第3話
第3話
階段の最後の一段を踏み降りたとき、靴の底に、ひやりと、石の冷たさが上がってきた。
東の翼棟から中庭へと続く回廊は、朝のうちは陽が当たらない側にあるらしく、敷石の継ぎ目に夜の空気がまだ薄く溜まっていた。柱の影が、長く、私の足元を斜めに区切っている。布の靴は軽くて、踵が浮きやすい。三年間、十センチのパンプスで踵を擦り潰しながら通勤してきた足が、いまさら平らな履物の歩きかたを思い出せず、二歩に一度、ほんの少しだけ、ふらついた。敷石はどれも、角だけが人の歩幅ぶんだけ丸く削れていて、長い年月の通行を、静かに記憶していた。
中庭のほうへ視線を向けたまま、私は柱の影を選んで進んだ。窓越しに見えたあの黒衣の背に、自分の足音を届けてしまうのが、なぜか、ためらわれた。見つけてしまった、と、声に出さずに告げる勇気は、まだ、出ない。朝の湿った匂い——苔と、乾きかけの石灰と、遠くで焚かれているらしい針葉樹の煙——が、鼻の奥を、うっすらと通り抜けていった。
回廊の角まで、あと、ほんの数歩、というところだった。
軸足にした右の踵が、磨かれすぎた敷石の継ぎ目を、つるりと滑った。
あ、と思ったときには、もう、世界が斜めに傾いでいた。
肩の奥で、デスクチェアの歪みのせいで固まっていた筋が、悲鳴のような音を立てて伸びる。咄嗟に伸ばした手が、空を掻いた。柱は、半歩、遠かった。床に倒れ込む覚悟をして、私は瞼を、ぎゅ、と閉じた。耳の奥で、かつて満員電車のホームで誰かに背を押されたときの、あの、足裏が急に軽くなる感覚が、フラッシュのように再生される。
倒れなかった。
背中の少し下のあたりに、長い腕が一本、回されていた。もう一本の手が、私の右の手首を、骨ごと包むようにして、しっかりと支えていた。指の長さが、私の手首をひと回り半ほど余して、さらに掌の付け根まで届いている。力は、痛くない加減で、けれど決して逃がさない強さに、慎重に調整されていた。
蜜蝋でも、薔薇でもない、別の匂いがした。乾いた紙と、革と、それから、雪の朝のような、冷たい鉱石の匂い。黒衣の布地の奥から、かすかに、冬の湖の面を撫でた風のような、低い呼気が漏れた。
「――気をつけられよ」
低い、削ぎ落とされた声が、耳のすぐ上で鳴った。
瞼を開けた先に、黒い襟元と、銀色に光るあごの輪郭があった。目を上げる勇気が出るまでに、ずいぶんかかった。アレクシス陛下は、私を抱き起こした姿勢のまま、半歩だけ、自分の身体を引いた。踏み込まない距離、を、今朝もまた、丁寧に、確保するようにして。その動きは、野生の鳥に近づくときの手つきに、よく似ていた。
ただ、私の手首を握ったほうの手は、なぜか、離されなかった。
「申し訳、ございません」
舌が乾いて、うまく回らなかった。
「歩き慣れない、靴で」
「足元の段差に、不慣れがあろう。詫びるべきは、こちらだ」
陛下は、私の踵が滑った敷石の継ぎ目に、ちらと目を落とした。銀灰の瞳が、ほんの一瞬、継ぎ目の深さを測るように細められる。それから、自分の長い指が、まだ私の手首に巻きついていることに、ようやく気づいた様子で、ほんの少し、瞼を伏せた。離す気配が、ある。離されたら、たぶん私は、もう一度、膝から崩れる。なぜそう思ったのか、分からなかった。
そのとき、だった。
握られた私の右手の、掌の真ん中で、温度が、変わった。
鳩尾の奥にいつも溜まっていた、灰色の小さな疲れの石が、すっと、手のひらの中央へ集まってきて――そこで、淡く、灯った。
最初は、燭台の光が掌に映っただけかと、思った。違った。光は、私の皮膚の内側から、にじむように湧いていた。指の節を一本ずつ辿って、手首へ流れ、陛下の長い指の関節へ、絹のような速さで、伝っていった。皮膚の下を何かがほどけて流れていく感覚は、子どもの頃、発熱が引いていく夜に感じた、あの、身体の奥を湯が通り抜ける感じに、どこか、似ていた。
金、というより、蜂蜜を朝の光に透かしたときの、あの、淡い、温度のある黄。
