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婚約破棄の夜、聖女紋が咲く

第2話 第2話

第2話

第2話

礼を解き、顔を上げる私の睫毛の先で、蝋燭の光がちらりと揺れた。首筋が冷えている。広間の空気は熱を孕んでいるはずなのに、汗ひとつ滲まぬ肌の下で、血だけが忙しなく流れていた。シャンデリアから垂れる水晶が、絨毯の上に小さな光の粒を散らしている。その粒のひとつが、私の足許まで転がってきて、古びた舞踏靴の爪先でふっと消えた。

殿下の視線は、私の頭のすぐ上の空間に留まっていた。私の目を見ようとはなさらない。三年の沈黙の重みが、あの視線の微かなずれに凝縮されていた。

「エレノア嬢」

ふたたび呼ばれた名が、先ほどよりも一段低く、冷ややかな響きを帯びている。私は扇の柄をしっかりと握り直し、絨毯の上に爪先を整えた。古い革の舞踏靴は踵を噛み、脹脛が微かに震える。それでも背筋を、母から授かった一本の芯のように、私は曲げなかった。

「はい、殿下」

返答の声は、自分の耳に届くよりも先に、高い天井へと吸われてしまった。代わりに、広間の奥から、扇の裏で囁き交わす忍び笑いが、細波のように押し寄せる。セリアが殿下の腕に添えた指を、もう一段深く絡めるのが視界の隅に映った。娘らしい白い指先だった。──いえ、指輪のないはずだった、指先である。婚約者たる私ですら授かったことのない、殿下の家紋をあしらった銀の指輪が、その指には既に嵌まっていた。いつの間に、あの子の指の太さを殿下が御存じになられたのか。喉の奥が、音もなく灼ける。

殿下は、ふっと息を吐かれた。その吐息が、面倒な義務を振り払うかのように唇の端をわずかに歪めたのを、私は見逃さなかった。

「エレノア・ヴァレンティーナ・ディ・ロンバルト」

三度目の呼名だった。玉座の段をひとつ下り、殿下は絨毯の上へと歩み出される。セリアはその腕に縋ったまま、気絶しかけた令嬢の役を演じるかのように、瞼を震わせていた。嗚咽の真似は稚拙で、唇の端には恍惚の笑みがかすかに残っている。私には、それが見える位置にあった。他の誰にも、見えぬ角度に。

「余は、本日をもって、其方との婚約を破棄する」

大広間の空気が、一斉に凍った。

どこか遠くで、扇の骨がぱきりと折れる音がした。私のものではない。楽団員の譜面が譜面台から滑り落ち、床に散る微かな音。シャンデリアの蝋が一滴、絨毯に落ちて黒い染みを作る。それらの音のひとつひとつが、私の鼓膜に、異様にはっきりと届いた。

礼をする前に、私は一度だけ深く息を吸った。胸の手紙の角が、コルセットの内側で肋骨を押す。その痛みの位置を、私は正確に自分のものとして把握した。痛みのある場所には、まだ私がいる。

「……承知いたしました、殿下」

頭を下げるよりも先に、声がそう答えていた。ぴんと張った糸が、自分の意思を裏切って先に鳴るように。会場のどこかで、ほう、と感嘆とも諦観ともつかぬ吐息が漏れた。

「理由を、お聞かせいただいても、よろしゅうございますか」

殿下の眉が、わずかに跳ねる。おそらくは、取り乱すと想定されていたのだろう。泣き崩れるか、あるいは喚き、爪を立てて縋るか──そのいずれかを期待していた人々の、落胆に似た沈黙が、さざ波のように広まった。

殿下は懐から、一枚の羊皮紙を取り出された。王璽の赤い蝋が、その下端で鈍く光っている。

「此れなる巻物に、其方の罪状が列記されておる。宰相、読み上げよ」

恭しく進み出た老宰相は、咳払いをひとつして、朗々と読み上げ始めた。

「一、ロンバルト公爵令嬢エレノアは、義妹セリア嬢に対し、数年にわたり鞭を以て肌を打ち、火箸を以て髪を焦がし、井戸水を顔に浴びせる等、非道の仕打ちを重ね候」

広間のどこかで、小さな息を呑む音が、いくつか重なった。

「二、同令嬢は、宮廷へ上がる度、王宮の使用人に対して冷酷なる口を利き、侍女を鞭打ち、厨の下女を泣かせしこと、数知れず」

──嗚呼。私は、伏せた瞼の裏で、小さく笑った。気取られぬ角度で、唇のほんの端だけが、軽く上がる。この三年、王宮の敷居を跨いだのは、本日を含めて一度きりだというのに。

「三、同令嬢は、我らが殿下に対し、陰にて呪詛の文を認め、殿下の御健勝を妨げんとせし疑いあり」

呪詛。その一語だけが、広間の天井へとやけに長く尾を引いた。継母の筆跡が、脳裏をよぎる。幼い頃、私が手習いを終えた夜、机の引き出しに戻しておいた書きかけの便箋が、翌朝に抜かれていたことが幾度かあった。あの便箋に、私の字を真似て何が書き足されたのか──今はもう、問うまでもない。

