第3話
第3話
書架の奥にしまった羊皮紙の束が、胸元で熱を持っている。その熱のまま、私は扉のほうを振り返った。
扉を押し開いて入ってきたのは、若草色のドレスの裾だった。
「失礼いたします、リーゼロッテお姉様」
アネット・ブリュムの声は、鈴を転がすように無邪気だった。金糸の髪を編み込んだ彼女は、敷居の手前で膝を軽く曲げる。正式な礼の型。けれど視線の角度は、既に対等の格を宣言していた。
「朝早くから、どうなさいましたの」
「お邸の薔薇があまりに見事と聞き及びまして。公爵様にお願いし、ひと枝頂戴いたしましたの。殿下の執務室にお飾りするのです」
ひと枝。公爵邸の白薔薇を、男爵令嬢が、我が父の手ずから。頬の内側を、舌の先で静かに噛む。
「それで、書庫に?」
「道に迷ってしまって。お姉様は、本をお読みになるのですね」
碧い瞳が、私の胸の布の皺を見ていた。皺の奥の羊皮紙を、この娘は知らずとも、疑っている。そういう目だった。
「退屈しのぎの詩集ですわ」
「三日後の王宮舞踏会、ご一緒できますのを、楽しみにしておりますわね」
三日後。王宮舞踏会——聞いていない。
アネットは優雅に礼をして背を向けた。若草色の裾が扉の向こうに消えてから、ヴァルターが古い書架の影で小さく呻いた。
「……お嬢様。あの娘、魔素の気配を読めまする」
「わかっています」
私は羊皮紙を握りしめたまま、窓辺に戻った。アネットは庭を抜け、ひと枝の白薔薇を手に、王家の馬車へ乗り込んでいく。その薔薇は、今朝まで私の寝室の窓辺から見えていた、一番大きく咲いた一輪だった。
三日の間、父は一度も私を食卓に呼ばなかった。マリーの報告では、父は三日のうちに王都の貴族館を三軒、個別に訪問している。帰宅は深夜二時。玄関の大時計が鐘を二つ打つ頃に、鉄の指輪を銀盆に落とす乾いた音だけが、階上の私の寝室まで届いた。
三日目の夕刻、王宮の馬車が迎えに来た。父の馬車ではない。王宮の紋章を押した車体。御者台に座るのは、我が家の従者ではなかった。
「……お父上は」
「先にご出立なさいました」
従者は、私と目を合わせなかった。
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王宮の大広間は、前回の晩餐会の比ではなかった。大回廊は数百の貴族で埋め尽くされ、金の羽根飾り、銀の刺繍、硝子玉の首飾りが、千の蝋燭の光を跳ね返していた。
私の深紅のドレスだけが、その光に沈んでいた。マリーが夜明けまで磨き上げた水晶の耳飾りも、誰の視線にも留まらない。いや、留まらないのではない。誰もが一度は私を見て、そして素早く逸らす。扇で口元を隠し、隣の者と何事かを囁き合う。すでに何かが、私の知らぬところで始まっていた。
これは観客だ。私は、演目の一部として呼ばれている。
ホールの中央で、シュタール伯爵令嬢が私に気づき、扇を閉じた。
「あら、リーゼロッテ様。本日はその、深紅の装いで?」
「ええ」
「王太子殿下のお色は、確か青ではございませんでしたかしら」
くすりと笑い声が周囲から漏れる。私は微笑を返し、歩み続けた。
高砂の手前、大階段の踊り場に、父の姿があった。ライナルト・ヴァイスフェルト公爵は、宰相たちと並んで、王家の直臣の列に立っている。私と目を合わせない。合わせないどころか、私の入場そのものに気づかぬ風を装っていた。父の左手薬指、いつもの鉄の指輪は、銀の手袋の下で光を返さない。
——父上。
呼びかけを、喉の奥で飲み込む。
楽団が新しい曲を始めようとした、まさにその瞬間だった。
大階段の上から、銀の剣帯を締めた王太子エルヴィンが、アネット・ブリュムの手を取って降りてきた。
広間が、しんと静まり返った。楽団が演奏を止めた。千の蝋燭の芯が、ひとしきり揺れた。
「諸卿に告ぐ」
エルヴィンの声は、よく通った。
「本日、この場において、余はヴァイスフェルト公爵令嬢リーゼロッテとの婚約を、正式に破棄する」
ざわめきが、波のように広間を走り抜けた。驚きの波ではなかった。確認の波だった。皆、すでに知っていた。私だけが、この場で初めて告げられた。
私は表情を動かさなかった。動かさない訓練を、八年間してきた。
「ここに在るアネット・ブリュム男爵令嬢は、聖女候補として既に神殿の認定を受けている。余は、アネット嬢を、新たなる王太子妃候補として諸卿に紹介する」
アネットが、練習済みの礼を披露した。金糸の髪が揺れる。拍手が、まばらに起こった。
「ならばリーゼロッテ、貴殿に問う」
エルヴィンの碧い瞳が、初めて真っすぐに私を捉えた。情も、憎しみすらなかった。あるのは、ただの、執行だった。
「魔力ゼロの身で、王太子妃の務めが果たせると、今でも思っているか?」
