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沈黙の悪役令嬢、辺境にて影の女王となる

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が軋む。三百十二人の視線に晒されて、私の右手は象牙の柄を握り潰しかけていた。

第七階梯魔導大広間——王国最高位の魔導師が国王即位式を執り行う聖域で、水晶のシャンデリアから零れる光が大理石の床に網目模様を描き、その中央で、私の婚約者が声を張り上げている。

「公爵令嬢アデレイド・ヴァルフォード——本日をもって、婚約を破棄する」

三年間、月に一度の茶会で交わしてきた挨拶よりも、その声は冷たかった。

王太子レオナルドの隣で、男爵令嬢ソフィアが涙を拭っている。紅を引き直した跡のある目尻が、薔薇色に潤んで美しい。計算された湛え方だと、十二歳から令嬢教育を受けた身として即座に見抜く。——見抜いたところで、何になるだろう。

「罪状は三つ」

レオナルドが羊皮紙を広げた。封蝋はない。王家紋章もない。公式の糾弾状であれば不可欠の手順が省かれた、乾きかけの急拵えの書面。羊皮紙の縁が微かに反り返っているのを、私の目は見逃さなかった——昨夜のうちに、慌てて書き上げたものだ。

——ああ、この人は本当に、私を裁きたくて裁いているのではないのだ。

「一、ソフィア嬢の階段突き落とし。二、茶会での毒物混入未遂。三、夜会でのドレス切り裂き」

私は扇を閉じた。ぱちり、と硬い音が広間に響く。三百十二人の貴族が息を呑んだ気配を、私は背中で感じ取った。

反論は、しない。——どれ一つとして、私がやったことではない。

かつて、母が亡くなる前に私に残した言葉がある。

「アデレイド。貴方が身を守る盾は、血筋でも魔力でもなく、沈黙です」

母は公爵夫人として、二十年間この王宮を生き抜いた人だった。細い指で私の頬に触れながら、母は続けた——誠実な人間は、誠実でない場に立つとき、反論するほど穢れる。穢れるよりも、去りなさい、と。その母の墓前に、私は先月、一輪の白薔薇を手向けたばかりだった。

「ヴァルフォード公爵家の威光に慢心し、王家への忠節を忘れた令嬢に——」

レオナルドの声は続いている。耳を素通りしていく言葉の流れの中で、私は三年前の茶会を思い出していた。初めての顔合わせの日、彼は甘い焼き菓子を私に分けてくれた。「アデレイド嬢、私は政略結婚というものが、怖い」と、十六歳の彼は震える声で呟いた。怖がらなくて良い、と私は答えた。あの時の彼と、今の彼は、本当に同じ人間だろうか。——違う、と答える自分と、同じだ、と答える自分が、喉の奥でせめぎ合う。

男爵令嬢ソフィアが、一歩前に出た。

「殿下。どうか、アデレイド様にお情けを」

か細い、震える声。広間の貴族のうち幾人かの目に涙が滲んだのが見えた。——見事だ、と私は思う。この人は私より役者が上だ。

そして、この芝居を誰が仕組んだのか。レオナルドの背後で腕を組んで立つ宰相フォンターネ。彼の視線が、ちらりと私を一瞥した。その瞳の奥に滲む愉悦を、私は確かに見た。

「異論はないのだな、アデレイド・ヴァルフォード」

「ございません、殿下」

私の声は、自分でも驚くほど静かだった。

広間の端で、我が家の侍女セリーナが口元を押さえて肩を震わせている。五歳の頃から私を育ててくれた老侍女。彼女には今夜の段取りを前日のうちに伝えてあった——泣かないで、と目で告げる。

「ヴァルフォード公爵家は今宵をもって——辺境ヴァルトシュタイン領を、公爵令嬢への下賜領とする。以後、王都への入都を禁ずる」

辺境ヴァルトシュタイン領。税率最悪、野盗横行、三代前の凶作以来、誰も領主になりたがらなかった土地だ。

私は深々と礼をした。ドレスの裾が大理石を擦る音が、広間の奥まで広がっていった。

大広間を出ると、秋の夜風が頬を撫でた。

王宮の車寄せに、我が家の紋章を削り落とされた馬車が一台だけ停まっていた。紋章の削除は、公爵家から事実上の絶縁を意味する王家の示威である。削り跡には、まだ木屑が指先ほども残っていて、夜風に吹かれて一片、二片と地面に零れ落ちていく。父は——父は、どうしているだろうか。

