第1話
第1話
薔薇の香が充満する大広間で、私の名前が罪状のように読み上げられた。
「セラフィーナ・フォン・ヴェルテンベルク。そなたは聖女ルミエールに対し、度重なる嫌がらせと侮辱を行った」
壇上に立つ王太子エルヴィン殿下の声は、千人の貴族が詰めかけた卒業舞踏会の天井に朗々と響いていた。シャンデリアの灯りが彼の金髪を神々しく照らし、まるで聖典の挿絵のようだった。その隣で、銀髪の少女——聖女ルミエールが、こぼれ落ちそうな涙をたたえて俯いている。
完璧な構図だった。断罪する正義の王太子と、虐げられた可憐な聖女。そして壇上で晒し者にされる悪役令嬢——私。
「よって、我が婚約を——」
その瞬間だった。
頭の中で何かが弾けた。走馬灯のようで、けれど走馬灯よりもずっと鮮明な——膨大な記憶の奔流。小さな画面、指先で選ぶ選択肢、スプレッドシートに整然と並んだ分岐条件の一覧表。深夜のアパートで缶コーヒーを片手に周回を重ねていた、あの途方もない時間の手触りまでもが一気に蘇る。
『——ああ』
私はこの世界を知っている。
乙女ゲーム『聖冠のアルカディア』。前世の私が五周回して全ルートを検証し、フラグの発動条件をスプレッドシートに記録していたゲーム。そして今この瞬間は、悪役令嬢セラフィーナが断罪され国外追放されるバッドエンドの——冒頭。
「——セラフィーナ! 聞いているのか」
エルヴィン殿下の苛立った声が、記憶の奔流を断ち切った。大広間の千の視線が私に注がれている。同情、嘲笑、好奇心——それぞれの色を帯びた目が、私の反応を待っていた。
涙が頬を伝った。都合のいいことに、記憶の衝撃で勝手に流れたものだったが、傍目には断罪に打ちのめされた令嬢の涙に見えただろう。その涙の裏側で、私の思考は凍えるほど冷静に回り始めていた。
『この場面で発動しているフラグは三つ』
一つ、「王太子の断罪宣言」——既に発動済み。これは覆せない。
二つ、「悪役令嬢の醜態」——断罪に対して感情的に反論すると立つフラグ。泣き叫ぶ、罵倒する、聖女に掴みかかる。どれを選んでも傍聴者の心証が最悪になり、国外追放が確定する。
三つ、「貴族社会からの孤立」——友人や侍女が離反するフラグ。ゲームではこの断罪の場で味方が一人もいないことが条件だった。
『一つ目は折れない。でも——二つ目と三つ目は、まだ折れる』
大広間がざわめいていた。私が何も言い返さないことに、人々は戸惑い始めている。ゲームのセラフィーナならここで「私は何もしていません!」と叫び、それが醜態フラグの発動条件だった。
けれど私は叫ばない。
深く息を吸った。薔薇の甘さの奥に、蝋燭の煤けた匂いが混じっている。何百本もの蝋燭が灯された大広間。この煌びやかさのすべてが、断罪の舞台装置として用意されたのだと思うと、奇妙なほど心が静まった。
背筋を伸ばす。ヴェルテンベルク公爵家の令嬢として叩き込まれた所作が、今この瞬間ほどありがたいと思ったことはなかった。肩甲骨を引き、顎を引き、視線をまっすぐ前に。身体が覚えている。セラフィーナの身体が、何千回も繰り返した礼法の型を。
「殿下」
私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「お言葉を遮るご無礼をお許しくださいませ。ただ一つだけ、申し上げたいことがございます」
エルヴィン殿下が眉をひそめた。隣のルミエールが——ほんの一瞬だけ、その大きな瞳に警戒の色が走ったのを、私は見逃さなかった。
『やはり。この子はただの被害者ではない』
ゲームの五周目でようやく気づいた違和感が、今、目の前で裏付けられていた。聖女ルミエールの涙は完璧すぎた。泣き腫らしてもなお美しい、まるで計算された涙——それがどういう意味を持つのか、前世の検証データが静かに告げている。
「殿下のご判断に異を唱えるつもりはございません。ただ——」
言葉を選ぶ。感情的に聞こえてはならない。けれど卑屈に聞こえてもいけない。公爵令嬢としての品格を保ったまま、たった一つの布石を打つ。
