第1話
第1話
銀の燭台が百本、天井から吊るされた大広間を照らしていた。その光の一つとして、私の味方ではない。
ヴァイスフェルト公爵家の次期当主——肩書きだけは立派だ。けれど今この瞬間、王宮の晩餐会で私に向けられる視線のすべてが、哀れみか、嘲りか、あるいはその両方を含んでいた。
「リーゼロッテ様、お加減でも? お顔の色が優れませんわ」
隣席のシュタール伯爵令嬢が、扇の陰から囁く。心配しているのではない。弱った獲物を確認しているだけだ。彼女の視線は私を通り越して、高砂の王太子の席へと流れていく。
「ご心配なく。少し灯りが眩しいだけですわ」
私は完璧な微笑を貼りつけたまま答えた。銀のフォークでローストされた雉の肉を切り分ける。手は震えていない。震えさせない。八年間、この仮面を外したことはないのだから。
高砂では、婚約者であるはずの王太子エルヴィンが、男爵令嬢アネット・ブリュムの杯にみずから葡萄酒を注いでいた。金糸の髪を揺らしてアネットが微笑む。エルヴィンの口元にも、私が一度も向けられたことのない柔らかな笑みが浮かんでいる。
——聖女候補。その称号がアネットに与えられたのは半年前のことだ。以来、エルヴィンは公務の場でさえ私を省みない。
「殿下は本日もアネット様とご一緒ですのね」
向かいの席で、誰かがわざと聞こえる声量で呟いた。くすくすと笑いが漣のように広がる。
私は雉の肉を口に運んだ。丁寧に咀嚼し、嚥下する。味はしない。もう随分と、宮廷の料理を美味いと感じたことがない。
晩餐の終わり際、エルヴィンが初めて私のほうを見た。正確には、私の方角を一瞥した。その碧い瞳には、婚約者への情愛など欠片もなかった。あるのは——面倒な義務を思い出した者の、億劫そうな倦怠だけ。
「リーゼロッテ。来月の視察には同行不要だ。アネット嬢に聖地巡礼の護衛を兼ねてもらう」
「——承知いたしました、殿下」
声は震えなかった。震えさせなかった。
広間を辞するとき、背後で誰かが言った。
「魔力ゼロの婚約者など、飾りにもなりませんわね」
銀の燭台の光が、長い廊下に私の影を細く伸ばした。その影だけが、私の拳が白くなるほど握り締められていることを知っていた。
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深夜。ヴァイスフェルト邸の地下書庫は、地上の華やかさとは別の世界だった。
黴と古い羊皮紙の匂いが鼻腔を満たす。蝋燭の炎が揺れるたびに、天井まで積み上げられた書架の影が生き物のように蠢く。父が「不要な蔵書」として王宮から引き取った魔導書の山——宮廷では失われたとされる理論体系が、埃を被ってここに眠っている。
私は羊皮紙の束を膝に広げ、震える指先に意識を集中させた。
封印の奥底、普段は沈黙している何かが微かに脈動する。父がこの身に施した封印術式。八歳のあの日、制御できなかった力が暴走し、屋敷の東翼を半壊させた。それ以来、私の魔力は「ゼロ」ということになっている。
だが完全なゼロではない。封印には綻びがある。針の穴ほどの隙間から、ほんの僅かな魔力が漏れ出す。それは常人の魔導士が扱う量の百分の一にも満たない。
けれど、その百分の一で十分だった。私が求めているのは力ではない。理論だ。
「……第七節、魔力循環の逆位相における干渉パターン」
声に出して読み上げる。古代語の文法は複雑だが、三年かけて独学した甲斐があった。魔力の本質は量ではなく、構造にある。それがこの書庫で私が辿り着いた結論だった。
指先に淡い光が灯る。魔力を糸のように細く紡ぎ、空中に術式の骨格を描く。光の線は頼りなく震えているが、理論通りの軌道を辿っている。
「お嬢様」
背後で控えめな声がした。振り返ると、幼馴染の侍女マリーが毛布と温かい茶を盆に載せて立っていた。栗色の髪を夜用の三つ編みにした彼女の顔には、心配の色が滲んでいる。
「もう鐘が三つ鳴りましたわ。明日も——」
「明日も晩餐会。わかっているわ、マリー」
私は術式を解き、指先の光を消した。マリーが差し出す茶を受け取る。生姜と蜂蜜の香りが、書庫の黴臭さを柔らかく押しのけた。
「……今夜の殿下のお振る舞い、お辛かったでしょう」
