第1話
第1話
「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルク。我が婚約を破棄する」
その声が大広間に反響した瞬間、世界が二重写しになった。
シャンデリアの光が滲む。数百の蝋燭に照らされた黄金の広間、居並ぶ貴族たちの宝石が鋭く瞬き、どこかでグラスが床に落ちて砕ける音がした。白大理石の床に赤ワインが花のように広がり、誰かが小さく悲鳴を上げたが、それすら広間を支配する緊張の前では掻き消された。けれど私の耳は、目の前の王太子殿下の声よりも、頭の奥で弾けた別の音を追いかけていた。
——知っている。この場面を、知っている。
記憶が奔流のように溢れた。狭いワンルーム。画面の向こうで繰り広げられる断罪イベント。夜更かしして周回した乙女ゲーム『星詠みの聖女』。コンビニで買ったカップ麺が伸びきるのも忘れて、攻略ルート全制覇に没頭したあの夜。エンディングを迎えるたびに感じた、どこか物足りない虚しさ。そして今、私は——。
『セラフィーナ・フォン・ヴェルテンベルク。悪役令嬢。最終章で全てを剥奪され、国外追放』
ああ、そうだった。私はその、セラフィーナだ。
王太子エドワルド殿下が何か仰っている。聖女リーゼロッテ嬢への度重なる嫌がらせ、学院での数々の妨害行為——罪状の列挙が朗々と広間に響いていた。殿下の声は訓練された演説のように淀みなく、一語一語が聴衆に向けて計算された間合いで放たれている。取り巻きの令嬢たちが扇の陰で口元を歪め、若い貴族たちが哀れみと愉悦の入り交じった目でこちらを見つめている。壁際に控える侍従たちでさえ、無表情の仮面の下に好奇心を滲ませていた。
不思議と、心は凪いでいた。
前世の記憶が教えてくれる。これはゲームの既定路線。このあとセラフィーナは取り乱し、醜態を晒し、没落への坂道を転がり始める。それが「正史」だ。
けれど今の私には、二十六年分の別の人生がある。大学院で古代文明の遺跡を掘り、泥まみれの土器片から文明の営みを読み解いた日々。真夏の発掘現場で日射病寸前になりながらも、地層の変化を見逃すまいと目を凝らし続けた。論文を何度突き返されても仮説を組み直した、あの粘り強さ。指導教授に「君の取り柄は才能じゃなくて執念だ」と呆れ半分に言われたことさえ、今は誇らしい。
『——落ち着きなさい、私。まずは状況の整理よ』
深く息を吸い、背筋を伸ばした。ドレスの裏地が肌に冷たく触れ、コルセットが肋骨を締めつける感覚が、ここが現実であることを否応なく伝えてくる。吸い込んだ空気には蝋燭の甘い煤と、どこかの貴婦人がまとう薔薇の香水が混じっていた。公爵令嬢としての所作は、この身体に染みついている。
エドワルド殿下の糾弾は続いていた。その隣でリーゼロッテ嬢が涙ぐみ、殿下の袖を遠慮がちに引いている。銀髪が揺れ、大きな碧眼に涙の膜が光る様は、まるで一幅の宗教画だった。——ああ、これもゲーム通りだ。聖女が慈悲を見せ、しかし断罪は覆らない。完璧な演出。
視線を逸らした、その時だった。
天井が目に入った。
大広間の天井画は、建国の英雄と聖女の邂逅を描いた壮麗なフレスコ画で、何百年も貴族たちの頭上を飾ってきたものだ。誰もがその美しさを知っていて、誰ももう見上げたりはしない。
けれど私の目は、フレスコ画の縁に沿って走る装飾文様の一部に釘付けになっていた。
あれは——装飾じゃない。
心臓が跳ねた。前世の記憶が、考古学者としての訓練が、反射的に叫んでいた。あの紋様の配列は、単なる意匠ではない。渦巻きと直線の組み合わせ、等間隔に配された結節点、幾何学的な対称性——あれは体系的な記号だ。メソポタミアの楔形文字にも、エジプトのヒエログリフにも通じる、意味を伝達するための構造がそこにはあった。同じ記号の反復が規則的に現れる。語彙がある。文法がある。そして何より、繰り返しの中に変化がある——同じ基本記号が、隣接する記号との組み合わせによって微妙に形を変えている。それは活用であり、格変化であり、生きた言語の証拠だった。
