第3話
第3話
馬車の軋む音が、ようやく私に現実を戻した。
車輪が石畳を刻むたびに、小さな振動が座席の革を伝い、膝の上に置いた両手を揺らす。外はすでに冬の午後の光で、薄い斜光が窓の縁に沿ってまっすぐな線を引いていた。王宮を出てから、どれほどの時が経ったのか。蜜蝋の甘い残り香はとうに消え、代わりに馬の汗の匂いと、車内に仕込まれた白檀の香袋の重たい芳香が混じり合って鼻の奥を満たしている。
膝の上の扇を、私はまだ握りしめたままだった。象牙の骨が指の肉に食い込み、紅い筋を残している。緩める動作そのものを、身体が少しずつ思い出していく段階だった。六度の断罪で、私は退場の馬車に乗り込むたび、号泣するか虚脱するか——そのどちらかしかできなかった。七度目の今、初めて、思考のための場所が胸の奥に残っている。
向かいの座席には誰もいない。侍女のエルサは馬車の後尾で、荷の見張りを申し出た。いつもならば「お嬢様」と寄り添う彼女が、今日は私の静けさを敏感に察し、距離を取ってくれた。一人になる時間が、必要だった。
『整理せねばなりませぬ』
私は深く息を吸った。冬の空気は窓の隙間から細く流れ込み、肺を満たすたびに頭の霞を一枚ずつ剥がしてくれる。前世の記憶が戻った今ならば、ただの不運として流してきた出来事にも、別の形が見えるはずだった。
一度目の断罪は、春だった。
学園の舞踏会。私が十七の年。エルヴィンが初めて公の場でリーゼロッテに手を差し伸べた日——その三日前に、私の母が流行り風邪で臥せった。当時は偶然と受け止めた。だが今、記憶の中に再現されるその日、聖女は王都の中央教会で「病者への浄化の祈り」を捧げていた。光魔法の発動は、確かに三日前の午前。母の体調が崩れたのは、同じ日の夕刻だった。
二度目。秋の収穫祭の前夜。父と領地経営について重要な書簡が交わされる予定だった晩、エーデルシュタイン邸の東棟で原因不明の失火が起きた。書簡は焼け、父は王都から領地へ戻らざるを得なくなり、私は一人で学園祭を迎えた。その夜、リーゼロッテは教会で「豊穣の祈り」を上げていた。光魔法の余波が、遠い場所でも火花を呼ぶ——前世で読んだファンの考察記事に、確か似た一文があった。
三度目。私の親しい友人、レナ男爵令嬢が、学園の大理石の階段から転落した。足を痛めて長く療養に入り、以降、彼女は私の傍を離れた。彼女が倒れたのは放課後の鐘が鳴った直後。同じ日の正午、教会では聖女の月次祈祷が行われていた。
四度目、私の乳母が心の臓で逝った。五度目、長らく私に詩を教えてくれた老教師が、身に覚えのない罪で職を追われた。六度目、幼馴染のベルント子爵子息が、私の名を口にすることを突然避けるようになった——その朝、城下で聖女の「純心の祈り」が厳かに捧げられていた。
『——ああ』
膝の上で、扇を握る指が緩んだ。代わりに、両手を重ねて組み直す。冷たい指先を、もう一方の掌で包んで温める。そうしなければ、震えが声に出そうだった。
偶然ではなかった。一度や二度ならば、確かに星の巡りと片付けられたかもしれない。しかし六度——六度だ。すべて、リーゼロッテの光魔法発動と、私を孤立させる「偶然の不幸」の時刻が、半日以内に収まっている。
光魔法の発動そのものが、他者の不幸を誘発する——そんな乱暴な話ではあるまい。おそらく、あの祈りの触媒に、何か別の力が混ざっている。他者から何かを「奪う」類の力。奪われた側では、それが病や事故や断絶として現れる。聖女の微笑みの影で、名もなき誰かが必ず代価を払っていた。
母の臥床、父の呼び戻し、友の療養、乳母の逝去、教師の失職、婚約者の変心——六度の不幸の連鎖は、私から「味方になりうる者」を一人ずつ削り取る工程だった。偶発の不運を装った、極めて計算された剥離作業。断罪の舞台に立たされたとき、私の周囲が空洞だったのは当然だ。あの玉座の間に味方が一人もいなかったのは、事前に一人ずつ、丁寧に引き剥がされていたからだ。