「わたくしに向けられたお疑いの数々について、その証拠を宮廷裁判にお預けいたします」
大広間が一瞬、水を打ったように静まった。
宮廷裁判。その言葉の重みは、この場にいる貴族なら誰もが理解している。断罪された悪役令嬢が感情的に泣き喚くのではなく、法と証拠の場に持ち込むと宣言した——その意味を。
最前列に座る父上——ヴェルテンベルク公爵の顔が視界の隅に映った。驚愕と、そしてかすかな誇りが、あの厳格な面差しに浮かんでいた。
エルヴィン殿下の表情に、明らかな動揺が走った。「裁判だと? そのようなものは——」
「王国法典第三十七条に基づき、貴族は公の場での弾劾に対して宮廷裁判を請求する権利を有しております」
前世の記憶ではない。これはセラフィーナ自身の知識だった。公爵令嬢として受けた教育が、ゲームの中では一度も活かされなかった膨大な教養が、今ここで初めて意味を持つ。
「ですので殿下、婚約の破棄につきましては——」
私は微笑んだ。壇上の千の視線の中で、精一杯の優雅さを纏って。
「裁判の結果をもって、改めてご判断いただければ幸いです。それでは、ごきげんよう」
スカートの裾を優雅に摘み、一礼する。完璧な淑女の礼。そしてゆっくりと、壇上を降りた。
背中に視線が突き刺さっていた。嘲笑ではなく——困惑の。予定通りの茶番を壊された者たちの、居心地の悪い沈黙が大広間に満ちている。
振り返らなかった。
大広間から控室へ続く回廊を歩く足音が、やけに大きく響いた。足が震えていた。強がりでもなんでもなく、記憶の奔流の衝撃と、千人の前で演じた冷静さの代償が、今になって一気に押し寄せていた。
ヒールが大理石の床を叩くたびに、かつん、かつんと硬い音がした。その音の合間に、背後の大広間からようやくざわめきが戻ってくるのが聞こえた。——遅い。あの場の空気を止めたのは、たった数十秒のことだったはずなのに。
控室の扉を閉め、背中を預ける。冷たい木の感触が薄いドレス越しに伝わった。
「……はぁ」
深い、深い息を吐いた。
誰もいない控室。化粧台の鏡に映る自分の顔は、涙の跡こそあれ、思ったより落ち着いていた。蜂蜜色の巻き髪、すみれ色の瞳、白磁のような肌——ゲームのスチルで何度も見たセラフィーナの顔。今はもう、この顔が自分のものだった。
『さて——』
泣いている暇はない。壇上では最善の一手を打てた。醜態フラグは回避した。宮廷裁判の請求で時間を稼いだ。だがそれだけでは足りない。
私は化粧台の引き出しから便箋と羽根ペンを取り出した。前世でスプレッドシートに記録していたものを、今度はこの手で書き起こす。
まず、現在のフラグ状態。
一、「王太子の断罪宣言」——発動済み・不可逆。
二、「悪役令嬢の醜態」——回避成功。だが今後の言動次第で再発動の可能性あり。
三、「貴族社会からの孤立」——未確定。侍女と友人の離反がトリガー。明日以降の対応が鍵。
次に、立てるべきフラグ。いや——折るべきフラグ。ゲームの中でセラフィーナが国外追放に至るまでの分岐条件を、一つずつ逆算して書き出していく。
羽根ペンが便箋の上を走る音だけが、静かな控室に響いていた。
宮廷裁判までの猶予は、王国法の規定で最大十四日。その間に聖女ルミエールの「善行」の裏を取り、証拠を揃え、社交界の心証を覆さなければならない。
便箋の末尾に、私は一行だけ書き加えた。
——残り猶予、十四日。
ペンを置き、インクの乾いていない文字を見つめる。前世の記憶と、公爵令嬢の教養と、そして何よりも「このゲームのフラグを誰よりも知っている」という確信。
それが今の私の全ての武器だった。
ドレスの裾についた薔薇の花弁を一枚、指で摘み上げる。大広間から持ち帰ってしまった、断罪の舞台装置のかけら。
『十四日——足りるかしら』
答えは出ない。けれど、便箋に連なるフラグの一覧を見つめるうちに、口元にかすかな笑みが浮かんでいることに気づいた。
怖くないと言えば嘘になる。でも——こんなに面白いゲームの検証は、前世でもなかった。