「お嬢様」

セリーナが駆け寄ってきた。六十を過ぎた彼女の白髪に、大広間の光がまだ宿っていた。

「なぜ、なぜ反論なさらなかったのですか。殿下のおっしゃった罪状、全て」

「全て、違うわね」

「でしたら——!」

「セリーナ」

私は老侍女の手を取った。五歳の頃から変わらない、薪と蜂蜜の匂いのする指。その匂いを胸に刻みつけるように、私は一度だけ深く息を吸った。秋の夜気の冷たさと、セリーナの掌の温もりが、奇妙な対比を成して肺の底に届く。

「母が言った通りよ。誠実でない場では、誠実に去るのが一番の勝利。今夜、私は負けたように見えて、あの方々に一つだけ借りを作らせた——『ヴァルフォード公爵令嬢は反論しなかった』という事実を。これは、後々必ず効いてくる」

セリーナの瞳に、ようやく理解の色が浮かんだ。皺だらけの瞼の奥で、長年王宮の駆け引きを見てきた老侍女の目が、静かに光る。彼女は何も言わず、ただ私の手を強く握り返した。

御者が馬車の扉を開けた。

「ヴァルトシュタイン領まで、三日の旅路にございます」

私は馬車に乗り込もうとして、足を止めた。王宮の二階、最奥のバルコニーに、小さな影が立っている。父だった。父は、私に向かって、深く頭を下げていた。月光に照らされたその白髪が、震えているのが、ここからでも分かった。——父上。喉の奥で何かが軋んだ。扇の骨のように、軋んだ。

父が頭を下げ続ける時間の長さを、私は数えなかった。数えれば、決壊する。代わりに私は、父の姿をひとつの絵として目蓋の裏に焼き付けた。いつか王都に戻る日、この絵を取り出して、自分が何を取り戻しに来たのかを思い出すために。

私は馬車に乗り込み、扉を閉めた。

車輪が石畳を擦る音が響き始める。窓の外、遠ざかる王宮の光。三百十二人の視線、ソフィアの涙、宰相の愉悦、父の深い礼。すべてを、私は胸の奥の木箱に、一つずつ仕舞っていく。この木箱に鍵をかけるのは、まだ早い。

泣いている場合ではなかった。まず、民の腹を満たすこと。次に、帳簿を開いて前代官の横領を洗い出すこと。そして、王都で今夜起きた出来事が、単なる王太子の気まぐれではなく——もっと深く大きな何かの序章であるという予感を、裏付けること。

母の形見の銀の鎖が、喪服の襟元で小さく揺れた。馬車の揺れに合わせて、鎖の先の小さな護符が私の鎖骨を冷たく叩く。母はこの護符を、嫁入りの時に祖国から持ってきたのだと、生前一度だけ漏らしたことがある。それ以上は決して語らなかった。母の祖国は、どこだったのだろう。父からも、一度として聞いたことがない。

馬車が王都の城門をくぐる瞬間、私は扇を膝の上で開いた。象牙の骨に、先ほど握り潰した痕がくっきりと残っている。指の腹で、その窪みを一本ずつなぞる。痕は消えない。私の指が刻んだ証拠は、消えない。——まだだ。まだ、何も始まっていない。

三日後の夕刻、馬車は赤の山脈の麓にたどり着いた。

三日間の旅路で、馬車の窓から見える景色は徐々に色を失っていった。王都近郊の黄金色の麦畑から、街道沿いの褪せた緑の牧草地へ、そして今、目の前に広がるのは、灰と褐色の土地だった。

眼下に広がるヴァルトシュタイン領を、私は馬車の窓から見下ろした。枯れた麦畑。屋根の抜けた納屋。街道の端に座り込んだ、痩せた子供が三人。そのうちの一人は、こちらを見るなり、仲間を庇って後ずさった。近づく馬車そのものが略奪者の到来であるかのように。

膝の上で、私の手は震えてはいなかった。震える権利が、もう私にはなかった。

「お嬢様、ご覧ください」

御者の指さす先、村の外れに黒煙が一筋、細く立ち上っていた。山風に煽られて、煙はゆらりと斜めに流れ、夕焼けの赤に溶けていく。

「——あれは、何?」

「野盗にございます。此度、領主様交代の報を聞きつけ、略奪を始めたものかと」

私は扇を強く握りしめた。三日前、私は公爵家の権威を失った。今、私の前には、私を領主と認めない民と、私を獲物と見る野盗と、遠く王都で私を駒として棄てた者たちがいる。

馬車の扉に、私の指がかかる。——下りよう。

「セリーナ、剣を」

老侍女が息を呑む気配を、私は背中で聞いた。

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