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純白の婚約破棄、亡国の花嫁衣装

第1話 第1話

第1話

第1話

三ヶ月ぶりに訪れた王都の夜会は、私を出迎えるというよりも、磨き抜かれた見世物台の上に据えるようにして迎えた。

大広間の天井から吊られたシャンデリアは、幾百もの蝋燭を灯して金色に震えていた。磨き上げられた大理石の床、奏でられる弦楽、交わされる扇の音。その全てが、三ヶ月前まで私が当然のように身を置いていた世界のはずだった。

「ごきげんよう、マリエル様。……ご壮健で何よりでございますわ」

薄紅のドレスを纏った伯爵令嬢が、扇越しに挨拶を寄越す。口元は微笑を形作っていたが、瞳の奥には隠しきれぬ好奇が滲んでいた。

「ええ、ごきげんよう。御母堂様もお健やかでいらっしゃいますこと、何よりと存じます」

私は静かに膝を折り、習い覚えた通りの礼を返した。背筋は伸ばす。視線は落とさない。それが、捨てられた身となった私に残された、最後の矜持だった。

この身に纏うのは、純白のドレス。三ヶ月前、婚約破棄を宣告された夜に身に着けていたものと寸分違わぬ——否、まさにその、エドガー公爵が私のために仕立てさせたという一着であった。本来ならば、婚約の祝いのために贈られたはずの、純白。

周囲のざわめきが、波のように寄せては引いていく。扇の陰で囁かれるのは、あの噂に違いなかった。捨てられたクレスフィール家のマリエルが、よりにもよって破棄の夜と同じドレスを纏って夜会に現れた、と。嘲る声もあれば、憐れむ声もあった。どちらも、私には同じことだった。

広間の奥、壇上に近い一角。そこに、エドガー・アッシュリード公爵はいた。

私がかつて、終生の伴侶となるはずだった御方。淡い金の髪に、整いすぎたほどの面立ち、冴えた青の瞳。その腕に、華やかな薔薇色のドレスを纏った令嬢が絡みついていた。三ヶ月前、破棄の宣告と引き換えに、公爵の隣に据えられた御方である。

「——まあ、あの御姿で……」

「よくも、ご本人がお召しに……」

囁きは、意図されたほどの小ささでは決してなかった。届くようにと声量を調整した、そういう囁きだった。

私は緩やかに歩を進めた。絨毯の毛足の感触、胸骨のあたりを締めつけるコルセットの重み、耳朶に触れる耳飾りの冷たさ。その一つ一つを確かに感じながら、乱れる呼吸だけは決して許さなかった。

そして、エドガー公爵が、こちらに気づいた。

その瞬間、私の目に映ったのは、驚愕でも嘲笑でもなかった。あの方は——顔面から血の気を引かせていた。隣に侍る令嬢の華やぎも、廷臣たちの挨拶も、一切が耳に入らぬといった体で、公爵は私のドレスを凝視していた。正確には、胸元から裾へと流れる銀糸の刺繍の、そのたった一点を。

(……妙な、こと)

胸の内で、私は静かに首を傾げた。

この純白のドレスは、他でもない、エドガー公爵ご自身が私のために選び、贈ってくださった一着である。婚約者として過ごした五年のあいだ、幾度となく、私はこの方から衣装を受けてきた。けれど、あのような——まるで身の毛のよだつものでも目にしたような表情を向けられたのは、初めてのことだった。

「マリエル・ド・クレスフィール公爵令嬢」

廷吏が私の名を読み上げる。捨てられた身が、旧姓を冠して名乗られることの意味を、広間の者は皆、心得ていた。

私は微笑を浮かべ、ゆるりと扇を開いた。

「皆様、ごきげんよう。こうしてお招きにあずかりましたこと、謹んで御礼申し上げます」

声は震えなかった。喉の奥はからからに乾いていたけれど、息ひとつ乱さなかった。

隣の令嬢が、公爵の袖を引くのが見えた。何事かを囁かれても、公爵は答えなかった。答えられなかった、と云うべきか。薔薇色のドレスの令嬢は、怪訝そうに眉を寄せ、やがて公爵の視線の先——私の裾を辿って、そこで小さく息を呑んだ。その頬からもまた、わずかに色が引いた気がした。

——このドレスは、本当に、あの方が選んだものなのだろうか。

静かな、しかし鋭い問いが、私の胸に小さな棘となって突き立った。

壁際の大理石の柱に凭れ、私は手にした杯の中を見つめていた。淡い麦色の酒が、蝋燭の光を受けて揺れている。口をつける気にはなれなかった。冷えた大理石の感触が、素肌の二の腕にじわりと染み入り、私の体を現実へと引き戻してくれた。

