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黒焔の賓客 追放公爵令嬢は二つの王家を秤に掛ける

第1話 第1話

第1話

第1話

「公爵令嬢が、この辺境で朽ちるとお思い?」

王太子殿下の声が大理石の広間を冷たく滑ったとき、私――アリシア・フォン・ヴァイゼンベルクは、もう自分が何者でもなくなったことを知った。

天井の高い謁見の間、シャンデリアの蝋燭が規則正しく揺れていた。並ぶ貴族たちの扇の影が、壁に群がる鴉のように震える。肩を飾る家紋の銀糸が、注がれる視線の重みで肌に食い込んだ。父の姿は、遠く、柱の陰にあった。ただの一度も、娘の方を見ようとはしなかった。

「そなたとの婚約は、本日をもって破棄する」

殿下の声は、あらかじめ暗誦されたものだった。三月前に届けた刺繍のハンカチーフも、真冬に飾った白百合の意味も、ここでは一度も触れられない。隣に寄り添う伯爵令嬢の白い指が、恋人のように殿下の袖を引いていた。彼女の頬は桜色に染まり、瞳には聖女と謳われるに相応しい澄んだ怯えが浮かんでいる。

――私は、この娘の踏み台として、用意されていたのだ。

胸の奥に、痛みはなかった。痛みの代わりに、乾いた砂の音がした。積み上げてきた家庭教師の時間、剣の鍛錬、帝国史と魔導学の暗誦、王妃教育の長い午後――それらが、一粒ずつ足元から崩れて砂になる音。

私は膝を折らなかった。ドレスの腰を片手で払い、ただ一度、碧の瞳で殿下を真正面から見据えた。

――冷血、と囁かれる瞳だ。 けれど冷えているのは、今この瞬間から先のことだと、私は自分に宣言した。

「仰せのままに」

それだけ答えて、背を向けた。絨毯に散った赤い薔薇は、私にではなく、彼女に降らせた祝福の花だろう。花弁の一枚がヒールの先に絡む。私はそれを払いもせず、真鍮の扉をひとりで押し開けた。

外の空気は、春だというのに霜の匂いがした。

*

馬車の車輪は、一度として止まらなかった。

王都の石畳を離れ、街道の泥を越え、森の暗がりを抜けるころには、秋の残り香は失せ、窓の向こうで風が悲鳴のような音を立てていた。向かい合う座席で、私の侍女ノエルは薄い肩を毛布に埋めて眠っている。もとより病がちな彼女を、こんな旅に連れ出すべきではなかった。けれど、「彼女を連れて行かぬというなら、令嬢の位まで剥がす」と公爵家の父は言ったのだ。「ヴァイゼンベルクの名に泥を塗った娘の世話役は、病人で十分だろう」と。

私は腹の底で、一度だけ、静かに嗤った。

「……お嬢様」

ノエルの声が、擦れた毛糸のようにほどけた。

「申し訳、ありません。私のようなものが、一緒で」

「謝らないで、ノエル」

毛布を少しだけ彼女の方へ寄せる。指先が細い頬を掠めぬように。頬の皮の下で、青い血脈が寒さに押されて浮き上がっていた。十六の娘の肌が、これほど薄くてよいのかと、私はいつも思う。

「迷惑なら、父が手配した正規の侍女を連れていたわ。あなたが来てくれて、心強い」

本当だった。最後の晩、荷造りを手伝いながら「私を捨てないでくださいませ」と彼女は泣いた。あの小さな嗚咽だけが、公爵邸で私に向けられた、飾りのない唯一の感情だった。乳母たちの形式張った挨拶も、侍従長の深い礼も、父が寄越す薬草茶の湯気すら、私に触れる前にどこかで冷えていた。ノエルの涙だけが、温度を持っていた。

窓の向こうで、景色が変わっていく。畑の畝が白く霜を被り、家々の煙突から細い煙が昇る。行商人の荷車は擦れ違いざまに車窓を覗き込み、紋章を認めて目を逸らした。辺境への追放――それは王都の貴族社会では死と同じ意味を持つ。残りの人生を、獣と雪と病に抉られて生きる。それが「冷血の公爵令嬢」に相応しい最期だと、誰もが得心していた。

私自身も、そう思っていた。思っていた、はずだった。

けれど、馬車が最後の峠を越え、眼下に白い盆地が広がった瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。骨の内側に鈍く灯る、聞き慣れない熱。恋でも怒りでもない。もっと古い、もっと低い温度の――問い。指先が勝手にドレスの胸元へ伸び、首飾りの台座に埋まる翠の石を押さえた。祖母が遺した守り石だ。石はいつもより、わずかに脈打っていた。

