第3話
第3話
父の煙草の残り香——それは空耳ではなかった。
私は飾り箱の縁に指を添えたまま、書庫の空気を一呼吸ぶん止めた。地下の闇の奥、棚と棚の隙間から、かすかに琥珀色の匂いが漂っていた気がしたのだ。もう消えかけているそれを、肺の底に引き込んで確かめる。——間違いない。父の書斎で焚かれる、熟成されたカディス葉の甘い煙。誰かが、ごく最近、この書庫に足を踏み入れている。
爪が革表紙に食い込む。毟り取られたページの断面が、指の腹に擦れた。
「……父上」
声にならない呟きが、蝋燭の芯を揺らした。
母が父に伏せていた手記を、父が読んでいた。七年間、一度もこの地下に降りなかったはずの人が、いつ、どうやって。そして、どの一枚を抜いたのか。
私は手記を閉じ、飾り箱の底に戻して、押し花の栞を重ねた。元に戻したつもりでも、一度触れた場所は、触れる前の形には戻らない。それでも私は、痕跡を消す方を選んだ。——知った顔をしない。母が、そうしたように。
左手首の腕輪が、銀の冷たさを取り戻している。先刻の脈動はもう鎮まっていた。警告は、一度だけで十分だと言うように。
石段を上がる。一段ごとに、書庫の匂いが薄れ、薔薇と蝋燭の芯の香りが入れ替わった。屋敷の廊下に出ると、大時計が三つ目の鐘を打つ。建国祭まで、あと三日。
扉の向こうで、ベルタが肩掛けを抱えて待っていた。私は何事もなかったかのように鍵を懐に戻し、廊下の冷気を袖口で閉じる。書庫の琥珀色の残り香は、階段を上り切った瞬間に、もう私の鼻腔からは消えていた。
翌朝、王宮から使者が来た。
封蝋は第二王子家の紋——交差した剣と月桂樹。けれど封の押し方が僅かに傾いでいるのを見て、私は差出人の正体を悟った。エルヴィン本人ではない。側仕えの誰かが、主人に代わって慌ただしく押した印だった。
応接間の長椅子に掛けて封を切る。羊皮紙は薄く乾き、指の腹に細い罅が立った。
『建国祭舞踏会への出席、謹んでお控えいただきたく』
短い。たった一行。流麗な筆跡は側仕えのもので、追伸も署名もない。ただ左下に小さく、ミレーユ・ラ・フォンテーヌ嬢の名を記した招待者一覧が添えられているのが、この紙の本当の意味だった。
——舞踏会には来るな。私の代わりに彼女がそこにいる。あなたは、もう、いらない。
「お嬢様」
背後でベルタが息を詰める音がした。紙の端を私の肩越しに覗き込み、それ以上の言葉を喉の奥で飲み下している。
「……これだけ、でございますか」
「ええ」
「七年の婚約の終わりが、一枚の紙切れで」
「正式な破棄ではないわ。『お控えいただきたく』——つまり、公式には婚約者のまま。舞踏会の場だけ、消えていろと」
私は羊皮紙を畳み、指の腹で折り目を撫でた。乾いた音が、妙に耳に残る。
「出席するわ、ベルタ」
「お嬢様」
「父上の名代として登城する。それは公爵家の務めよ」
ベルタが喉の奥で何かを飲み込んだ。この人はいつもそうだ。怒りも悲しみも、喉で止めて、温かい声にして私に渡してくれる。——私の封印と、同じ仕組みで。
「ドレスは、夜露色を」
「……承知いたしました」
昼過ぎ、衣装室で仮縫いが始まった。
ベルタが床に膝をつき、裾の長さを測る。深い青を基調に、肩から胸元にかけて銀糸で月桂の刺繍を走らせた夜会服。母が生前、私のために選んでくれていた生地で、三年前に仕立てられたまま、一度も袖を通していない。
腰に巻かれたメジャーが、みし、と鳴る。ベルタの指は針の扱いも測寸も、七年間、一度も私の寸法を外さなかった。けれど今日は、その指が裾の端で一度だけ止まった。
「お嬢様」
「ええ」
「——いつまで、お耐えになるのですか」
声は低かった。私の胸の奥に一直線に刺さるよう、慎重に選ばれた低さだった。
姿見の中で、自分の唇が結ばれるのが見える。銀糸の月桂冠が肩口で鈍く光り、首筋の線が夜会のかたちに整えられていく。——耐える。ベルタはそう言った。戦うのでも抗うのでもなく、耐える。七年間の私を、この人はずっとその一語で見守ってきたのだ。
「もう少し、だけ」
私は答えた。鏡の中の自分の目を見たまま。
「——あと、三日」
