第1話
第1話
針の先で指の腹を刺した。ぷつりと赤い珠が浮かぶのを、私は布地に落ちる前に唇で吸い取る。三年前、母の形見の銀糸で縫い上げられたこの藤色のドレスは、今や肘のあたりが薄くなり、裾の刺繍は色褪せていた。それでも、下女部屋の細い蝋燭一本の灯りで、私は丁寧に綻びを繕い直している。
今宵、王宮の夜会に招かれたのは三年ぶりのこと。
「ごきげんよう、お姉様」
扉の外から聞き覚えのある甘い声がした。私は糸切鋏を置き、姿勢を正してから返事をする。
「セリア、どうなさいましたの」
返事を待たずに扉が開かれ、ふわりと薔薇水の香りが入り込んできた。異母妹は新調されたばかりの真紅のドレスに宝石をちりばめ、継母に結わせた銀の髪飾りを揺らしている。彼女は私の手許を見下ろして、くすりと笑った。
「まさか、それを着てまいられるおつもり?」 「ええ」 「殿下がお笑いになりますわ。三年前の流行ですもの」
私は扇を畳み、静かに頭を下げた。
「殿下のご心配は無用と存じます。私はもう、殿下に見初められるために夜会に参るのではありませんから」
セリアの頬が一瞬こわばり、すぐに作り笑いに戻った。廊下の影から継母の衣擦れの音が近づいてくる。
「アンナリーゼ──エレノア」
呼び捨てにする声は、かつて父が存命の頃の呼び方と寸分違わない。違うのは、その語尾に絡みつく冷えた針だった。
「今宵は、セリアの名を汚さぬよう努めなさい。殿下はあの子を正式に傍へ召されるおつもりなのです」
「承知いたしました、お義母様」
ただ、それだけを申し上げた。継母の唇の端が満足げに持ち上がるのを、私は伏せた睫毛の隙間から見ていた。返す言葉を奪うことが、この三年で継母の覚えた最も洗練された作法だった。私はもう、抗いの言葉を持たない娘でなければならなかった。
玄関まで継母はついて来なかった。私の手を取る下男もいない。半年前に屋敷を辞めた古い侍女の代わりに、使用人頭が眉を曇らせながら、古びた馬車の扉を開けてくれた。
「お嬢様、どうぞお気をつけて」
その声に滲んだ憐れみを、私は会釈で受け止める。憐れみを向けられて泣かぬ術も、三年で身についた作法のひとつだった。
蹄が石畳を打ち、馬車が動き出す。車輪の軋みは、過ぎた三年の数を数えているかのようだった。
三年。私がこの手で井戸の水を汲むようになってから、三年が経つ。父の逝去ののち、継母は私を下女部屋へ移し、暖炉のない北棟を与えた。冬には硯の水が凍り、夏には湿気が書簡を黴びさせた。掌のあかぎれは何度切れても薄い瘡蓋になり、薔薇水を知らぬ私の指先は、いつしか乾いた紙の音にしか馴染まなくなった。その書簡の束を、私は今、胸のコルセットの下に忍ばせている。
第二王子リオネル殿下からの、最後の手紙。
三年前の春、ほんの数行だけ記された手紙だった。〈しばらく学問に専念する故、便りは控える〉。それきり途絶えた文字を、私は一日に一度だけ、寝具の下から取り出して指でなぞる習慣を三年間守ってきた。紙の端はすでに私の爪の跡で柔らかくなっていた。文字のインクは私の体温で薄れ、〈控える〉の一語だけが妙にくっきりと残っている。なぞるたび、その四文字に指先が引っかかった。
馬車の窓を薄く開ける。十月の夜風が、古いドレスの襟元をかすめた。頬に当たる風は乾いていて、街道脇の白樺の匂いが混じっている。遠くで犬が一度だけ吠え、あとは車輪と蹄の音だけが闇に転がっていった。私は目を閉じ、胸の奥で自分に言い聞かせた。
──今宵、殿下にお目通りできる。それだけで、充分。
殿下が文を下さらなかった三年間にも、幾度か噂は耳に届いた。セリアが王宮の夜会で殿下の隣に座ったこと。殿下がセリアにばかり花を贈られたこと。それらを継母は、晩餐の席で私に聞かせるために声を張った。私は黙って冷めたスープをすすり、パンの耳を噛みしめた。そのたびに、舌の奥に鉄の味が広がった。噛み締めた頬の内側が、いつのまにか裂けていたのだ。血の味を呑み下しながら、私は瞬きの数を数えて涙の代わりにした。
