第1話
第1話
指先が滑った先に、冷たい象牙の彫刻があった。
長椅子の肘掛けだ、と気がつくまでに、たぶん十秒ほどかかった。掌の皮に沁みる滑らかさは、私がそれまで触れてきたどの会議机のラミネートとも、どの電車の吊り革とも違う。蜜蝋と、古い紙と、それから薔薇のような、知らない花の匂いがした。薄く開いた目に映ったのは、金の星座が刺繍された紺青の天蓋。その四隅から降りた銀の房が、風もないのに、ごく微かに揺れている。私が住んでいる六畳のワンルームに、そんなものは、当然ない。
首筋に手を這わせた。三年前から固定化した、デスクチェアの傾きのせいで斜めに歪んだ頸椎の痺れが、ちゃんと、そこにある。つまり私は、まだ、佐倉澪のままだ。二十六歳、経理二年目。先月、四半期決算の締切で八十時間の残業をして、三日前、社内食堂でスプーンを持ったまま膝から崩れ落ちた。最後に見た景色は、濁ったカレーのルーと、白い天井と、私を呼ぶ総務の先輩の、薄い口紅のひび割れだった。「佐倉さん、佐倉さん、しっかりして」。救急車のサイレン。蛍光灯の白。そこで、記憶は途切れている。
それなのに、いま、目の前では蝋燭の火が揺れている。
電池式ではない。芯の焦げる、小さな音のする、本物の炎。
窓辺に視線を流して、私は息を止めた。嵌め殺しの硝子の向こうに、月が二つ、並んで掛かっていた。ひとつは白く、ひとつは少し青い。夢にしては空気が冷たすぎる。幻覚にしては、手のひらの痺れが律儀すぎる。
かさり、と頁を捲る音がした。
振り向いた先に、黒い人影があった。
部屋の隅の長椅子、その反対側の肘掛けの向こう。灯りをあえて背負う位置に、その人は座っていた。膝の上で、革張りの本が静かに閉じられる。留め金の鳴る、硬い低音。銀の髪が、蝋燭の炎を映して、ほんの一瞬だけ金色に揺れた。
「客人殿、気分は」
言葉を選んで削ぎ落としたような、低い声だった。
私よりも、たぶん十は年上だろうか。顎の線が鋭い。瞼は半ば伏せられていて、灯りが届いた瞳の色が氷のように薄い青だと気づいたとき、私は思わず、掛けられていた毛布の縁を握り直した。目の下に、薄く、けれど深い影が落ちているのが見えた。顔色は、蝋燭が全力で温めてもまだ、雪のように白い。
答えようとしたのに、喉が鳴っただけで、声にならない。
「無理をなさらずに。――水を」
細い硝子の杯に、銀の水差しが静かに傾けられた。差し出す手は、袖の奥から伸びた長い指先だけ。こちらとの距離を半歩以上あけたまま、決して縮めようとしない。踏み込まれないための距離、だと、なぜか私は理解した。この人は、踏み込んでほしくないのではなくて、踏み込んでは、いけないのだと、自分に言い聞かせている。
一口だけ、飲んだ。冷たい水が、喉の奥の、長いこと詰まっていた小さな石を、静かに押し流していく感触がした。
「――どうして」
やっと出た声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
どうして、私はここにいるのですか。あなたは、誰ですか。ここは、どこですか。
問いたいことは、喉の奥で渋滞してしまって、最初のひとことしか、出てこない。
その人は、長椅子の背に片手を預け、何でもないことのように答えた。
「五日前の夜、宮殿の中庭の泉のほとりに、倒れていた。衣も言語も、我が国のものではなかった。意識はなく、熱もあった。やむを得ず、ここに運ばせた。――驚かせたのなら、詫びる」
詫びる、という言葉とは裏腹に、頭の下がる気配はない。けれど、語尾の、ほんの僅かな沈みが、その人の謝罪の本意を、こちらへ伝えてきた。不器用なのだ、と私は思った。叱られるのに慣れた、経理二年目の部下の勘が、勝手にそう判断する。
五日。
私は丸五日間、倒れていたらしい。
そう気がついた瞬間、体の芯から、重さが、ひとつ、抜けた。
――なるほど。これは、寝坊じゃ済まない。
出社時刻も、月次の締めも、明日の朝会も、ホワイトボードにマーカーで引いた赤い線の予定も、もう全部、間に合わない。会議室の予約は重複し、受信トレイの未読は三桁を超え、上司からの内線は五回目まで鳴って諦められている頃だ。課長の苛立った貧乏揺すり。納品日が動いたと謝る取引先のメール。「佐倉さん、やっておいて」と頭上から降ってくる仕事のパスたち。――もう、私が取り戻すものでは、なくなっている。
