第3話
第3話
馬車の車輪が、公爵邸の外堀の石橋を渡る音は、十八年のあいだ、わたくしの耳が最も早く聴き分けられる音のひとつであった。
帰路の道すがら、カーライル卿は一言も発せられなかった。半歩後ろを護るしきたりを馬車の中でまで守り抜こうとなさるのか、向かいの席に深く腰掛けたまま、氷色の瞳を窓の外へ向けておられる。わたくしが、指先に残る手袋越しの温もりを、まだ、確かに感じ取っていることにも——気づいておられたかもしれない。けれど、卿はただ、沈黙を守られた。車窓の向こうを、街灯の朧な光が流れてゆく。その光が卿の頬を掠めるたび、顎の線に刻まれた緊張の陰が、わずかに、けれど確かに、深まってゆくのが見えた。
公爵邸の前庭に馬車が止まる。扉が、内側から開かれる前に、わたくしは自らの手でその取っ手を引いた。冷えた夜気が、深紅のヴェルヴェットの裾を撫でていく。
「——ここまでで、結構にございます、カーライル卿」
馬車の脇に立つ卿の胸甲に向けて、わたくしは告げた。
「父の前で交わされる言葉には、娘としてのわたくしひとりで、向かわねばなりませぬ」
卿は、しばらく無言であった。それから、ごく静かに、頭を垂れられた。
「馬車は、この門前にて、夜明けまで待たせていただきまする」
「——けれど、卿には、王宮でのお務めが」
「夜番は、副長に預けて参りました」
その一言が、わたくしの胸の奥を、また一度、軋ませた。副長に預けて、参りました——つまり、卿はこの夜会に出向かれる前から、すでに、今宵の結末を、見越しておられたということではないのか。
聞き返すことは、しなかった。わたくしは、扉を静かに閉じ、ヴァレンシュタインの玄関へと、深紅の裾を引きながら歩を進めた。砂利を踏む音のひとつひとつが、やけに大きく、夜気に吸い込まれてゆく。
執務室の扉の前に立った瞬間、継母の嘲笑が、内側から微かに漏れ聞こえた。
「——やっと、あの鬱陶しい役目から、解き放たれた訳ね、あなた」
父の書斎の扉は、ノックを返されるより先に、内側から開かれた。継母ヘルミーネが、自らの手で取っ手を引いてくださる、などということは、十八年の間、ただの一度もなかった。今宵が初めてである。その初めてが、どのような色を帯びているか——わたくしは、扉の隙間から漏れる蝋燭の光を見ただけで、悟った。光の揺らぎの中に、かすかな香油の匂いと、勝者の吐息とも呼ぶべき熱が、混じっていた。
「ごきげんよう、継母様」
深紅の裾をつまみ、型通りの礼を返す。ヘルミーネの後ろには、異母妹エミリアが寝巻きのままで立ち、扇の陰から、わたくしを、値踏みするように見上げてきている。その唇の端の吊り上がり方を、わたくしは八年前、底の割れた靴を贈られた夜と、そっくり同じ形で覚えていた。寝巻きの襟元からのぞく首筋の白さまでが、あの夜のエミリアと、重なって見えた。
書斎の奥、執務机の向こうに、父ヴァレンシュタイン公爵が座っておられた。
机の上には、蝋印のまだ新しい書状が、一通。
「——セレスティア」
父の声は、十八年、常に同じ音程であった。娘を呼ぶのでも、使用人を呼ぶのでもない、ただの、執務上の音読みの音程である。
「殿下より、使者を受けた。婚約破棄の件、ならびに——」
父の指が、書状を、机の端へと押し出す。その指先は、羊皮紙の縁を撫でることもなく、まるで穢れを遠ざける所作のように、ただ、娘の側へと滑らせるためだけに動いた。
「ヴァレンシュタインの籍より、そなたの名を抜くことについても、異存はない、との御沙汰である」
差し出された書状を、わたくしは、両手で受け取った。
薄い羊皮紙は、父の掌の温度を、ただの一滴も、吸ってはいなかった。机の上に、書状だけが、先に置かれていたのである。わたくしがこの部屋に入る、幾刻か前から。蝋印の深紅は、まだ艶を失わず、けれど父上の指の体温も、ヘルミーネの視線の熱も、その上には、残されてはいなかった。
「——承知いたしました、父上」
わたくしは、書状を胸の前に立て、もう一度、深く礼を返した。
「では、最後にひとつ、お伺い申し上げたく存じます」
「申してみよ」
「亡き母——ソフィア様の遺産として、わたくしの名に書き写されていた、北辺の小領。あの地の権利は、ヴァレンシュタインの籍を離れましても、わたくしの手元に残るもの、と、心得てよろしゅうございますか」
継母の肩が、ぴくり、と跳ねた。
異母妹エミリアが、扇の陰で、くつくつと喉を鳴らす。
「まあ、お姉さま、よくもまあ、あの痩せた森林地帯の話など」
