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欠陥令嬢の始原魔導

第2話 第2話

第2話

第2話

腕輪の脈動が治まるのを待ってから、私は古文書を棚に戻した。燐光の残像はまだ網膜の裏に漂い、ページを繰った指先には微かな熱が残っている。まるで別の生き物に触れた後のようだった。

書庫の最奥、最も埃の積もった一角に、黒檀の飾り箱が置かれている。母の遺品。父が「見るのも辛い」と言って地下に下ろしたまま、七年間誰も触れていない箱だった。

私自身、幾度となく開けようとしては、蝋燭の火を吹き消すように怯えて退いてきた。母の筆跡を目にすれば、封印の内側で眠る力がどう反応するか分からなかったからだ。

けれど今夜は違う。

先刻の燐光。腕輪の脈動。そして建国祭を前にした胸の奥の騒めき——すべてが私を、この箱の前に立たせていた。

「お嬢様」

階段の上からベルタの声が落ちてくる。夜更けだというのに、まだ降りてこない。

「先にお休みになって。鍵は私が閉めます」

「……かしこまりました。夜露がございます、肩掛けだけでも」

「ええ」

足音が遠ざかる。石段を上がる靴音が屋敷の廊下へ消えていくと、書庫はふたたび沈黙に沈んだ。蝋燭の芯が微かに爆ぜる。

飾り箱の錠前に指先で触れた。真鍮の金具はとうに黒ずみ、鍵穴の縁に緑青が浮いている。鍵は母が封印術を施したあの日、私の小さな指に握らせたものだ。七年間、私はその存在を寝台の裏に押しやり、忘れた振りで暮らしてきた。

きぃ、と乾いた蝶番が鳴る。

中には、母の形見がわずかばかり収まっていた。押し花の栞、銀の指貫、色褪せたリボン。そして一番底に、革表紙の小さな手記が沈んでいる。

手記は驚くほど軽かった。表紙は濃い青、角は擦れて白くなっている。母がいつも書斎の抽斗に仕舞い、私が近づくと決まって閉じた、あの手記だ。革の表面をそっと撫でると、指の腹に微かな凹凸が伝わった。長年の指圧で擦り切れた跡——母がどれほど繰り返しこの手記を開いては閉じ、悩みながら筆を走らせていたのかが、その感触だけで分かった気がした。

膝に載せ、ゆっくり開く。

冒頭の数ページは、季節の覚書のようだった。ラベンダーの乾燥の時期、庭師への指示、薬草の配合比率。整った細い文字が、一定のリズムで並んでいる。葉陰を渡る風のような筆跡——私の記憶の中の母そのものだった。

ページを進めるうちに、筆致が変わる。

『陛下の勅許にて、第七書庫の封鎖が決定。始原体系の収蔵本は王都より遠ざけられる』

『辺境の古い氏族より聖堂枢機に反意の噂。グラーティアの血脈にもまた、その素因ありと申す者あり』

『夫は政に没する。子らの行く末を、私一人が背負わねばならぬ日が近いのかもしれない』

指先が冷えた。膝の上の手記が、急に鉛のように重くなる。

これは日常の覚書ではない。母は、何かを記録していたのだ。自分の身に何かが起きたときに、娘が辿れるように。

さらにページを繰る。兄の名前が現れる。『レオ、高熱。薬師は流行り病と断ず。されど私は疑う』——三年前、兄は原因不明の熱病で息を引き取った。母の筆跡はそのあたりから、明らかに震えている。

そして、ある一行で私の呼吸が止まった。

『この子の魔力を、世に知られてはならない』

インクが滲んでいる。筆を走らせる途中で手が止まり、しずくが落ちたのだ。続く文字は、それまでの母の字とは別人のように乱れていた。

『測れば即ち標的となろう。顕れれば即ち道具とされよう。始原の血は、聖堂にとって贄、王家にとって兵器、貴族にとって切り札。この子は七つ。私が守れるのは、あと幾年』

『封じる。この腕輪に、私の命ごと封じる。鍵を残せば疑われる。ゆえに鍵は、この子自身に』

胸の奥が、ひゅっと細くなる音を立てた。喉の奥が痺れ、舌の根に鉄の味が広がる。

私は無意識に左手首を右手で押さえていた。腕輪の銀は、蝋燭の光を弾いて仄かに揺れる。母はこれに、命ごと封じたのだ。私を守るために。そのすべてを、私は七年間、単なる「魔力の抑制具」だとしか知らされずに過ごしていた。知らされないまま、鏡の前でこの腕輪を厭い、舞踏会のたびに袖で隠し、時には外してしまいたいと願ったことさえあった。——知らなかったとはいえ、私は母の命そのものを、何度疎んじかけただろう。

