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魔力ゼロの烙印を脱ぎ捨てて

第2話 第2話

第2話

第2話

最後の蝋燭が芯まで尽き、地下書庫が完全な闇に沈んだ。私は息を殺したまま、自分の心音を数える。一、二、三——三十まで数えても、扉の外で再び足音が立つことはなかった。

指先の熱が引かない。共鳴の残滓が、皮膚の表層をちりちりと焼いている。立ち上がろうとして、足が痺れていることに気づいた。膝を曲げ、痺れが波になって戻ってくるのを待つ。冷えた石床の冷気が薄絹のドレスを通して脛に上がってくる。

螺旋階段を一段ずつ昇り、私は途中で手摺を握って立ち止まった。鉄の冷たさが掌に染みる。鉄。父が八歳の私から取り上げた魔導書の代わりに、この邸の至るところに仕込んだ素材だ。手摺も、寝室の枕の芯も、床下の梁も、ことごとく鉄で補強されている。鉄は魔力の流れを乱すと父は信じている。封印を二重にも三重にもしておきたいのだ。

廊下に出ると、夜明け前の薄闇に、マリーが燭台を持って立っていた。栗色の三つ編みが揺れる。

「お嬢様。ご無事で——いえ、無事に決まっておりますわね。失礼しました」

「マリー、先ほど書庫の前を通った者がいる。革靴の足音だった」

マリーの肩が、小さく強張った。彼女は燭台を傾けた手のまま、唇を引き結ぶ。

「……ヘルマン執事ではないかと」

「あの方は右足から踏む癖があるわ。違う」

「では——」

「父か、父の遣い。今は問わずにおきましょう」

口に出してしまえば、案外、声は震えなかった。震えさせない、と決めている。八年間の習慣がここでも私を守る。私はマリーの差し出す肩掛けを羽織り、自室への長い廊下を歩き始めた。

朝の身支度を整え、淡い水色のドレスをまとった。袖口のレースには嘲笑の跡が縫い込まれている。昨夜の晩餐会で、シュタール伯爵令嬢が扇の先で示した「お地味ですこと」の部分だ。マリーが洗いアイロンをかけ直しても、刺繍の糸目に染みた視線は落ちない。

朝食は父との食卓だった。長い卓の端と端、十二脚の椅子を挟んで対峙する。父・ライナルト・ヴァイスフェルト公爵は新聞を広げたまま、私の入室にも顔を上げなかった。

「父上、おはようございます」

「ああ」

それだけだった。

紅茶のカップを口に運ぶ手が、ほんの僅かに震える。父の左手薬指に嵌まった鉄の指輪が、銀器に当たって小さく鳴った。——昨夜、書庫の前を歩いたのは、この方なのか。問い詰めることはできない。父が私に封印を施したあの日以来、私と父の間には、魔力という言葉ひとつ立ち入らない不文律ができている。

「来月の視察、王太子殿下から外されたそうだな」

「はい」

「結構なことだ」

新聞のページが捲られた。会話は終わった。父はパンの耳をフォークの背で千切り、卓の上の銀皿に捨てる。私はその仕草を視界の端で記憶した。父の何気ない動作の癖を、私は幼少から数え続けている。いつか、それが私を守る情報になる日が来ると思って。

朝食を半分残して食堂を出た。階段の踊り場で、マリーが息を切らして駆け寄る。

「お嬢様、ヴァルター様がお見えです」

「——書庫に通しなさい。すぐ参ります」

老魔導士ヴァルターが領地から王都の邸を訪れるのは、数ヶ月に一度のことだ。父からの正式な呼び出しがなければ、彼は領地の東屋——私が幼少を過ごした古い別棟の管理人として、ひっそり生きている。手紙を出して三日。早すぎる。

書庫の扉を開けると、皺だらけの小柄な老人が、書架の前で背を丸めていた。羊毛の外套に旅の埃が積もり、足元の長靴は土と苔に汚れている。馬車を使わず、街道脇を歩いてきたのだ。誰の目にも触れぬように。

「ヴァルター」

「リーゼロッテ様」

老魔導士は振り返り、深々と頭を下げた。落ち窪んだ眼窩の奥で、青灰色の瞳が私を捉える。

「手紙では、足りぬと判断いたしました」

ヴァルターは外套の懐から、革で包まれた小さな計器を取り出した。掌に収まるほどの真鍮の盤面に、八本の細い針が放射状に並んでいる。八歳のあの日、父が彼に作らせた魔力封印の観測器だ。針はそれぞれ、封印の五つの層と、外殻の補強三層に対応している。