「三年前の代官の報告書でさえ、途絶えておるわ」継母が、上ずった声で継ぐ。「今や、あの土地に足を踏み入れる者など、盗人か、野垂れ死ぬ覚悟の狂人くらいのものでしょうに」
父上は、二人の声を、手のひら一つで、静かに制された。その掌の動きには、執務の采配に慣れた者の硬さだけがあり、娘を庇う熱は、やはり、一滴も、宿ってはいなかった。
「——あの地は、そなたの母が、嫁入りに際して自らの血族より持参した領地である。ヴァレンシュタインの本領とは、そもそも権利の筋が異なる。書面上は、今宵よりそなたが、唯一の所領主である」
それだけを告げて、父上は、視線を、書状の上から逸らされた。
十八年、わたくしを、庇われたことはない御方であった。今宵もまた、その通りの御方で、いらしただけである。けれど——母上の領地を、娘の手元に残す、という、そのただ一点だけを、今宵の父上は、確かに、果たされた。それは、父上から娘への、ただ一度きりの、ごく細い線の沙汰で、あったのかもしれなかった。糸のように細く、けれど、確かに一筋、引かれた線。
書斎を退がり、離れの自室へと戻る廊下の途中で、わたくしは一度、足を止めた。
廊下の突き当たりに、母上の肖像画が、掛かっていた。八年前、継母が居室から撤去させ、人目に触れぬこの暗がりに移させた、あの一枚である。蝋燭の光の届かぬ位置に、母上の栗色の髪と、少し困ったような微笑みだけが、わたくしを見下ろしておられた。額縁の隅に積もった埃さえも、八年の歳月の重みのように、静かに、そこに、沈んでいた。
わたくしは、深紅のドレスの胸元に、手を当てた。
そこに下げているのは、殿下の元に預けてあったはずの、母の銀の鎖飾り——ではない。明日、使者を遣わしたところで、その鎖は、もうわたくしの手には戻らぬであろう。戻らぬであろうことを、わたくしは、先ほどの殿下の視線の揺れ方から、すでに察していた。
代わりにわたくしが胸元に触れていたのは、母の肖像画の額縁の裏——幼い日のわたくしが、母上の葬儀の夜、独りで抜き取った、一枚の折り畳まれた羊皮紙であった。
北辺の小領の、古い地図である。
母の細い指跡で、「セレスティアへ」と、ただ一筆、書き記されていた。
自室に戻り、蝋燭を灯す。衣装棚の奥、底板の裏に縫い付けてあった小さな巾着を、わたくしは、糸を切って取り出した。指先に、糸のこすれる乾いた感触が、八年ぶんの重みとなって、残った。
中には、銅貨がわずかばかり。八年のあいだ、わたくしが継母の目を盗んで、ひと枚ずつ、ふた枚ずつ、貯めてきた額である。
十分な額では、なかった。
けれど、辺境の館まで馬車を雇うには、ちょうど、足りるはずであった。——いや、厳密に言えば、足りぬ。足りぬぶんは、わたくしの指の細工と、夜なべの刺繍で、途中の町で、継ぎ足していけばよい。
その算段を立てた瞬間、わたくしは、自らの唇の端が、ほんの一寸だけ、動いたことに気づいた。
微笑みに似たもの、であった。
十八年、この公爵邸で、わたくしの唇が、そのように動いた夜は、ただの一度もなかったはずであった。
旅支度は、簡素なものに限る。母の形見のドレスは、一着だけ。刺繍の道具。地図。筆記具。殿下より下賜されていた宝飾の類は、すべて、執務机の上に揃えて残してゆこう。——ヴァレンシュタインの名を捨てる娘が、王家より賜ったものを持ち去る謂れは、ない。宝石箱の蓋を閉じる硬い音が、自室の闇に、短く、けれど澄んで響いた。その音は、十八年のあいだ、わたくしを縛ってきた何かを、ほんのひと結び、解いたようでもあった。
窓の外に、夜明けの薄い藍が、滲み始めていた。
門の外に、一台の馬車が、まだ、静かに待っている気配を、わたくしは、確かに感じていた。
旅装束に着替え、小さな鞄を肩に掛け、わたくしは離れの扉を開いた。
前庭を渡る砂利の音を、継母も、異母妹も、もはや止めに来ようとはしなかった。父上の執務室の窓には、灯りが、ただ一つ、落とされぬまま、燈っていた。——見送りに来られるでもなく、遮りに来られるでもなく、ただ、灯りだけが、そこに。
門の鉄扉の向こうに、深紺のマントが、静かに、立っていた。
夜明け前の冷気の中で、アルヴィス・カーライル卿の横顔は、先刻の大広間で見上げたそれと、ただの一つも、違ってはいなかった。見知らぬはずのその横顔が、今、わたくしには、もう——見知らぬ、とは、言い切れぬ形をしていた。
卿が、こちらに気づき、静かに、片手を馬車の扉へ伸ばされる。
「——セレスティア様」
その一声を、わたくしは、門の内側で、扇を握り直したまま、受け止めた。