第2話
第2話
遠くで、鐘が二度、重く尾を引いて鳴った。
耳の奥で、その余韻が消えきらないうちに、私は薄い目を開いた。象牙色の天井、紺青の天蓋、金の星座の刺繍。昨夜見たのと同じ景色が、今朝の白い光の下では少し違う色合いで、私を迎えていた。夢ではなかったと納得するのに、今度は十秒もかからなかった。
体を起こそうとして、肩の奥の筋が軋んだ。三年物のデスクチェアの歪みはそのままだ。違うのは、枕の下に手を差し入れたとき、そこにあったのが、絹のような肌触りの、花のほどの香りが残る敷布だったことだ。蛍光灯の下で目覚めるたびに頸の付け根で小さな灰色の石のようになっていたあの痺れが、今朝はほんの少しだけ、遠い。
扉の外で、衣擦れの音がした。
鐘が鳴ったちょうどその直後、寸分の遅れもなく布が鳴った。アレクシス陛下は、自分の側近の時刻感覚まで、あの低い声のとおり、削ぎ落としているのかもしれない。
「客人殿。お目覚めでいらっしゃいますか」
低く、しかし張りのある女性の声だった。昨夜の白髪の侍女ではない。もう少し年下の、けれど芯のさらに通った声。
「……はい」
自分の声が、まだ少し、嗄れている。
扉が静かに、ほんの少しだけ開いた。先に現れたのは、磨かれた銀の盆だった。その上に、細い白磁の杯と、湯気の立つ小さな鍋。それから、野の花のような小さな一輪が、水晶の筒に挿されている。盆を捧げ持った手は、皺の寄った、けれど指先まで整えられた、乾いた手だった。
「ヘルミーナ・フェルクと申します。当宮殿の侍女長を、拝命しております」
ふかく、けれど形式ばらない礼を、その人は折った。
ヘルミーナさんは、私を起こそうとはせず、ただ、盆を寝台の横の小卓に置いて、半歩だけ引いた。踏み込まない距離、という点では、陛下とよく似ていた。けれど、彼女の目には、昨夜の陛下にはなかった、穏やかな労りと、わずかな好奇が、並んで座っていた。
「五日も、お辛うございましたね」
五日、という単語が、また、私の耳に刺さった。その重さに、私はゆっくりと頷くことしか、できない。
「お身体のこと、お眠りのこと、何ぞご不便がございましたら、どうぞ、わたくしめにお申しつけを」
「……あの、」
喉の奥で、昨夜からつかえていた問いのうち、まだ口にしやすい方を、探し出す。
「私は、どういう、あつかいで、ここに」
ヘルミーナさんは、少しだけ目を細めた。笑みでもあり、悲しみでもある、不思議な皺の作り方だった。
「陛下からは、こう仰せつかっております。『客人として遇せ。問い詰めぬように。期限は、切らぬ』と」
客人、という言葉が、私の胸に、思いのほかやさしく降りた。
問い詰められない。期限はない。
その二つの贈り物が、どれほど贅沢なものかを、今の私は骨のほうで理解していた。月曜日から金曜日まで十五分刻みでスケジュールに区切られていた肩の奥の張りが、今朝は、どこにも、残っていない。
「……ありがたい、です。ですが、」
「『ですが』を、こちらから申し上げてはなりません、と、陛下より、厳しく」
ヘルミーナさんは、ほんの小さく、片頬だけで笑った。
「わが主は、言葉をあまり重ねられぬ方にございます。ですから、一度口になさったことは、どうか石に刻むようにして、お聞きくださいませ。――お茶を」
白磁の杯に、薄く琥珀色の茶が注がれた。湯気に、乾いた草と、蜜に似た甘やかさが、ほんのり立つ。飲み下したとき、喉の奥に、昨夜の水で流しきれなかった最後の小さな塊が、ようやく、静かに、溶けた。
衣を改めるあいだ、ヘルミーナさんは、ほとんど何も言わなかった。白い下衣、淡い鳩羽色の上衣、腰に巻く細い帯。どれも、肌と呼吸のあいだに、ちょうど一枚分だけ空気を残すような、ゆるい仕立てだった。
「動きやすさを第一に、と。陛下からの、お指図にございます」
わたしの体の輪郭を一度も見ていないはずの人の指図が、仕立ての寸法のすみずみに、染みている。踏み込まない距離のまま、踏み込みかたを知っている人の、手の跡だった。
帯を結び終えたヘルミーナさんは、静かに一礼して、さいごに、こう付け加えた。
「ご不安でございましょう。――ですが、この東の翼棟のなかは、ぜんぶ、客人殿のおみ足で、お歩きになってようございます」
「翼棟、というと」
「先帝陛下のご生母さまが、お好みになっておられた棟にございます。日当たりが、よろしゅうございますゆえ」
先帝、という単語が、するりと、彼女の口から滑り出た。過去形であることに私が気づかぬとでも思ったのか、それとも、気づけばいい、と思ったのか。
「……陛下の、お母さまは」
