骨を指に食い込ませたまま、広間を退出した。
馬車の車輪が石畳を噛む音が、絶え間なく続いていた。
向かいに座った侍女のマリーが、膝の上で拳を握りしめたまま俯いている。頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ小さく肩を震わせていた。
「マリー」
私の声に、彼女は弾かれたように顔を上げる。
「泣いてはなりません。涙はあなたのものでも私のものでもない。今夜、あの広間で流すには、惜しすぎます」
「……お嬢様」
「明日、明日になってから、私もきっと少しだけ泣きます。今夜は駄目。屋敷の門を潜るまでに、お互い頬の血の気を戻しておかなくては」
マリーは、しゃくり上げながら何度も頷いた。
馬車の窓に額を預けると、外は墨を流したような夜闇だった。王都の家々の灯りが遠い星のように流れていく。私は扇を開いて膝に置き、骨の一本一本を指でなぞった。先ほど爪を立てた銀の部分が、わずかに凹んでいる。祖母から譲り受けたこの扇は、私の十二の誕生日、公爵家の裏手にある古い物置小屋で、もう一人の子どもと一緒に眺めた品だった。
——あの子は、元気だろうか。
ふいに、鼻先に埃の匂いがよみがえった。
十年前の夏。祖父の代の書物を整理するよう命じられ、私は十三の春を過ぎたばかりの背丈で、埃を被った木箱の前にしゃがんでいた。そこに、使用人見習いの少年がひとり、遠慮がちに顔を出した。
「レオン、と申します」
銀髪の、私より頭半分ほど背の高い少年だった。瞳の色は薄い湖のような青緑で、指先は薪割りの豆だらけだった。誰もが彼を孤児院から引き取られた下男の子と呼び、台所の隅でパンの耳をかじらせていた。
けれど、私は、彼の指が本のページをめくる仕草に見惚れた。あの子は、字を読めた。
「読めるのならば、この書をお読みなさい。私には難しすぎて投げ出してしまったの」
差し出した祖父の薬草学の写本を、レオンは目を二度瞬かせ、それから深く頭を下げて両手で受けた。
「勿体のうございます、お嬢様」
「エレノア、でよろしくてよ。ここには私とあなたしかいない」
彼はそれから毎日、同じ時刻に小屋へ来て、私に文字を教わる代わりに薬草の名を教えてくれた。カモミールは熱を下げ、ヒソップは咳を鎮める。どうしてそんな知識があの少年の中にあったのか、当時の私は不思議にすら思わなかった。
二度目の冬が来る前に、レオンは屋敷から消えた。父も、執事も、母でさえ首を傾げた。まるで、はじめから存在しなかったかのように。
十年の間に、彼の声の高さも、笑うときの目尻の皺の寄り方も、少しずつ記憶から漏れていった。けれど、あの薄青い瞳の色だけは、不思議と鮮明に残っている。
——あの子は、今、どこにいるのだろう。
屋敷に戻っても、父は私を出迎えに出てこなかった。
門扉の陰で、執事のギルベルトだけが白髪を揺らして頭を下げた。普段は私の瞳を真っ直ぐに見る男が、この夜は靴先に視線を落としたままだった。それが答えだった。広間での出来事は、馬よりも早く、すでに父の耳に届いている。
「旦那様は、書斎にてお休みでいらっしゃいます」
「そう。おやすみと、お伝えして」
私はマリーにドレスを脱がせるよう命じ、浴室で湯を使うのも断った。寝台に横たわる気にもなれず、代わりに夜着の上に羊毛のショールを羽織って、廊下の奥の小さな書斎に向かう。公爵家の本邸の中で、唯一、私が自由に鍵をかけられる部屋だった。
暖炉の火を自分で起こす。炭が爆ぜて、黄色い舌が鉄の縁を舐めた。机の引き出しから取り出したのは、革張りの日誌と、封蝋で閉じた封筒の束だった。十年分の、殿下との書簡。少女の私が何枚もの便箋に「殿下の御健勝を祈念いたします」と書きつけ続けた、無駄な年月の堆積物。
私は、それを一通ずつ火にくべた。
紙は一瞬で丸まり、朱の封蝋が蕩けて黒い雫になった。炎の熱が頬を撫でる。けれど悲しみも怒りも、思ったほどには胸を焦がさなかった。むしろ、私は静かな決意のなかで呼吸を整えていた。
——私の人生は、殿下のものだったのではない。
領地経営の帳簿。小作人の暮らし。北の国境の麦の出来高。南の港の関税の推移。十八の夏までに、公爵家の娘として叩き込まれた知識は、王太子妃の肩書きが剥がされたところで、私の血肉として残る。扇の使い方、領地の歩き方、貴族語の抑揚、どれも誰かに捨てられて消える類のものではない。
アレクシス殿下は、私の何を、破棄したつもりなのだろう。
書簡の最後の一通が灰になったとき、私は立ち上がった。窓辺に寄り、厚いカーテンの端をそっと指でめくる。正門の門番小屋で、灯が二つ、三つと揺れている。夜更けなのに、誰かが出入りしている気配——馬の息の音。蹄が石畳を叩く音が、長い道のりを駆けてきたもののように濡れている。父の寝室の灯が、いま、ぽつりと点いた。
私は窓から身を引き、ショールを肩に深く巻き直した。明日——いや、すでに今夜のうちに、次の布告が下されるのだ。
覚悟は、できている。
机の端に戻した扇を、私はもう一度そっと手に取った。祖母の銀細工。鹿の細い脚。——そして、その表装の絹に一点だけ、色の褪せた押し花の跡が残っている。
十年前の夏、熱で寝込んだ私の部屋に入ることを許されなかったレオンが、小さなカモミールを一輪、扇の布の裏に挟んで、執事に託してくれたのだ。「お嬢様のお熱が、早く引きますように」と。
私は絹越しに、乾いた花びらのかたちを指腹で撫でた。
遠い馬蹄の音が、夜の底でふいに別の響きを帯びた気がした。使者の馬ではない、もっと軽やかで、もっと急いでいる、誰か別の馬。けれど私の耳が捉えたその気配は、風の悪戯だったのかもしれない。
私は扇を胸元に抱き、書斎の鍵を内側から静かに下ろした。
明日の朝、私は、深くお辞儀をする練習を、もう一度する。