『夫には告げぬ。告げれば必ず、娘を盾にする日が来る』

父の、無関心な横顔が浮かぶ。昼の茶会で「欠陥品」と囁かれても、父は一度も庇ってくれなかった。娘の魔力測定の結果に落胆すら見せず、ただ書類の山に顔を伏せて仕事に戻った人。あれは薄情だったのではない。母が、父にすら伏せていたのだ。

扇の骨が軋むような音がした。——違う。私の爪が、革表紙に食い込んだ音だった。

ページを繰る手が、ひとりでに止まる。

そこから先の文字を読むのが怖かった。怖かったが、読まねばならない。私は深く息を吸い、肺の底まで古い紙の匂いを満たした。黴と、乾いた薔薇と、かすかな香油——母の寝室に漂っていた匂いと、同じ系譜の香りだった。

幼い頃の記憶が、燐光の尾を引いて蘇る。

十二歳の冬。母の寝室の暖炉は薪を惜しまず焚かれ、それでも母の指先は紙のように冷たかった。病床に臥した母は、痩せた手で私の左手首を握っていた。枕元には、見たこともない文様の描かれた羊皮紙と、銀の細工を施した一本の腕輪。

『リゼル。手を貸して』

母の声は掠れていた。けれど眼差しだけは、熱を帯びた琥珀のように澄んでいた。

私は何も分からないまま、小さな手首を差し出した。母の指が銀の腕輪をはめ、その上から羊皮紙を押し当てる。途端、腕輪が薔薇の棘のように鋭く熱を持ち、皮膚の下で何かが締め上げられる感覚があった。息ができない。目の奥が白く明滅する。耳の奥で、遠い鐘の音に似た高い音が鳴り、骨の髄まで冷たい糸で縫い上げられていくようだった。

『痛いね。ごめんね。——もう少しだけ』

母の瞳から涙が落ちる。それは私の手首の腕輪の上に落ち、銀の表面をふるりと波立たせた。

『リゼル、よくお聞き。この力は、あなたを愛する者の手で解かれるためのもの。世のためにも、国のためにも、父さまのためにも、解いてはいけない。——本当に守りたいものが見つかったときだけ、そのときだけ、この腕輪はあなたの声を聞くわ』

『母様、痛い……痛いよ……』

『ごめんね。ごめんね、リゼル』

母の唇が私の額に触れた。そこから温度が伝わり、体の芯まで染みた。乾いた唇の感触と、微かに香った蜜蝋の軟膏。——それが、母から最後に受け取ったぬくもりだった。私はしゃくり上げながら、それでも頷いた。母が笑ってくれたから。涙の滲んだ、震える微笑みを。

母はその夜から三日後に逝った。死因は「長年の心労」と医師は記した。私は信じなかった。そして——信じなかったことすら、七年間、誰にも言えなかった。

手記の文字が、滲む。私の目から落ちた雫が、インクを溶かしかけている。慌てて顔を上げ、袖で拭った。こんなところで、母の残した証を台無しにするわけにはいかない。

ベルタの表情が浮かぶ。今日の茶会で握り締められていた、あの白い指先。父の背中、兄の墓石、エルヴィンの冷たい視線、ミレーユの計算された微笑み。

守りたいもの。

まだ、分からない。けれど——分からないのではなく、私はずっと、見ないふりをしていたのかもしれない。

震える指で、さらにページを繰る。母の筆は最後に向かうほど短く、途切れがちになっていく。『枢機の手が近い』『夫に感づかれぬよう、これは地下に』『レオのこと、あれは偶然では』——。

そして、最後の一枚。

私の指は、虚空を掴んだ。

ページがない。

正確には、一枚分が鋭く毟り取られていた。綴じ糸に沿って縦に裂かれた痕跡。刃物ではない。指先で、引きちぎるように。紙の繊維が、綴じの内側で白い髭のように残っている。断面に指を這わせると、わずかに波打っていた。焦って、怒りに任せて掴み取った者の痕——それが、触れるだけで伝わってきた。

母の筆跡ではありえなかった。母は紙を破るような人ではない。葉書一枚すら丁寧に畳んで仕舞う人だった。

誰かが、この手記から最後の一枚だけを抜いた。

黴と蝋の匂いに混じって、微かに、別の香りを嗅ぎ取った気がした。——古い煙草。父の書斎で焚かれる、あの琥珀色の葉の香り。

左手首の腕輪が、とん、と一度だけ脈を打った。

今度は、同意ではない。警告のように。

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