「ずいぶんと、お早く」
答えは、それだけだった。
ヘルミーナさんは、盆を手に取り直した。立ち去る前に、もう一度、ほんとうに小さく、私のほうに目を戻した。
「陛下は、このごろ、ずっと、お眠りになっておられません。昨夜、客人殿の部屋で、本を閉じる音が、廊下まで、聞こえました」
言葉は、そこで切られた。
その続きを、彼女は、口にしなかった。
ただ、小さな間をひとつ、私のために置いた。その間の長さで、私は、昨夜自分の目が見たものが、錯覚ではなかったと、背筋のほうで、分かった。
扉が、静かに閉まる。鍵の音は、今度もしなかった。
一人になったとき、ようやく、私は自分の両手を改めて膝の上に揃えた。右の薬指に、ボールペンのインクが、まだ薄く残っていた。最後に握ったのは、月末の残高確認の、赤のボールペンだ。汚れの筋は、五日ぶんの寝起きを経ても、消えていない。私の体は、まだ、佐倉澪の指を、覚えていた。
食事を終えて、私は、履き慣れない、けれど軽やかな布の靴で、部屋の外に、そっと出てみた。
翼棟の廊下は、長かった。東向きの細長い硝子窓が続き、朝の光が、床に薄いしましまの縞を作っていた。人の気配は、遠かった。ただ、十歩に一枚の肖像画と、その額縁の金が、等間隔に並んでいる。どの絵の人も、似た銀の髪をしていた。
三番目の角を曲がったところで、声が聞こえた。
「――だから、あの方のお部屋には、近寄らぬがよろしゅうございますよ」
若い、女の声だった。ふたり、いる。
「私が子どものころ、母は、よく申しておりました。『血の皇帝』と。陛下のお父上のお話にございますが、あのお血筋はみな、お心が」
「しっ」
低くたしなめる声の方は、少しだけ年嵩で、震えていた。
「口になさらないで。壁にも、耳が」
「だって、本当のことでしょう。陛下は、お一人であの東塔の執務室で何時間も誰とも口をきかれず、近衛にも一瞥もくださらず。北の辺境の反乱のとき、捕らえた首謀者を、ご自身の剣で、眉ひとつ動かさずに」
私は、足を止めた。
廊下の柱の影に、身を寄せた。息を、できるだけ浅くした。経理二年目の、給湯室で課長の陰口を聞いてしまったときと、同じ姿勢。けれど、あのときとは違って、私の胸の奥は、不快に縮んでいなかった。縮まないかわりに、別の場所が、静かに、鈍く、痛んだ。
「人の情けを、まるで、忘れておいでだ」
若い声が、ため息のように、言った。
「――ご苦労は、おありでしょう。けれど、あの冷たい目で、同じお城に住まわれては、こちらとて、息が、詰まりまして」
年嵩の声が、ふたたび鋭くたしなめた。それきり、声は、通路の奥へ遠のいていった。
私は、ゆっくりと、柱から背中を離した。
血の皇帝。冷たい目。人の情けを忘れた。並べられた単語は、それぞれ、たしかに重かった。今朝の光のなかでも、その輪郭は、ぼやけずに残った。
――眠り方を、忘れた。それだけの話だ。
けれど、同じ石の廊下の、同じ光の粒子の奥で、もう一つの声が、鳴っていた。
昨夜、扉の枠にほんの少しだけ寄りかかった長身の背。「そなたは、休め」と、命令の語尾を柔らかく折った低音。眉ひとつ動かさずに人を斬ると噂された指は、昨夜、硝子の杯の縁を、わたしの指のすぐ手前で、きちんと止めた。
一人の人のなかに、二つの姿が、ある。どちらが嘘で、どちらが本当なのか、私には、まだ、分からない。
分からないまま、胸の奥の一番深いところで、静かに、ひとつ、決まったことがあった。
――噂は、噂として、置いておく。私が、私の目で、見る。
ヘルミーナさんが、廊下をぜんぶ歩いてよい、とわざわざ言い残した意味が、ほんの少しだけ、分かった気がした。
歩幅を、戻した。
肖像画の額縁の金が、指を伸ばせば届きそうな近さにあった。似た銀の髪、似た薄い青の瞳。どの代の皇帝も、半分だけ目を伏せている描き方で揃っていた。視線を、あえて隠すようにして。
角を一つ曲がったとき、ぴたり、と、私の足が止まった。
硝子窓の向こうの中庭に、黒衣の背が、ひとつ見えた。
長身の影が、石の回廊のちょうど角で、ひどく、ゆっくりと、歩いていた。片手を、柱にかけている。もう片方の手は、昨夜袖の奥に隠したあの左の手首を、庇うようにして、胸のあたりに押さえていた。
遠目にも、分かった。
あの人は、いま、誰にも見られていないと、思っている。
見られていないと思ったときの肩の落としかたが、昨夜「眠り方を忘れた」と口にしたときの声の形に、あまりにも、よく、似ていた。
私は、窓の桟に、そっと、手を置いた。
足が、勝手に、廊下の奥の、中庭へ降りる階段のほうへ、動き出していた。