陛下の喉の奥で、息が、止まる気配がした。
私の手首を握っていた手の、その甲のあたり。昨夜、灯りの下にほんの一瞬だけ晒された、黒い蔓のような痣が、いま、長い袖の隙間から、また、覗いていた。光は、迷わず、そこへ届いた。
蔓の輪郭が、ほどけていく。
墨を薄い湯に溶かすときのような、ゆっくりとした拡散だった。一本、また一本、と蔓の先端から順に、凍った川面が春の陽射しを浴びて緩んでいくみたいに、輪郭そのものが、頼りなくなっていった。痣の縁から色が抜け、皮膚の下を這っていた黒が、糸を引きながら、空気のなかへ消えた。陛下の手の甲に、白い、皮膚そのままの色が、戻っていく。その白さは、長く日の当たらなかった石の裏の、妙に生々しい白さに、よく似ていた。
「――聖女の、力か」
声は、ほとんど吐息だった。
問いかけのかたちをしていながら、答えを待っていない響きだった。私自身、何が起こったのか、ひとつも、分からない。掌が、ほのかに熱を持っている、ということだけが、確かだった。指先まで降りきらなかった熱の残りが、手首の内側で、脈と一緒に、細く、震えている。
「私には、なにも」
「ああ」
陛下の声に、咎める色はなかった。
「分かっておる。そなたが、なした、のではない」
そう言って、ゆっくりと、自分の手の甲を、見下ろした。痣が消えた皮膚を、もう片方の指の腹で、確かめるように、撫でる。撫でた指の動きが、途中で、止まった。
「――軽い」
ぽつり、と、独り言のように、零れた。
「腕が、軽い」
その一言の重さに、私の喉の奥が、勝手に詰まった。
軽い、と零した声が、痛みを長く知っている人のものだったから。三年間、首の付け根に灰色の石を住まわせていた私は、それが、どれほどの「軽さ」なのか、骨のほうで、分かってしまった。夜更けに湿布を貼る指先の冷たさ、通勤電車でつり革を握り替えるときの、肩の付け根の、鈍く軋む音。そういう細部の疲労が、ある朝ふいに、ひと息ぶんだけ消えているときの、あの、戸惑いに近い安堵。痛みが当たり前になりすぎて、いざ消えてしまうとかえって、自分の身体の輪郭が、ひとまわり頼りなくなったように感じる、あの、奇妙な空白。それを、この人は、今、味わっている。
陛下は、自分の手の甲から、ようやく目を離した。
そうして、今度こそ、私の手首から、指を解こうとした――その指が、半ばで、止まった。
離さない、ことを、陛下自身が、選んだ。
「ミオ殿」
名を呼ばれた。昨夜と同じ、二拍に分けて、壊れ物を置くような呼びかただった。
「いま少しだけ、このまま、いてくれぬか」
低い声の、語尾が、ほんの僅かに、揺れた。
命令ではなかった。願い、と呼ぶには、まだ硬かった。けれどそれは、たぶん、この人が、誰かに何かを「願う」ときの、いちばん柔らかい形だった。私は、何も言えずに、頷くことしか、できなかった。頷いた拍子に、髪の先がひとふさ、陛下の黒い袖の縫い目に触れて、音もなく離れた。
握られた手首の、皮膚の薄い内側で、私の脈が、自分でも驚くほど、騒いでいた。陛下の指は、その脈の速さを、ぜんぶ、聞いている。聞かれていることに、私は気づいていて、陛下は、気づかないふりを、していた。互いに気づかないふりをしている、という事実だけが、二人のあいだに、薄い、けれど確かな膜として張られていた。
回廊の奥から、誰かの足音が、ひとつ、近づいてくる気配があった。
陛下の指が、ようやく、ほどけた。離れていった指先の冷たさだけが、私の手首に、輪のように残った。
「――今夜、東塔へ参られよ」
短い言葉だった。理由は、添えられなかった。
それから陛下は、踵を返し、回廊の奥へ、ゆっくりと歩き出した。歩幅は、昨夜よりも、ほんの僅か、広かった。黒衣の裾が、敷石の継ぎ目を、迷いなく跨いでいく。
私はその場に立ち尽くしたまま、自分の右の掌を、そっと、開いた。
光は、もう、灯っていなかった。
ただ、掌の中央に、温度だけが、しずかに、まだ、残っていた。