それでも、今宵招かれたのは私だった。セリアではなく、公爵令嬢エレノア・ヴァレンティーナ・ディ・ロンバルトの名で、王璽の入った招待状が届いたのだ。
希望を抱いてはいけない、と自分に命じる。幾度も命じる。だが馬車が王都の石畳に入り、街灯の光が増えてゆくにつれ、胸の手紙が紙の重さ以上に熱を持ち始める。殿下は、私に何か申し下さるおつもりなのかもしれない。三年の沈黙に、ご事情があったのかもしれない。三年前のあの春、最後にお目にかかったときの、少しはにかんだ横顔が瞼の裏で揺れる。──いいえ、思い出してはならない。期待は私を弱くする。
馬車が王宮の外廷で止まった。衛兵の礼の後ろから、大広間へ続く白亜の階段が見えた。
階段を上るごとに、私の古びたドレスの裾が石の目地を掃いた。一段、また一段、踵の痛みが踝まで這い上がってくる。三年も舞踏靴を履かなかった足は、磨かれた革の硬さを忘れていた。それでも背筋だけは、亡き母から授かった一本の鉄の芯のように、決して曲げまいと私は息を吸い直す。侍従が扉の前で私の名を問う。
「ロンバルト公爵家、エレノア嬢にございます」
その声が石造りの天井に吸われてゆく刹那、両開きの扉がゆっくりと押し開かれた。
──視線。
一斉に、ほんとうに一斉に、数百の瞳が私の方へと向けられた。扇の骨が軋み、楽団の弦が一音、外れる。シャンデリアの光は私のドレスの色褪せを容赦なく暴き、誰かが小さく鼻を鳴らす音がはっきりと聞こえた。香水と蜜蝋と、汗の匂いの混ざった熱い空気が、扉の外の冷気と入れ替わるようにして私の頬を撫でる。
「……あれが、ロンバルトの」 「陰気な令嬢、と」 「殿下はよく三年もお辛抱を」
囁きは風ではなく、細い鋼のように私の耳を刺した。私は扉の敷居の手前で、一度だけ、ほんの一瞬だけ、足を止めた。喉の奥が干からび、舌が上顎に張り付くのを感じる。耳の奥では、自分の鼓動が太鼓のように打ち鳴らされていた。逃げ出したいと思った自分を、私は静かに殺した。
爪が掌に食い込む。胸の手紙の角が、コルセットの内側で皮膚を押した。その小さな痛みを、私は感謝と共に受け止める。痛みがあるということは、まだ私が立っている証だった。
顔を上げる。
玉座までは、長い緋色の絨毯が延びていた。その中ほどに、金の刺繍をまとう真紅のドレスが見えた。セリア。父の屋敷を出てきたばかりの妹は、既にこの大広間の中央で、殿下の腕に指を添えて立っている。指先の白さも、傾げた首の角度も、まるで何年も前からそこに居る権利を持っていたかのように自然だった。頬の紅はほんのりと熟し、唇は勝ち誇りを隠すことを覚えぬまま、わずかに綻んでいた。
私の婚約者であるはずの、リオネル殿下の腕に。
殿下は私を見た。三年ぶりに見る彼のお顔は、記憶の中の少年ではなく、眉間に冷えた線を刻んだ若き王族の表情だった。あの春、庭園の薔薇の蔭ではにかんで笑った横顔は、もうどこにも残っていない。日に焼けた肌も、少し長くなった髪も、すべて私の知らぬ三年の中で作られたものだった。その瞳が、私を認めるなり、わずかに細められる。歓迎ではない。忍耐のかたちだった。胸の奥で、温めてきた小さな灯がひとつ、音もなく吹き消されたのを私は感じた。指先が急に冷たくなり、コルセットの下の手紙だけが、まだ微かに体温を保っている。
私は息を整え、一歩、絨毯の上に足を置いた。
──何を申し渡されても、謹んで受けよう。ロンバルトの娘として、父の名を穢さぬよう。
そう決めた矢先、玉座の段の上から、殿下が手を挙げた。楽団が止まる。会場の呼吸が、一斉に止まる。
殿下の唇が、私の名を呼ぶために開かれる気配があった。
「エレノア・ヴァレンティーナ・ディ・ロンバルト」
呼ばれた自分の名が、これほど遠く冷たく響いたのは生まれて初めてのことだった。私は扉の前から絨毯の中央へと進み出て、深く、深く、礼をする。
顔を伏せた視界の端で、セリアが殿下の腕をそっと握り直すのが見えた。