「慣れたわ」
嘘だ。慣れてなどいない。だが、痛みに慣れたふりをすることには長けた。
マリーが唇を噛む。この侍女だけが、幼い日の暴走を——そして、父の封印を知っている。もう一人、領地に残る老魔導士ヴァルターを除けば、世界で二人だけの共犯者だ。
「ヴァルター様からお手紙が届いております」
マリーが懐から封書を取り出した。蝋で封じられたそれを開くと、老魔導士の几帳面な筆跡が並んでいる。
——リーゼロッテ様。封印の観測を続けておりますが、第三層の劣化が想定より早い。あと二年、持つかどうか。暴走に備え、制御理論の習得を急がれたし。
二年。
手紙を膝の上に置き、天井を仰いだ。蝋燭の炎が揺れ、書架の影が大きく動く。
二年以内に、あの暴走を——八歳の私が半壊させた力を、今度は自分の意志で御さなければならない。さもなければ、封印が砕けた瞬間に同じことが起きる。次は屋敷の東翼では済まないだろう。
「マリー。明日から、この書庫に来る頻度を増やすわ」
「……お身体が心配です」
「身体の心配をしている余裕はないの。あと二年。それまでに、少なくとも基礎制御理論は完成させなければ」
マリーは何も言わず、私の肩に毛布をかけた。その温もりに、一瞬だけ目の奥が熱くなる。
——泣くな。泣いている暇があるなら、一行でも多く読め。
私は茶を一口啜り、再び羊皮紙に目を落とした。
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それから幾夜が過ぎただろう。晩餐会の嘲笑、エルヴィンの無関心、宮廷での孤立。昼の世界では何一つ変わらない。変わっているのは、深夜の地下書庫だけだった。
指先の光が、以前より安定している。魔力の糸はもう震えない。封印の綻びから漏れる僅かな力を、無駄なく、正確に編み上げる技術。量で劣るなら、精度で補う。それが私の戦い方だった。
古代の魔導書に記された「共鳴式」という概念に辿り着いたのは、三日前のことだ。術者の魔力と周囲の魔素を共鳴させることで、投入した魔力の数倍の出力を得る。理論上は——理論上は、だが——魔力量の制約を根本から覆す可能性がある。
今夜、初めてそれを試す。
蝋燭の炎を見つめ、呼吸を整えた。胸の奥で封印が低く唸る。いつもとは違う、こちらの意図に応えるような脈動。指先に魔力を集中させる。いつもの淡い光。だが今度は、その光を外へ放つのではなく、空気中に漂う魔素と同じ波長に合わせる。
共鳴。
指先の光が一瞬、強く瞬いた。周囲の空気が微かに震え、書架の上の埃が舞い上がる。蝋燭の炎が横に大きく靡いた。肌の表面を、見えない波が撫でていくのがわかる。空気そのものが私の魔力に呼応し、震えている。
——成功だ。ほんの一瞬、私の魔力が周囲の魔素を巻き込んで増幅した。漏れ出る百分の一の力が、一瞬だけ十分の一に跳ね上がった。
心臓が早鐘を打っている。興奮ではない。これは——希望だ。八年間、この胸の底に沈めてきた感情が、指先の光と一緒に浮かび上がってくる。
「魔力ゼロの出来損ない」。彼らが私に貼った烙印。それを覆す日が、いつか来る。封印が解ければ、この共鳴式と組み合わせることで——
いや。まだ先の話だ。今は理論を固めることに集中すべきだ。
再び羊皮紙に向き合おうとしたとき、地下書庫の空気が変わった。階上から微かに足音が聞こえる。マリーのものではない。もっと重い、革靴の足音。
私は素早く魔力の痕跡を消し、羊皮紙を棚の奥に滑り込ませた。蝋燭を一本だけ残して他を吹き消す。
足音は書庫の扉の前で止まり——そして、遠ざかっていった。
闇の中で、自分の呼吸だけが聞こえる。指先がまだ微かに熱を帯びていた。先ほどの共鳴の残滓だ。もし今の実験を見られていたら——魔力ゼロのはずの公爵令嬢が、地下で術式を組んでいたと知られたら。
誰だったのかはわからない。だが、この書庫の存在に気づいている者がいる。私の深夜の行動を探っている者がいる。
——時間がない。
ヴァルターの言葉が脳裏に蘇る。封印の寿命は、あと二年。
だがもしかすると、私に残された猶予は、それよりもずっと短いのかもしれない。
蝋燭の最後の一本が、じりじりと燃え尽きようとしていた。