『魔法陣……?』
ゲームの中にあんなものは存在しなかった。『星詠みの聖女』の魔法体系は、聖女の祝福を頂点とする神聖魔法がすべてだった。攻略サイトも、設定資料集も、あの天井の紋様には一言も触れていなかった。
なのに、あれは確かにそこにある。何百年も前から、誰の目にも触れながら、誰にも読み解かれずに。
指先が微かに震えた。興奮だった。遺跡で予想外の地層を掘り当てた時と同じ、背筋を駆け上る電流。この感覚を、私はよく知っている。未知の発見の手前、仮説が形を結ぶ直前の、あの身体が総毛立つような昂り。手帳とペンが欲しい。今すぐあの天井に梯子をかけて、一つ一つの記号を拓本に取りたい。
「——セラフィーナ嬢。聞いているのか」
エドワルド殿下の苛立った声で、意識が引き戻された。翡翠の瞳が冷たくこちらを見据えている。端正な眉が不快そうに寄せられ、薄い唇が一文字に引き結ばれている。かつてこの身体の主が恋い焦がれた美貌。けれど今の私には、天井の紋様の方がよほど心を掻き立てた。
「ええ、殿下。すべて承りました」
私は深く、優雅に一礼した。公爵令嬢として恥じない、完璧な角度で。長い睫毛が頬に影を落とすのを感じながら、視界の端で殿下の表情が強張るのを捉えた。
広間がざわめいた。取り乱すはずの悪役令嬢が、あまりにも静かだったから。扇がひそひそと動き、令嬢たちの囁きがさざ波のように壁際まで広がっていく。誰もが次の言葉を待っていた。泣き叫ぶか、弁明するか、あるいは聖女に掴みかかるか——彼らの期待する見世物を、私は何一つ提供するつもりがなかった。
「婚約の破棄、謹んでお受けいたします」
エドワルド殿下が一瞬、虚を突かれた顔をした。リーゼロッテ嬢が不安そうに殿下を見上げる。台本にない展開に、舞台の役者たちが戸惑っている。
「……それだけか」
「それだけでございます」
微笑んだ。もう演じる必要はない。悪役令嬢の仮面も、殿下への執着も、この身体の前の主が抱えていた全ての柵も——前世の記憶が蘇った瞬間に、綺麗に剥がれ落ちていた。
踵を返す。数百の視線が背中に突き刺さる。嘲りも、困惑も、好奇も、全てが等しく遠い。ヒールが大理石の床を叩く硬い音だけが、静まり返った広間に規則正しく響いた。
大広間を出る直前、もう一度だけ天井を見上げた。
フレスコ画の縁に沿う紋様が、シャンデリアの光を受けて微かに——本当に微かに、蒼く明滅した気がした。
『……やっぱり、ただの装飾じゃない』
ゲームにはなかった古代の魔法陣。聖女の祝福とは異なる、もう一つの魔法体系の痕跡。前世で論文を書くために何千もの紋様を分類した経験が、あの配列の中に論理的な構造——つまり解読可能な体系が存在することを告げている。
廊下に出ると、舞踏会の喧騒が厚い扉の向こうに遠ざかった。冷たい夜気が火照った頬を撫でる。石造りの廊下は嘘のように静かで、遠くの角を曲がった先から衛兵の足音だけがかすかに聞こえてくる。窓の外には、王都の夜景が宝石を撒いたように広がっていた。尖塔の先に灯る魔法灯が、星空と地上の境界を曖昧にしている。
婚約は破棄された。社交界での居場所は失われた。ゲームの筋書き通りなら、ここから没落が始まる。
けれど、私の胸にあるのは絶望ではなかった。
『ヴェルテンベルク公爵家の地下書庫——確か、建国期の文献が山ほど眠っていたはず』
実家に戻る理由ができた。いや、戻らなければならない理由が。
あの天井の魔法陣の正体を突き止める。誰も解き明かせなかった古代の魔法体系を、この手で読み解く。破滅を回避するだけじゃない。この世界の誰も辿り着いていない領域を、私は切り拓く。
前世で泥にまみれて遺跡を掘った手だ。未知の謎を前にして、怯む理由がない。
迎えの馬車に向かって歩き出しながら、私は自分の口元が笑みの形になっていることに気づいた。婚約を破棄された令嬢の顔では、きっとなかっただろう。
——大広間では今頃、聖女と王太子の美しい物語が始まっているのだろう。
どうぞお好きに。私には私の、解き明かすべき謎がある。