「四──」

宰相の声は、なお続く。罪状は、虚飾の蔓のように、私の足首から腰へ、胸へと、絡み上がってゆく。私は、ひとつひとつの文句に耳を傾けた。細部の綻びまで、丁寧に聞き取った。鞭打ちの夜と称する年号、虐げたと称する厨の下女の名、私が足を運んだこともない離宮の名前。罪状の綻びは、刺繍を学んだ目にはあまりにも明瞭だった。継母の針目は、昔から乱れがちだった。

宰相が羊皮紙を巻き戻し、恭しく殿下へと返上した。殿下は、私に向き直られる。

「抗弁は、認める。何か、申すことはあるか」

私は、ゆっくりと顔を上げた。

広間中の視線が、ふたたび私一人に集まる。扇の影から、好奇に濡れた瞳、憐れみに湿った瞳、嘲りに細められた瞳──多くの瞳が、私の次の一言を待ち構えていた。ひとこと、反論の言葉を口にすれば、それは幾重の鞭となって振るわれるだろう。沈黙を守れば、それは罪状の追認とされるだろう。どちらを選んでも、私は裁かれる。

──ならば。

私は、扇を静かに畳んだ。畳んだ扇の先を胸の前に添え、スカートの裾を片手で軽く持ち上げ、そうして、生涯で最も深い礼を、絨毯の上で描いた。

「いずれも、謹んで承ります」

声は、震えなかった。

「ご婚約破棄のこと、ご叱責のこと、殿下のご英断として、余さず拝受いたしました。長きにわたる殿下の御厚誼に、心より感謝申し上げます」

殿下の眉が、ぴくりと跳ねた。セリアが、殿下の腕の中で小さく喘いだ。想定の外にある私の応答が、二人の用意した芝居の段取りを、ほんのわずかに乱したのが、分かる。その僅かな揺らぎが、私の背に、細い追い風を送った。

「最後に、ひとつだけ、お願い申し上げても、よろしゅうございましょうか」

殿下は、警戒の色をもって、顎を引かれた。

「……申してみよ」

「どうぞ、お幸せに」

絨毯の糸目を見つめながら、私は、その五文字を、三年の沈黙と共に手放した。

瞼の裏に、最後に見た殿下の横顔が浮かぶ。薔薇の蔭で少しはにかんだあの顔を、私は、この瞬間にやっと、棺の底へと沈める。指先が、凍えるほど冷たい。それでも、胸の手紙の角にあたる一点だけが、異様に熱かった。ただの体温ではない。コルセットの内側で、じわり、と、湯気の立つような温みが、鎖骨のすぐ下から広がり始めている。

私は、その熱に一瞬、戸惑った。

この熱はなんだろう。恥辱の熱ではない。怒りの熱ではない。ましてや、喪失の熱ではない。むしろ──解かれてゆく、何かの熱だった。三年、私の肋骨にきつく巻きつけられていた細い鉄線が、一本、また一本と、内側から灼き切られてゆくような、そんな熱。呼吸が、ふと楽になった。襟足で結い上げた髪の根が、微かに湿る。鎖骨のすぐ下、肌と布の隙間で、何かが、かすかに、確かに、脈を打ち始めていた。

「──エレノア嬢」

殿下の声が、遠くに感じられた。

「控えよ。その態度は、余を嘲るか」

私は顔を上げず、微笑みを崩さぬまま、もう一度だけ頭を下げた。

「滅相もございません、殿下。ただ、感謝の言葉を、申し上げたいだけにございます」

セリアの唇が、かすかに震えるのが見えた。

三年、私がこの子から奪われた季節の数と、この子が私から奪いたかった場所の重さが、今、この広間の空気の温度差に、すべて露れていた。勝者の席にいるはずのセリアの頬が、なぜか、じわりと青ざめてゆく。

その時、ざわ、と広間が揺れた。

天井近くで、シャンデリアの炎が、一斉に青く色を変えたのだ。楽団員の一人が譜面台を取り落とし、婦人たちが扇を口許に当てる。大理石の床に、私の影だけが、なぜか異様に濃く、長く、伸びていた。コルセットの下の熱は、もう湯気のような温もりではなかった。じりじりと、肌を内側から灼く──光だった。

鎖骨のすぐ下、薄くなった藤色の生地越しに、淡い白光が、透けて、滲み始めていた。

誰かが、息を呑んだ。

最も近くで、セリアが、見てはならぬものを見るように、私の胸元を凝視していた。殿下の目が、初めて、私の目を、まっすぐに、見た。

──ああ、今更。

私は、ゆっくりと、その光の生まれる場所へ、自らの指先を、そっと、当てた。

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