変な話、そう思ったら、胸の奥で、何かが、ほどけた。
肩の奥、いつも緊張して張っていた筋の一本が、ふ、と緩む。緩んだきり、二度と、元に戻る気が、しない。
「……謝らないで、ください」
声が、思いがけず、まっすぐに出た。
「私のほうが、勝手に、倒れていたので」
その人は、閉じた本の角を、指の腹でとん、と二度叩いた。何かを量るときの、たぶん癖だ。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「名乗りを、返そう。――アレクシス・ヴァレリウス・エルスハイム。この宮殿の、主だ」
主、という単語だけで済ませたのは、きっと、私を気遣って。
部屋の隅に控えていた白髪の侍女が、息を呑む気配がした。
「客人殿、どうか、お平らかに。陛下のお側の方がそのように畏まられては、こちらの胸が、冷えます」
低く、けれど温かい声だった。侍女は深々と腰を折り、祈るように両手を合わせる。その所作ひとつで、私は悟ってしまった。この人――黒衣の男性は、ただの「主」ではない。そしてたぶん、私は、帰る場所を、失った。
「……佐倉澪、と、申します。ミオ、と」
膝の上に揃えた手は、ひどく冷たかった。なのに、掌の奥のほうで、心臓よりさきに、何か静かに熱を持ちはじめているものが、ある。
「ミオ、殿」
アレクシス陛下は、私の名を、二拍に分けて、壊れ物でも置くようにして発音した。
「この部屋と、水と、食事と、眠りの時を、そなたに贈る。対価は要らぬ。煩わしい問いは、日が高くなってからにしよう。今は、休め」
命令の語尾なのに、言葉の芯は、柔らかかった。
嘘だ、と、疲れきった経理二年目の勘が叫ぶ。
この世には、対価の要らない寝床なんて、ない。知らない部屋で目覚めて、見知らぬ男の声に「休め」と言われて、素直に休む女は、馬鹿だ。翌日の給湯室の話題になる類のやつだ。
そのはずなのに。
高い天窓から、薄い朝の光が、ひと筋、私の右肩に、静かに落ちてきた。
誰にも、急かされない光だった。
「遅い」と詰る電話も、赤く点滅するチャットの通知も、通勤ラッシュで押しつけられる誰かの肘も、ここには、一つもない。
私は、その光のあたたかさが、耐えきれないほど心地よいことに、戸惑った。逃げ場のないはずの場所で、息が、うまく、吸えた。たぶん、三年ぶりに、ちゃんと、吸えた気がした。
アレクシス陛下は、閉じた本を、傍らの小卓に置いた。
そのとき、長い袖が滑って、左の手首が、ほんの一瞬だけ、灯りの下に晒された。
銀色の甲の下に、黒い蔓のような痣が、肘のあたりまで這い上がっているのが、見えた。古い傷ではない。痣は、いまも、ゆっくりと息をしているように見えた。
私の視線に気づいた陛下は、何事もなかったかのような速さで袖を引き戻し、立ち上がった。長身の影が、天蓋の紺青に触れる。
「朝の鐘が二度鳴ったら、侍女がまた参る。それまでは、此処が、そなたの部屋だ」
低い声が、私の心臓のすぐ横に、そっと、一枚の薄布をかけるようにして、落ちた。
「――ひとつだけ、問うて、よろしいですか」
自分でも驚くほど、声が、出ていた。
陛下は、扉に手をかけたまま、振り向かずに、頷いた。
「あなたは、いつから、眠っていないのですか」
短い沈黙があった。
答えは、なかった。ただ、長身の背が、扉の枠に、ほんの少し、寄りかかったのが、見えた。
やがて陛下は、低く、静かに、言った。
「――眠り方を、忘れた。それだけの話だ」
扉が閉まる。重たい鍵は、最後まで、かけられなかった。
長椅子の背に預けた私の指は、まだ、少し、震えている。
喉の奥で、いくつもの、小さな問いが、順番を待ったまま、立ち上がろうとしていた。
あの痣は、何でしょう。
そして、いつか声にする日が来るのだろうか、という、もうひとつの問い。
――私は、本当に、ここに、居ても、いいのですか。
飲み込んだ喉の奥で、私自身が、五日のあいだ、飲まず食わずで眠り続けていたことを、ようやく思い出す。ふいに、涙が一滴、耳の横を、転がり落ちた。
窓の外で、青いほうの月が、少しだけ、傾いたように、見えた。