胸の内で、何かが鉛のように沈んでいった。怒りではない。もはや驚きですらない。ただ、自分が六度歩かされた道の輪郭が、初めて地図として眼前に広がった——そういう静かな戦慄だった。
私は馬車の窓枠に、冷たい額を押し当てた。透明な硝子越しに、遠ざかる王都の尖塔が見える。あそこで、今も聖女の祈りは続いているのだろう。
『地図を手に入れた以上、次は道を外す番にございます』
領地エーデルシュタインに入ったのは、日が傾き始めたころだった。
馬車の速度が落ち、車輪が砂利を噛む音に変わる。私はもう一度、扇をしまい、ドレスの襟元を整えた。窓の外には、低い冬草の原が広がっている。——覚えのある風景のはずだった。六度のどのループでも、私はこの領地で育ち、この道を馬車で往復してきた。
だが、視界の先に現れた本邸の姿は、記憶のそれと大きく違っていた。
正門の鉄扉が、片方だけ傾いだまま鎖で固定されている。蔦の紋章を金箔で浮き立たせていたはずの門柱は、塗りが剥げ、下地の灰色の石が露わになっていた。御者が手綱を引き、門番へと声をかける。応答がない。しばし待って、ようやく奥から足音が一人、駆けてきた。
馬車が止まり、扉が開かれる。私は御者の手を借りて、車寄せに降り立った。
冷気が靴底から脚を上ってきた。車寄せの敷石は、継ぎ目ごとに青苔が生え、冬草が細い芽を覗かせている。本邸の正面扉は閉じられたまま。両脇に灯るはずの松明はなく、代わりに煤で黒ずんだ受け皿だけが、朽ちた爪のように残されていた。庭の噴水は水が止まり、銅製の人魚像は片腕を欠いていた。
「——お嬢様」
聞き覚えのある声に、私は顔を上げた。
正面扉が軋みながら開き、中から初老の女性が一人、現れた。マルタ。母が生きていた頃からの筆頭メイド。その割烹着は、洗濯されてはいるものの、袖口が擦り切れ、襟元の白は染みで薄く濁っている。記憶の中のマルタは、いつも背筋を真っ直ぐに伸ばし、頬は林檎のように赤かった。今、目の前に立つ女性は、肩が幾分か落ち、頬は青白く、目の下に影を落としていた。
「お帰りなさいませ」
私は一瞬、声を失った。
六度のループで、私はこの領地に戻ったことがなかった。断罪の後、私は王都で幽閉され、半年ののちに毒か病か——ともかく、屋敷の門をくぐる前に命を閉じてきた。領地がどうなっていたのか、私は一度も見届けなかった。
「マルタ」
声が、わずかに震えた。
「——これは、どうしたことです」
マルタが目を伏せた。擦り切れた袖口の糸が、夕風に小さく揺れた。
「お屋敷に残っておりますのは、わたくしとトーマス爺や、厨房のジェマの三人のみにございます。他の者は、皆——」
そこで彼女は言葉を切った。続きを飲み込み、代わりに私の手を取って、硬い石段のほうへ導こうとする。手袋越しに伝わる彼女の掌は、骨張って、薄かった。
扉をくぐった先に広がるのは、かつての玄関広間だった。
天井のシャンデリアから水晶の飾りの半分が失われ、残りは埃に覆われて光を失っている。壁に掛けられていた祖先の肖像画は、三枚のうち二枚が外され、剥き出しの石壁に錆びた鉤だけが突き出していた。床の絨毯は、かつて朱色だったはずが、今は灰色に近い。踏むたびに、乾いた埃が靴先から舞い上がった。
『——これが』
私は立ち尽くした。胸の奥で、また何かが音もなく崩れていく。
六度のループのたびに、聖女の祈りは領民からも代価を奪っていたのだ。断罪に没頭するあまり、私は気づかなかった。私一人が不幸になっていたのではない。私の背後で、領地そのものが、ゆっくりと血を失い続けていた。
マルタが私の傍で、小さく洟をすすった。
「お帰りくださって、何より——」
私は彼女の肩に、そっと手を置いた。
七度目の私が最初に守るべきは、もう、私自身ではなかった。
埃の立つ床を、私は一歩踏み出した。踵の下で、乾いた木片が軋む。