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婚約破棄、辺境にて開花す

第1話 第1話

第1話

第1話

「セレスティーナ嬢。私はあなたとの婚約を、本日をもって破棄する」

 王太子アルベルトの声が、大広間の天井高くまで響き渡った。

 百を超える燭台の炎が揺れもしない静寂の中、その言葉だけが冷たく落ちた。まるで誰かが硝子の器を石畳に落としたように——美しく、取り返しのつかない音だった。

 私は王太子の隣に立っていた。今宵は婚約の正式発表を兼ねた祝典であったはずだ。純白の絹に銀糸の刺繍を施したドレスは、この日のために三月かけて仕立てたもの。胸元には公爵家の紋章を象ったブローチが光っている。肌に触れる絹の裏地がひやりと冷たい。つい先ほどまで、この衣装が人生で最も晴れがましいものになるはずだった。

 大広間に居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へ注がれた。同情、好奇、嘲笑——それぞれの感情を纏った眼差しが、肌に針を刺すように突き立つ。どこかで誰かが息を呑む音がした。銀食器がかちりと鳴り、それきり広間は沈黙に呑まれた。蝋燭の蝋が焦げる微かな匂いだけが、時間がまだ流れていることを教えてくれる。

 けれど私の表情は微動だにしない。

 公爵家の令嬢として十六年。感情とは胸の奥に仕舞い、決して人前に晒さぬものと教えられてきた。父の教育は厳格だった。食事の作法、舞踏の所作、外交辞令の一つに至るまで、すべてが完璧であることを求められた。泣くことは弱さであり、怒ることは醜さであると——幼い頃に零した涙を、父は一度も拭ってはくれなかった。代わりに差し出されたのは、常に白い手巾と「公爵家の人間は人前で泣かない」という言葉だった。その教えが、今この瞬間、私の背筋を支えている。

「理由をお聞かせ願えますか、殿下」

 自分でも驚くほど平坦な声が出た。

 王太子は一瞬たじろいだように見えた。整った眉がわずかに歪み、用意していた言葉を探すように視線が泳ぐ。おそらく、泣き崩れるか取り乱すか——そのどちらかを期待していたのだろう。彼の隣には、淡い桃色のドレスを纏った少女が寄り添っている。男爵令嬢リゼッタ。この半年ほど、社交の場で王太子の傍に侍る姿を幾度か見かけていた。

「私はリゼッタへの真実の愛に目覚めた。政略ではなく、心からの伴侶を得たいのだ」

 なんと陳腐な台詞だろう。宮廷詩人でももう少し気の利いた言い回しを考えるものだ。けれどその言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに——ほどけた。

 怒りではない。悲しみでもない。

 長い間きつく結ばれていた紐が、するりと解けるような感覚だった。

 思えば、この婚約に心が躍ったことなど一度もなかった。十歳で決められた縁組。王太子妃となるべく磨かれた日々。彼の好みに合わせて選んだ書物、彼の気分に寄り添うために覚えた笑顔の角度。お茶会で彼が好む菓子の種類、狩猟の後に機嫌がよくなる話題の選び方——そのすべてが一方通行だったのだと、今ようやく認めることができる。彼が私の好む花の名前すら知らないことに気づいたのは、いつのことだったか。

 リゼッタが不安そうに王太子の袖を掴んだ。大きな瞳に涙を溜め、怯えた小動物のような仕草を見せている。その白い指先は微かに震えていたが、震え方があまりにも一定で、まるで鏡の前で練習したかのようだった。計算か天然かは判じかねるが、見事な演技だった。

「殿下のお心が定まっているのであれば、私から申し上げることはございません」

 私は深く、完璧な礼を取った。ドレスの裾が床に美しく広がる。この所作を何千回練習したことか。

「長らくのご厚誼、謹んで感謝申し上げます」

 顔を上げたとき、王太子の表情に一瞬の動揺が走るのが見えた。想定と違ったのだろう。哀れな令嬢が涙ながらに許しを乞い、それを寛大に赦す——そんな筋書きを描いていたに違いない。

 周囲がざわめいた。扇の陰でひそひそと囁き合う声が、さざ波のように広がっていく。「あの公爵令嬢が」「涙ひとつ見せないとは」「なんという——」。断片的な囁きが耳に届くが、その一つ一つを拾う必要はなかった。