「この力を」

唇が勝手に動いた。

「私は、誰のために使うのか」

ノエルの寝息だけが、答えの代わりに響いた。馬の蹄が凍った轍を砕く音、軛の革がきしむ音、遠くで梟の鳴く声――それらが重なり合って、やがてひとつの沈黙になった。

*

枯れ城は、噂よりも確かに痩せていた。

ヴァイゼンベルク家の古い縁者が用いたという名目だけの居城。石壁の半ばは蔦に覆われ、跳ね橋は片方の鎖が外れたまま川面に垂れている。門の前に集まった領民は、十人にも満たなかった。老いた執事がひとり、傾きかけた看板の下で深々と頭を下げる。

「お待ち申しておりました、アリシア様」

声の古さが、かえって私の背筋を伸ばさせた。ドレスの裾をわずかに持ち上げ、雪の残る石段を下りる。ヒールが濡れた苔に滑ったが、転ばなかった。

「ヴァイゼンベルク家、アリシア。本日よりこの地を預かる」

領民たちの顔に、表情と呼べるものはなかった。成人前の少女が、飢えた目で私の毛皮のマントを見つめている。その細い手は、母親らしき女の背に隠されて小さく震えていた。爪の先は紫に近く、唇の端には霜焼けの白い亀裂が走っている。

私はマントの留め具に指をかけた。金細工は、祖母の代から受け継がれたものだ。 ――要らない。

留め具を外し、マントを自分の腕から解く。冬の空気が一気に肩へ噛みついて、鎖骨の下で小さく息が跳ねた。けれど、震えは指先までは降りなかった。

「お嬢様、それは」

ノエルが小さく声を漏らす。私は答えず、少女に歩み寄り、震える肩にそっとマントを掛けた。毛皮は少女の背丈には余り、裾が石畳に触れて小さな音を立てた。

「あなたの名は」

少女は答えなかった。母親が代わりに、蚊の鳴くような声で告げる。

「……リータ、と申します」

「リータ。今夜は、暖かく眠りなさい」

誰も私を褒めはしなかった。縋る者もない。ただ、少女の母親が二度、三度と頭を下げて、人の輪は静かにほどけていった。冷血の公爵令嬢が初雪の門前で自分の毛皮を脱いだ――その噂すら、この辺境では届くに値しない。分かっていた。

城の内は、外よりも冷えていた。暖炉に薪はなく、石壁からは土の匂いがした。執事は震える手で灯りを掲げ、長い廊下を先導する。燭台の炎が蜘蛛の巣を照らすたび、影が私の後ろに巨きく膨らんだ。壁にかかる古い肖像画は顔の半分が煤に呑まれ、誰を描いたものかも判じきれない。足裏に伝わる石の冷たさが、絹の靴を通して骨まで染みた。

奥の居室に通されたとき、窓辺で風向きが変わったのが分かった。

鼻腔の奥に、微かな鉄と獣の臭い。遠く、北の雪原の方角から、何かが唸るような低い音が地面を伝う。窓硝子が一度だけ、気圧の変化にきしんで鳴いた。

「――あの音は」

執事が顔を上げた。土気色の頬が、さらに白くなる。

「山の魔物にございます。ここ数年、寒さが厳しくなると領境を越えてまいります。ですがご安心を、城壁は一応――」

一応、と執事の口が濁ったとき、遠くの雪原に赤い点が灯った。一つ、二つ、三つ。村の方角に、焔が。

ノエルの指が、私のドレスの袖を強く掴んだ。

*

窓硝子の冷たさが、指先に移ってくる。

雪原に灯る炎は、松明ではなかった。あんなにも大きく、あんなにも静かに揺れる光は、ひとつの命が燃え尽きるまでの時間を計る蠟燭に似ている。赤は血の色であり、同時に、誰かの藁葺き屋根が今まさに崩れ落ちる音色でもあった。

私は振り返らずに言った。

「ノエル。村へ使いを」

「お嬢様、お待ちを。剣も兵も、私たちには――」

「分かっている」

窓に映る自分の瞳は、やはり冷えた碧だった。けれどその奥で、骨の内側に灯った熱が、ゆっくりと脈を打ちはじめている。

――この力を、私は、誰のために使うのか。

馬車の中で零した問いが、今夜、答えを求めて立ち上がる。王家に捨てられ、領民にも愛されず、名ばかりの城に押し込められた娘にできることは、何一つなかったはずだった。

けれど、初雪の夜の遠い焔は、私を見ていた。

紋章が灼けるのは、その直後のことだった。

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