ベルタの針を持つ手が、微かに震えた。裾の銀糸が一本、蝋燭の光を弾いて跳ねる。針先は、それでも真っ直ぐに布地へ戻っていった。
登城の日は、薄い雲が王都を覆っていた。
建国祭の準備で、王宮正門前の石畳は早朝から馬車で埋まっている。花師が大輪の薔薇を積んだ台車を押し、楽師がリュートの弦を合わせ、下働きの少年たちが銀皿の山を運んでいく。どの顔も浮き立つように忙しなく、どの声も華やいだ上擦り方をしていた。——それでも、すれ違う下級貴族の誰もが、私の馬車の紋章を見て一瞬だけ視線を落とす。哀れみ、好奇、もしくはその両方。琥珀色の空気が、私の肩で一段冷えた。
「グラーティア公爵家、名代お着きにございます」
取次の声に押されて、私は正殿の西廻廊を進んだ。父の名代として、建国祭への献納金の目録を届けるのが今日の表向きの用事だ。献納は例年、当主本人が行う。父は執政府の会議で動けないと言った。——本当は、舞踏会で起こるであろう何かから距離を取るためだ。父は、知っている。何かを、知っている。
廻廊の途中、石柱の陰から低い声が漏れ聞こえた。
「……ゆえに、報告書は三度上げたと申し上げております、枢機卿猊下」
足が、止まった。
声の主は老人だった。深緑の外套に、結界管理官の銀の徽章。年の頃は六十を過ぎ、頬は窶れ、指先が羊皮紙の束ごと震えている。相手はそれよりもひと回り大きな影——聖堂枢機の緋の衣をまとった壮年の男。ミレーユの後見役として名を聞く、カシュター枢機卿。
「干渉の規模は微細だ、ラインベルト卿。建国祭前の、浮かれた魔力乱流と区別がつくまい」
「いいえ、猊下。王宮東南の基軸と北の要石、二点に同じ周期で脈が入っております。自然の乱流ではありえぬ律動で——」
「ラインベルト卿」
枢機卿の声が、静かに老人を切った。
「建国祭の夜に陛下の御前で『結界に穴が空いております』などと申したいのか。君の観測器の方を、まず疑いたまえ。陛下の御心を騒がせた後で、ただの誤作動でございました——では、卿の首では済むまい」
「……」
「下がりなさい。報告書は、私が預かる」
枢機卿の緋の衣が翻り、老人の手から羊皮紙の束が引き取られた。カシュター枢機卿が廻廊を遠ざかっていく足音は、石畳の上をしっかりと刻んでいく。老人の手だけが、束を失ったかたちのまま、宙に残されていた。
私は石柱の陰から、半歩だけ踏み出した。
視線が合う。ラインベルトと呼ばれた老人の瞳には、諦めと、諦めきれない何かが層になっていた。——この人は、正しい。そして、潰された。
「……グラーティア家の」
老人が、干からびた唇で呟いた。
「公爵令嬢、何をお聞きに」
「何も」
私は微笑んだ。社交の席で七年間磨いた、空の微笑み。
「ただ、廻廊の花を眺めていただけですわ。献納の目録を、執務室までお運びしても構いませんこと?」
老人の目が、私の左手首を一瞬だけ撫でた。袖口からは何も見えないはずの、腕輪の位置を、正確に。
「……ご案内、いたしましょう」
銀の徽章が、歩み出す老人の肩で一度だけ跳ねた。その背中を追いながら、私は袖の下で左手首を握り込む。
腕輪は、冷たく沈黙していた。けれど、沈黙が、何よりも雄弁だった。
献納の儀を終え、帰路の馬車が西門を抜ける頃、王宮の鐘が夕刻を告げた。
車窓の向こうで、建国祭の飾り旗が風を孕む。赤と金の布地の奥、王宮の尖塔の結界が、夕日に透けて薄い光の膜を張っていた。その膜の、東南の一点。目を凝らさなければ見えない、ごく小さな歪み。水面に落ちた油の一滴のように、そこだけ光が滞留している。
——脈が、入っている。
見間違いではなかった。ラインベルト卿の言葉と、私の封印越しの感覚が、同じ一点を指している。誰かが、建国祭の夜に合わせて、王宮の結界を内側から弛ませている。
膝の上で、手袋の指先が静かに握り込まれた。
「ベルタ」
向かいの席で、ベルタが顔を上げる。
「夜会服の袖口、銀の腕輪が見えぬよう、もう一分だけ詰めて」
「……お嬢様、それは」
「備えよ。ただの、備えよ」
馬車が石畳の継ぎ目を越える。左手首の腕輪が、今日三度目の鼓動を打った。同意ではなく、警告でもない——今度は、呼吸に似ていた。