——見てはならぬものを、あの方は見た。

広間の中央では、相も変わらず舞踏曲が奏でられていた。軽やかに翻る裾、交わされる手、笑い声。その華やぎの裏で、エドガー公爵は執拗に私の姿を目で追っていた。話しかけてくる廷臣の相手もそこそこに、ただ、じっと。視線の重みは、以前この方に愛されていた頃のそれとは、まるで別種のものだった。畏れと、拒絶と、そして——得体の知れぬ懇願のようなものが、ない交ぜになっていた。

記憶を辿る。このドレスが私のもとに届けられたのは、婚約破棄の宣告があった夜の、ほんの昼のことだった。銀糸の刺繍が裾を飾り、背には小さな銀の留め具。婚約者殿からの、どうぞ本日の夜会にお召しくださいませ、という添え書き。私は疑いもせずにこれを纏い、あの夜の広間に立った。そして、全てを失った。

「我が家の未来を思えば、そなたでは力不足である」——公爵はそう言い放った。涙の一滴もこぼすまいと唇を噛み、私はただ静かに礼を返したのだ。「承知いたしました、閣下。長らくのご厚誼に感謝いたします」と。捨てられたのは、私の側だったはずだ。

ならば、なぜ。

なぜあの方は、私が未だにこのドレスを纏って現れただけで、あのように狼狽するのか。破棄と共に、このドレスも速やかに返却せよ、と——そう告げるのが本来であろうに、三ヶ月のあいだ、公爵家からは何の沙汰もなかった。沙汰がなかった、ということ自体が、いま思えば不自然ではなかったか。

「——失礼、クレスフィール嬢。少々お時間をいただいても?」

背後から、低く、澄んだ声がした。

振り向くと、そこに一人の男が立っていた。年の頃は二十代半ば、あるいはもう少し上か。磨き上げられた黒の礼服、同じく黒の髪、深い紫紺の瞳。広間の煌びやかな色彩の中で、その装いだけが、静かな夜を切り取ったように異質だった。

「どちら様でいらっしゃいますか」

私は扇を胸の前にかざした。初対面の殿方に、軽々に名を呼ばれる筋合いはない。

「これは、ご無礼を」

男は胸に手を当て、恭しく一礼した。所作の一つ一つに、華美を避けて鍛え抜かれた者特有の、静かな重みがあった。

「隣国カルンフェルトの辺境伯、ジルヴェスター・フォン・ラインフェルトと申します。本日、招きを受けてまかり越しました」

辺境伯。聞き覚えはあった。北の国境を守る武門の家柄との噂ばかりが先行し、社交界に姿を現すことの滅多にない一族。その当主が、なぜ私に声をかけるのか。

「ラインフェルト卿。お見知り置きいただき、光栄に存じます」

私は膝を折った。最低限の礼を尽くしたつもりだったが、男は首を横に振った。

「膝を折られるほどの者ではございません。……ただ、一つ、お耳に入れておきたいことがございまして」

紫紺の瞳が、私のドレスの裾へと落ちた。その視線には、値踏みの粘つきも、好奇の熱もなかった。ただ、何か取り返しのつかぬものを確かめようとする、祈りにも似た慎みが宿っていた。

正確には、裾の内側、銀糸に紛れるように縫い込まれた、一羽の——翼を広げた小鳥の紋章に。

「そのドレスの紋章を、どちらでお求めになりましたか」

息が、止まった。

——私は、そのような紋章が、このドレスに縫い込まれていることを、知らなかった。

「……お答えできかねますわ。卿こそ、なぜそれをご存知でいらっしゃるのですか」

私の声が、初めて微かに揺れた。広間の奏楽は絶えず、けれど耳には届かなかった。

辺境伯ジルヴェスターは、ゆっくりと顔を上げた。紫紺の瞳は、同情でも好奇でもなく、ただ静かに、真っ直ぐに私を射抜いていた。

「——それは、十年前に地上から失われた、ある国の花嫁衣装の意匠です」

声は、祈るように低かった。

私は思わず、広間の奥へ目を向けた。エドガー公爵が、こちらを見ていた。先刻と同じ、血の気の失せた顔で。しかし今はそこに、明らかな狼狽が加わっていた。私の隣に立つ黒衣の男の存在を認めた瞬間、公爵は——ひときわ強く、私のドレスの裾を睨んだのだ。

(——このドレスは、本当に、あの方が選んだものなのか)

胸に芽生えた小さな棘が、いま、確かな輪郭を持って私の内側に根を張った。

私はゆるりと扇を閉じ、辺境伯へと向き直った。

「ラインフェルト卿。……続きを、お聞かせ願えますか」

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