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欠陥令嬢の始原魔導

第1話 第1話

第1話

第1話

「欠陥品が参りましたわ」——誰かの囁きが、薔薇の香る東棟テラスを滑った。

聞こえていないふりは、もう七年も続けている。グラーティア公爵家の長女として社交の席に立つ以上、背筋を伸ばし、銀食器の並びに目を落とし、紅茶の温度だけを気にしているような顔をする。それが私、リゼルティーナ・フォン・グラーティアに許された唯一の処世術だった。

春の陽光が白磁のカップに反射する。レモンバームの茶葉がふわりと鼻腔をくすぐったが、味覚はとうに麻痺していた。舌の上に広がるのは苦味ばかりで、茶葉の銘柄すら判別できない。七年間、どんな茶会でもそうだった。美味しいと感じたことは一度もない。

「ねえ、聞いた? 今年の魔力測定でも数値が出なかったそうよ」

「公爵家の血筋でゼロなんて、前例がないらしいわ」

「可哀想に。殿下もお気の毒ですこと」

扇の陰に隠した唇が弧を描くのが、視界の端に映る。ブレンハイム伯爵令嬢とその取り巻きだ。声量を落としているつもりらしいが、テラスの音響はよく通る。聞かせるために言っているのだから、当然だろう。

私は紅茶を一口含んだ。温い。

そのとき、庭園の奥から笑い声が弾けた。華やかで、春の日差しによく似合う声。

聖女候補ミレーユ・ラ・フォンテーヌ。蜂蜜色の巻き毛を風に遊ばせ、白百合を思わせる笑顔で——私の婚約者の腕に、ごく自然に手を添えていた。

第二王子エルヴィン・ラ・クレスティア。王家の次男でありながら文武に秀で、宮廷でも人望が厚い。そして、私の婚約者であるということ以外、私との接点をすべて断ち切った人。

二人はテラスの前を通り過ぎた。エルヴィンの視線が一瞬だけ私を捉え、何の感情も載せずに逸れる。空気を見る目。石ころを避けるほどの注意すら、払う価値がないという目。

テラスの空気が変わった。令嬢たちが扇の陰で目配せを交わし、使用人たちがわざとらしく視線を逸らす。哀れみと嘲りが入り混じった沈黙が、春風よりもはっきりと肌に触れた。私はカップの縁に指を添えたまま、その沈黙が通り過ぎるのを待った。

「——ミレーユ、あちらの噴水を見に行こう。水の精霊術を見せてくれないか」

「まあ、殿下ったら。こんな大勢の前で」

ミレーユが頬を染め、控えめに微笑む。完璧な所作だった。聖女候補としての気品、親しみやすさ、そして無自覚を装った残酷さ。私の目の前で婚約者と腕を組み、それが当然であるかのように振る舞う——そのすべてが計算されていることを、私は知っている。

知っていて、何もしない。

紅茶を置き、私は静かに席を立った。誰も引き留めなかった。

馬車の窓から王都の街並みが流れていく。煉瓦造りの商館、魔導灯の連なる大通り、教会の尖塔。すべてが夕暮れの琥珀色に染まっていた。

「お嬢様」

向かいの席で、使用人のベルタが口を開いた。四十を過ぎた彼女の顔には、いつもの穏やかさの下に怒りが滲んでいる。母が存命だった頃から仕えてくれている、この屋敷でただ一人、私の本当の姿を知る人。

「今日の茶会、無理にお出になることは——」

「公爵家の名代として出席しなければ、父上の立場が悪くなるわ」

「ですが——」

「ベルタ」

私は窓の外に目を向けたまま言った。

「あの人たちが何を囁こうと、私には聞こえていないの。だから、あなたも聞こえなかったことにして」

嘘だ。全部聞こえている。一言一句、骨の髄まで。

けれど怒りに任せて声を荒げれば、七年間守り続けてきたものが崩れる。母が命と引き換えに施してくれた封印が、私の感情の波に呼応して軋むのを、左手首の腕輪越しに感じていた。

馬車が石畳の継ぎ目を越えるたび、小さな振動が座席を伝う。ベルタはそれ以上何も言わなかった。ただ膝の上で組んだ両手の指先が白くなるほど握り締められているのを、私は見ないふりをした。怒ってくれる人がいる。それだけで十分だった。

