第3話
第3話
指先が、布地越しに熱を拾った。
いや、熱ではない。布の繊維そのものが、内側から震えていた。三年前に母の形見の銀糸で縫い直した藤色の胸当てが、今、絹の糸目を一本一本透かして、白い光を放ち始めている。指の腹に触れる温みは、火傷を負わせる類のものではなかった。むしろ、指先のあかぎれの上へ、乳のように温い膜が注がれてゆくような、そういう優しさの熱だった。
「……エレノア嬢」
殿下のお声が、遠くで、一度だけ掠れた。
私は顔を上げなかった。光が胸元から顎の下へ、首筋を伝って鎖骨の窪みへと這い上がってくるのを、私は瞼の裏で静かに数えていた。肩甲骨の間で、結い上げた髪の根元が、湿り気を帯びて冷える。広間の空気は熱いはずなのに、冷えは私の内側から広がってゆく。いいえ──澄んでゆく、とでも言うべきか。肺の奥に、冬の夜明けの井戸水のような澄明が、ゆるゆると満ちてゆく。
扇を握る指が、自然に緩んだ。畳んだ扇の先を胸に添えたまま、私はもう一度だけ、深い礼のかたちで上体を倒す。
「──謹んで、ご叱責を、頂戴いたしました」
唇から、先刻とまったく同じ言葉が、まったく違う響きで零れた。震えぬ声、というのではない。澄んだ声、というのも、まだ少し違う。自分の声でありながら、自分より少し上の天井から、ゆるやかに落ちてくる声だった。
広間の楽団は、音を失ったまま、譜面台の影に固まっていた。シャンデリアの青い炎が、ちろちろと、まるで魚の鰭のように揺れている。誰も、息を継げなかった。私の鎖骨の上で、藤色の布地の奥から、ひとつの紋様が、輪郭を結び始めていた。
最初は、一筋の弧だった。それが翼を広げるように左右へ延び、百合の花弁へと分かれ、花弁の中心に、六芒の星が、蕊のように宿る。描かれるのは、私の意思とは無関係であった。肌の下で、三年ぶんの鉄線が、内側から光の鑿で彫り直されてゆく心地がした。
広間のどこかで、老いた公爵夫人が、扇を取り落とした。
「……聖女、紋」
震える声が、絨毯の波に沿って、さざ波を立てる。
「馬鹿な。王家の系譜にしか──」 「見なされい、あの光を」 「……瘴気が、消えておる」
瘴気。その一語に、私の襟足の毛がひとつ、ぴんと立った。瘴気とは、王都の外、辺境の領地でのみ耳にする言葉であるはずだった。けれど、広間の貴族たちの幾人かは、高い天井の四隅を見上げて、両手で口許を覆っていた。私の目には見えぬ何かが、そこから、霞のように剥がれ落ちてゆくらしい。シャンデリアの火が、青から、真白へと色を戻した。天井近くの空気が、ひと呼吸ごとに澄んでゆくのが、広間の全員の肺で、同時に感じ取られたらしかった。
息を吸う音が、広間のあちこちで、ほとんど同時に上がる。
「──っ」
セリアが、殿下の腕から、ぐらりと離れた。
離れた、というよりは、何かに弾かれた、と言うほうが近い。彼女は二歩、三歩と後ろへよろめき、絨毯の上で踵を踏み外した。白い手袋の下で、指先だけが、やけに赤い。その赤が、爪の色ではなく、肌が滲むように浮かべた斑であることを、私はその時に知った。解毒の湯に浸かった獣が、毛の奥に隠していた虫食いを露呈させるのと、似ていた。セリアの頬の、常ならぬ紅色──あれは、化粧ではなく、何かの気の発露であったらしい。
「い、嫌。近づかないで──」
震えた声は、もはや演じられた嗚咽ではなかった。私はまだ、彼女の方へと一歩も近づいてはいない。ただ、鎖骨の紋が、輪郭を深め、花弁の縁から細い光の粉を零し始めただけである。その粉が、絨毯に落ちる前に空中で溶け、香油のように広間へ散ってゆく。老公爵夫人の扇の骨が、宙で、ぱきり、と音を立てて、歪みを戻した。
最初にひざまずいたのは、末席にいた地方貴族の老翁だった。
辺境伯の家紋を胸に留めた白髭の老翁が、両膝を絨毯に落として、額を床へと擦りつけた。続いて、その孫娘が同じ姿勢を取り、そのまた隣の夫婦が、息を呑んだままの姿勢で、ゆっくりと崩れ落ちるようにひざまずく。波が、広間の端から中央へと、ゆっくりと伝わってくる。絹の衣擦れの音が、絨毯の上で低く折り重なり、やがて、広間のほとんどの者が、私のほうへと頭を垂れていた。