「セレスティーナ嬢」

 王太子が呼び止めた。声にわずかな苛立ちが混じっていることに、おそらく本人は気づいていない。

「去るにあたって、おまえには辺境に領地をくれてやろう。北の果て、ヴァイセン領だ。これは私の恩情だと知れ」

 ヴァイセン領。名前だけは聞いたことがある。帝国の北端、雪と岩に閉ざされた不毛の地。前領主が逃げ出して以来、もう何年も放置されているという。父の書斎にあった地図では、帝国の版図の端にわずかな点として記されているだけだった。冬は半年続き、まともな街道すらないと聞く。つまりこれは恩情などではない。体のよい追放だ。

 しかし、と思う。

 父の書斎で繰り返し読んだ領地経営の書物。農政論、灌漑技術、交易路の理論。寒冷地における麦の品種改良について論じた古い論文を、興味深いと感じて三度読み返したこともあった。公爵家の跡取りとして叩き込まれた知識は、王太子妃の装飾品としてではなく、領主として生きるためのものだったのかもしれない。

 そう考えた瞬間、胸の奥にひとすじの光が差した。

「寛大なご配慮、痛み入ります」

 私は再び礼を取り、そして——微笑んだ。社交用の薄い笑みではない。心の底から湧き上がる、静かな確信に満ちた笑みだった。

「辺境の地こそ、私の才覚を試すにふさわしい場所。殿下のお心遣いに、心より感謝いたします」

 大広間が水を打ったように静まり返った。

 誰もが予想していた展開とは違った。泣き崩れるでもなく、恨み言を述べるでもなく、追放同然の処遇に礼を述べ、堂々と微笑んでみせた令嬢。その姿に、居並ぶ貴族たちの間にかすかな——しかし確かな感嘆の気配が流れた。

 王太子の顔から余裕が消えたのを、私は見逃さなかった。彼の手が無意識に拳を握り、飾り紐のついた袖口が皺を刻む。リゼッタもまた、戸惑ったように瞬きを繰り返している。この場を支配しているのが、壇上の王太子ではなく退場する私であることに、二人はようやく気づいたのだろう。

 背を向けた。

 大広間の扉までは五十歩ほど。その一歩一歩を、私は姿勢を崩さず歩いた。左右に並ぶ貴族たちの視線を背中に受けながら。足音だけが規則正しく石畳に響く。磨き上げられた大理石の床に、燭台の光を受けた私の影が長く伸びていた。

 振り返らなかった。振り返る理由がなかった。

 あの場所に、未練と呼べるものは何一つ残っていない。六年間の婚約生活で得たものがあるとすれば、それは王太子への愛情ではなく、どのような場でも折れない背骨だけだ。

 大広間の重い扉が、私の背後で閉じられた。

 廊下に出た瞬間、燭台の炎が風に揺れた。夜気を含んだ風が頬を撫で、宴の喧騒が厚い壁の向こうへ遠ざかっていく。絹のドレスに染みた香の匂いが、もう過去のものになろうとしている。廊下の窓から差し込む月明かりが、冷たい石の床を白く照らしていた。どこか遠くで夜鳥の声がした。

 ——ようやく、自由になれる。

 その言葉が胸の内で静かに響いたとき、不意に足が止まった。涙ではない。ただ、十六年間ずっと締め付けられていた胸の奥が急に軽くなって、呼吸の仕方を一瞬忘れただけだ。指先が微かに震えていることに気づいて、そっと胸の前で両手を組んだ。これは恐れの震えではない。檻から放たれた鳥が、初めて翼を広げるときの震えだ。

 深く、長く、息を吸った。吐いた。冷たい夜気が肺を満たし、宴の甘い空気を押し出していく。

 前を向いた。王都の門の向こうに、まだ見ぬ辺境の地が待っている。荒れ果てた土地だろう。民は疲弊しているだろう。けれど、それでいい。誰かの添え物ではなく、自分の足で立つ人生が、ようやく始まる。

 馬車の用意を侍女に命じ、私は歩き出した。

 ——このとき、大広間の隅でひとりの青年がその場を動かずに立っていたことを、私はまだ知らない。

 北辺境伯ヴォルフ・フォン・ノルデンシュタイン。帝国北方の守護者と称される男は、閉じた扉をしばらく見つめたのち、静かに杯を置いた。琥珀色の酒が揺れ、燭台の光を受けてひとつ煌めいた。その銀灰色の瞳に何が映っていたのか——それを知るのは、もう少し先のことになる。

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