答えを求めている問いではない。答えさせるために、投げられた問いだった。沈黙すれば肯定、弁明すれば見苦しい、頷けば自認の汚名。三手詰めだった。
私は扇を、胸の前で静かに閉じた。扇の骨が、乾いた音を立てる。
「——殿下のお心のままに」
「そうか」
エルヴィンは片方の唇だけを歪めた。
「ならば明言する。余は貴殿を——魔力ゼロの恥さらしを、王家の近くに置かぬ」
広間の息が、止まった。
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恥さらし。
公衆の面前で、一国の王太子が、公爵家の次期当主に向けて使う言葉ではなかった。使えば、それは婚約破棄を超える。家の格そのものへの挑戦になる。
私は父を見た。踊り場の父を。
父は——目を逸らさなかった。踊り場の手摺に片手を置き、銀の手袋のまま、ただ立っていた。抗弁もせず、瞬きもせず、石像のように。
その石像が、ゆっくりと、一度だけ頷いた。
「ヴァイスフェルト公爵」
エルヴィンの声が、今度は高く響いた。
「御息女は王家の面子を、幾度も汚している。余は貴家の名誉を慮り、御息女の王都追放を、本夜を以て奏請する」
父が、膝をついた。ヴァイスフェルト公爵の膝が、王太子の足下で、床に触れた。ただ、膝をついた。
父は、最後まで、何も言わなかった。
広間がざわめいた。今度こそ、本物のざわめきだった。貴族たちも、この沈黙の異様さを感じ取っている。公爵が娘の名誉のために、ひと言の抗弁もしない。いくらなんでも、これは——
膝の下で、石床が微かに震えた気がした。気のせいではない。私の左手首、封印の奥で、何かが身じろぎした。第三層のさらに内側——ヴァルターの計器でも映らぬ深み。海のような魔力が、父のその沈黙に応えて、脈を打った。
拒絶ではない。解放の脈だった。
——父上は、私を売ったのではない。
王宮の監視下で、共鳴式の痕跡を暴かれれば、公爵家ごと粛清される。アネットが書庫の羊皮紙を嗅ぎつけた時点で、この家の時間は尽きていた。父は三日間、王都の貴族館を三軒回った。宰相たちに根回しを終え、王太子に「追放」という最小の損失で、決着させる道筋を引いた。
追放先は、言わずとも知れている。ヴァイスフェルトの本領——王都から十二日、北の辺境。父が私を八歳から物理的に隔離してきた、あの土地。ヴァルターが今も静かに住んでいる土地。
父が、顔を上げた。ほんの一瞬、私と目が合った。
左手薬指の銀の手袋が、一度、こちらに向けて傾けられた。鉄の指輪を示す合図。
——封印は、そこでなら、解いてよい。
そう、父は言っていた。八年ぶりに、初めて、私と父の間を越えてきた言葉だった。
私は扇を腰の位置に下ろし、王太子に向けて、正式な礼をした。
「殿下、仰せ、有難く存じます。王都の空気は、今の私には、些か眩しゅうございましたゆえ」
エルヴィンの表情が、一瞬、揺れた。——怒りに頬を紅潮させ、涙ながらに反論すると、彼は思っていたのだろう。あるいは気を失い、あるいは叫び出すと。その筋書きを、アネットと練り上げてきたはずだった。
だが私は、礼をして、微笑んだ。
「諸卿に於かれましては、末長く王太子殿下とアネット様のご多幸を、お祈り申し上げます」
広間の貴族たちが、誰も、扇を動かさなくなった。
アネットの碧い瞳が、初めて、揺らいだ。金糸の髪の一房が、彼女自身の震えで、ほんの僅かに乱れた。
私は、背を向けた。踵を返す動作は、八年間の舞踏訓練で、何度も反復した所作だ。深紅の裾が、音もなく、床を撫でた。
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大階段を降りきる手前で、広間の扉が開き、夜気が流れ込んできた。十月の王都の夜気が、深紅のドレスの襟首から、背骨を滑り落ちていく。
肌が、粟立った。
けれど、その粟立ちは、寒さからではなかった。
指先に熱が戻ってきていた。三日前、書庫で共鳴式の残滓に焼かれた、あの熱だ。封印の第三層の内側で、海がもう一度、脈を打った。今度は、先ほどより、大きく。
扉の外、王家の旗ではない旗章を掲げた馬車が一台、すでに私を待っていた。黒い車体、車輪には鉄の補強。辺境守備隊の徽章。
御者は若く、顔の半分を面覆いで隠していた。私が近づくと、彼は静かに頭を下げる。面覆いの下で、唇だけが動いた。
「——ヴァイスフェルト卿より、仰せつかっております。北方グランツェンの守備隊まで、道中、魔獣領域を六日ほど通過いたします。護衛は、三名にございます」
私は、黒い鉄の取手に手をかけた。取手が、指先の熱に応えて、微かに震えた。
——王都の舞台から、降りる。
馬車の扉が閉まる瞬間、王宮の大広間の方角で、アネットの甲高い笑い声が、ひと声だけ、夜気を突いて届いた。
その笑いを、私は記憶に刻んだ。鉄の指輪の重みより、深く。