「腕を、お貸しくださいませ」

私は袖を捲り、左手を差し出した。ヴァルターの節くれだった指が、私の手首に計器を当てる。

八本の針が、同時に大きく振れた。

「……これは」

老魔導士の口から、ひと息、声にならない呼吸が漏れた。彼は計器を外し、軽く振り、もう一度私の手首に押し当てる。針はやはり、振り切れた位置で震えていた。

「リーゼロッテ様、最後の観測から、何か変わったことを?」

「昨夜、共鳴式を試しました。古代魔導書の第七節、魔素との位相干渉を」

ヴァルターの頬が、皺の隙間で青ざめた。彼は計器を懐に戻し、書架の縁に手をついて体を支える。

「……封印の第三層が、すでに砕けております」

「第三層」

「お父上が八歳のお嬢様に施した封印は、五層構造でございました。最も外側の第五層と第四層は、十三歳の時点で自然に磨耗しておった。しかし第三層は——本来、あと一年は保つはずでした」

私は自分の左手首を見下ろした。皮膚の下、いつもの脈動が今は大きく、不規則に波打っている。耳を澄ますと、その鼓動は心臓のリズムと微かにずれていた。私の中に、私とは別の脈を打つ何かがある。

「共鳴式が、封印を加速させた、ということですか」

「いいえ」

ヴァルターは首を横に振った。

「逆でございます。封印が緩んだ隙間から漏れる魔力が、共鳴式に応えてしまった。お嬢様の本来の魔力は——共鳴を起こせるだけの量を、封印の奥に蓄えております。漏れ出るのは、あくまで器からこぼれた一滴。けれど一滴が魔素と共鳴した瞬間、器の中の海が呼応して揺れたのでございます」

——量。

ゼロのはずの私の魔力が、量で勝負ができる、と、この老人は言った。

ヴァルターは書架の縁から手を離し、深く息を吐いた。長旅の疲労が、皺の中に一気に滲み出る。

「お父上の封印は、あと二年保つと、私は見立てておりました。しかし第三層がこの状態では——」

「あと、どれほど」

「半年。長くて半年でございます」

書庫の空気が、急に重さを増した気がした。蝋燭の代わりに高窓から差し込む朝の光が、書架の埃を金色に染めている。その光の粒子が、やけにゆっくりと落ちてきた。

「そして、お嬢様」

ヴァルターは私の目をまっすぐに見た。落ち窪んだ瞳の奥に、初めて見る色があった。恐怖でも哀れみでもない。何か——確信に似た色。

「これ以上、共鳴式を試してはなりませぬ。一度試すごとに、封印の崩壊が早まります。そして崩壊の瞬間に解放される魔力は——」

「——八歳の暴走の比ではない」

「左様でございます」

私は左手首を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みがあった。痛みがあるということは、まだこの体は私のものだ。指先の熱がまだ消えていない。あの一瞬、空気が震え、書架の埃が舞い上がった感覚——それを「もう一度試すな」と、この老人は言う。

「ヴァルター。基礎制御理論は、半年で習得できますか」

「……間に合うかどうか」

「間に合わせる以外、選択肢はないのですね」

「左様でございます」

老魔導士は深く頭を下げた。

私は窓辺に歩み寄り、朝の庭園を見下ろした。噴水の縁で、庭師が水撒きをしている。その向こうの薔薇園で、誰かが朝の散歩をしていた。揺れる金糸の髪。淡い若草色のドレス。

——アネット・ブリュム。

聖女候補が、なぜ我が公爵邸の庭にいるのか。

私の指が、窓の硝子に触れた。冷たいはずのそれが、指先の熱を吸って白く曇る。

「マリー」

背後に控えていた侍女を呼んだ。

「アネット様が、なぜ我が家の庭に」

マリーが青ざめた。

「申し訳ございません。今朝早く、王太子殿下のお遣いとして——大旦那様への面会を申し入れて来られたとのことで。すでに小書斎で、二人きりでお話を」

「父との、面会」

「はい」

私は硝子から指を離した。曇りが、ゆっくりと消えていく。

庭園のアネットが、ふと顔を上げた。視線は薔薇から上がり、邸の二階——ちょうど書庫の窓へと向けられる。距離があるはずなのに、その碧い瞳が私を捉えた、と確かに感じた。

彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。柔らかな、けれど確かな勝者の微笑。

「……ヴァルター」

「は」

「半年も、いらぬかもしれませんね」

老魔導士が息を呑む音がした。

私は窓辺を離れ、書架の奥に隠した羊皮紙の束を取り出した。共鳴式の理論が記された頁を、指でなぞる。

「もう一度、共鳴式を試します」

「お嬢様!」

「封印の崩壊を待つ側ではなく、迎え撃つ側に回ります。半年が三月になろうと、三月が一月になろうと——あの方が我が家に踏み込んでくる前に、私は私の力を、私の意志で握る」

書庫の扉の向こう、廊下の奥から、再び革靴の足音が聞こえた。

今度は、足音は止まらない。一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。父のものでも、執事のものでもない、軽くて速い、女の踵の音。

私は羊皮紙を胸に抱き、扉のほうを振り返った。

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