屋敷に戻ると、私は夕食の席にも着かず、書斎を通り抜けて奥の階段を降りた。

地下書庫。

グラーティア公爵家が五百年にわたって蒐集した魔導書の山。公式には「閲覧禁止の旧蔵書庫」とされているが、鍵を持っているのは私だけだ。父は魔法に関心がなく、兄は三年前に病で亡くなった。この書庫の存在を覚えている人間は、もう屋敷にほとんどいない。

石段を降りるにつれ、空気が変わる。地上の薔薇の甘い匂いは消え、古い羊皮紙と蝋と微かな黴の匂いが鼻腔を満たした。この匂いを嗅ぐと、不思議と呼吸が楽になる。社交の席で纏っていた見えない鎧が、一段ごとに剥がれ落ちていくようだった。

燭台に火を灯す。——正確には、灯すふりをする。私の指先から漏れた微かな魔力が芯に触れ、炎が生まれた。封印の隙間から零れる程度の、針の穴ほどの力。それでも蝋燭一本には十分だった。

「さて」

革張りの椅子に腰を下ろし、昨夜の続きを開く。『始原魔導体系・断章』。著者不明、年代不明。王国の正史には記録されていない術式理論が、褪せた羊皮紙にびっしりと記されている。

通常の魔法体系では、魔力は「属性」に分類される。火、水、風、土、光、闇。六属性のいずれかに適性を持ち、その枠内で術式を構築する。宮廷魔導士団の魔法も、ミレーユの聖魔法も、すべてこの六属性理論に基づいている。

だが、この古文書は違う。

属性以前の、魔力そのものの根源的な流れ。世界に満ちる力の本流に直接触れる技術。失われたとされる、いや、意図的に封じられた体系。

ページを繰る指先が、微かに震えた。

——光った。

古文書の文字列が、淡い燐光を放っている。私の指が触れた箇所だけ、インクが生きているかのように脈打ち、空気中に術式の残像を浮かべた。

息を呑む。こんなことは初めてだった。

燐光は青白く、蝋燭の橙とは明らかに異質だった。浮かび上がった術式の残像が空中でゆっくりと回転し、見たこともない幾何学模様を描いている。六属性のどれとも違う、もっと根源的な——世界の骨格そのもののような紋様。

封印越しの、ほんの僅かな魔力の漏出。それだけで古代の術式が反応している。この文書は、特定の資質を持つ者にしか読めない仕組みになっているのだ。

そして、それに応じた私の魔力は——。

左手首の腕輪が熱を持った。封印が軋む。押し込められた力が、まるで呼応するように内側から脈打つ。

「……静かに」

自分の手首に囁きかけるように、私は封印を押さえた。

まだ、駄目。まだ、この力を世に出すときではない。

母の声が耳の奥で響く。幼い日、高熱に浮かされながら私の手首に封印を刻んだ、あの震える声。

『見せてはいけないよ、リゼル。この力を——本当に守りたいものが見つかるまで、決して』

守りたいもの。

私にはまだ、それが分からない。公爵家の名誉か。父の体面か。亡き母の遺志か。そのどれもが正しいようで、どれも違うような気がしていた。

ただ一つ確かなのは、力がないから従っているのではないということ。

見せる相手を、まだ見つけていないだけだ。

古文書の燐光がゆっくりと消えていく。けれど術式の構造は、網膜に焼きついたように鮮明に残っていた。私は羽根ペンを取り、手元の革ノートに書き写し始める。一画一画、正確に。地下書庫の沈黙の中、ペン先が羊皮紙を掻く音だけが響いた。

階段の上で、ベルタが静かに佇んでいた。

「お嬢様。夜が更けます」

「もう少しだけ」

「……いつも、そうおっしゃいますね」

微かな溜息。けれどベルタは降りてこない。この距離が、彼女なりの敬意だと知っている。

「ベルタ」

「はい」

「建国祭の舞踏会、出席の返書はもう出した?」

沈黙が落ちた。ベルタの表情が強張るのが、燭台の明かりでも分かった。

「……まだ、です。お嬢様がお出になるおつもりなら」

「出るわ。公爵家として」

「殿下は——お嬢様に来るなと」

「ええ、知っているわ」

立ち上がり、古文書をそっと閉じた。指先にまだ、燐光の余韻が残っている。

「でもね、ベルタ。舞踏会には出る。何が起きても——いいえ。何かが起きると、分かっているから」

左手首の腕輪が、とん、と一度だけ脈打った。

まるで同意するように。

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