立っているのは、玉座の段の殿下と、セリアと、そして、私だけ。
殿下のお顔から、先刻までの冷えた線が抜け、代わりに、青白い狼狽が浮かんでいた。唇が、二度、三度、何か言葉を形作ろうとして、そのたびに閉じられる。セリアは絨毯の縁まで下がり、銀の髪飾りを押さえたまま、細い悲鳴を喉の奥へ押し込んでいた。
私は、ひざまずく人々の頭越しに、そっと、顎を上げた。
広間の天井が、遠い。シャンデリアの白い炎が、私の視界の中で、じん、と一度だけ膨らんだ。コルセットの下で、胸の手紙が、もう熱を持っていなかった。三年、私の肋骨を灼き続けてきたあの一点の温みが、今は、微かな紙の重さに戻っている。──ああ、手放してしまったのだ。自分の、ために。
「──控えよ」
殿下が絞り出したお声は、もはや王族の宣告ではなく、立ち尽くす一人の青年の震えた呼吸に近かった。
「全員、顔を、上げよ。皆、何を、しておる」
誰も、応じなかった。
応じたのは、代わりに、一人の足音だった。
広間の最奥──大扉の向かいに位置する、奥廷への控えの廊から、重い靴音が、一歩、また一歩と、絨毯の下の石を踏み鳴らして進み出てきた。金具のついた革長靴の音であった。舞踏靴の類ではない。遠征の装いの、戦場の金具のついた、重い靴の音である。広間に居合わせた者たちが、ひざまずいたまま、額を上げる気配もなく、肩だけを強張らせた。
人波が、割れる。
割れた人波の向こうから、黒の外套が、大股に進み出てきた。
夜の森を厚く煮詰めたかのような、漆黒の外套だった。裾には、銀糸でも金糸でもない、燻し銀の刺繍が走っている。竜の鱗を寝せて並べたような、抽象化された紋様。私はその紋を、幼い頃、父の書斎の地図の片隅で、一度だけ見たことがあった。王都から遥か北、瘴気で閉ざされた辺境──竜公爵領の家紋。
背丈は、並の貴族よりも頭ひとつ、あるいはふたつ、高い。肩幅は外套の下でも隠しきれぬほど広く、歩みのたびに外套の裾が、まるで別の生き物のように絨毯の上を滑った。黒い革の手袋に包まれた左手は、腰の剣の柄に添えられたまま、決して離されない。顔の半分は、持ち上げた襟と、深く下ろした黒い前髪の影に沈んでいた。見えたのは、冴えた刃のような顎の線と、薄く結ばれた唇だけである。
「竜、公爵……」
誰かが、ひざまずいたまま、掠れた声で呟いた。その一語で、広間の空気の温度が、さらにもう一段、沈んだ。殿下のお顔から、残っていたわずかな血の気が、一斉に引いてゆくのが、私の位置からでも見て取れた。
黒衣の御方の足は、迷わず、私の方へと進んでくる。
ひざまずいた老公爵夫人の裳裾を跨ぎ、譜面台の倒れた楽団員の脇を抜け、絨毯の中央、私の立つ位置から三歩手前で、その靴音は、ふつりと止んだ。
御方は、顔を上げない。深く下ろした前髪の影から、ただ一対の瞳だけが、私の鎖骨へ──否、その奥に灯る紋へと、向けられていた。金を溶かした湖の底に、夜明けの青をひと匙沈めたような、奇妙な色の瞳だった。怒気はない。驚きも、ない。ただ、長いこと失われていた地図の一片を、ようやく盤面に嵌めた時のような、静かな凝視があるだけだった。
私は、扇を握り直した。掌の汗で、扇の骨がわずかに湿る。
「──黒衣の御方」
喉の奥で、声が一度、引っかかった。三年、他者の視線の中で意識的に発してきたどの声よりも、今、目の前にいるただ一人の視線の重さは、私の声帯を静かに萎ませた。
黒衣の御方の唇が、薄く、動いた。
「エレノア・ヴァレンティーナ・ディ・ロンバルト嬢に、ござるか」
低く、乾いた、けれど広間の隅々にまで届く声であった。何かを問うているのではなかった。すでに答えを知っている者が、確かめのためだけに口にする、静かな声であった。
私は、扇を胸の前に添え、裾を、ほんのわずかに、摘まんだ。
「──はい」
その返答と共に、黒衣の御方は、外套の裾を片手で払い、前髪の影から、ようやく、そのお顔の全てを上げた。
見るべきではない御顔であった。
なぜならば、その御顔を一度でも見てしまえば、私はもう、王都の夜会の絨毯の上へ、元のとおりには戻れぬ気がしたからである。
私の踵が、古い舞踏靴の中で、ほんの一瞬だけ、浮いた。