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悪役令嬢は魔素を解析する

第3話 第3話

第3話

第3話

車輪が段差を越えるたびに、幌の骨組みが軋んだ。

乾いた藁の匂いに、羊毛の脂の匂いが重なり、その奥に微かな鉄錆の気配が混じる。積み荷の間に体を沈めて、私は自分の腿の上に置いた手を見つめていた。爪の間に、粗布の繊維がひっかかっている。公爵家の化粧台では、こんな繊維を指で挟んだ記憶など一度もない。絹と真珠粉しか知らなかった指先が、今朝から何度も麻袋の口紐を結び直している。

「——エルナ、次の関所が最後だ」

御者台から、老商人の押し殺した声が降りてきた。「エルナ」。三日前から使い始めた、私の新しい名前。商会の台帳には「ウェルフ商会、下働きの娘、十七歳、王都郊外出」と記されている。偽造身分証の墨はまだ乾き切らず、下端の隅に指で触れると薄く滲んだ。本物めかして汚す作業まで、南部の偽造職人はぬかりなく済ませている。

幌の隙間から覗いた空は、祖国側と同じ色のはずなのに、どうしてか一段白く見えた。国境の山脈を越えて三刻。馬の息遣いが、冷えた空気の中で白く昇る。

「お嬢さま、じゃなかった——エルナ。顔を隠せ」

慌てて頭巾を引き下ろす。身分を偽った瞬間から、リゼルヴァーナの発声を封じた。顎を引かず、語尾を伸ばさず、視線を少しだけ下に置く。平民の娘の姿勢を、前世の記憶の引き出しから引きずり出して継ぎ接ぎする。森村凛として生きていた二十八年間のほうが、今はむしろ使える資産だった。

関所の衛兵が幌を捲った。黒い制服、銀の徽章、そして腰の剣の拵えが祖国のものとまるで違う。柄頭に嵌められた魔石の光が、青ではなく——薄紫だった。

「荷は」

「羊毛と薬草でさあ、旦那。台帳ご覧に」

衛兵は私の顔を三秒だけ見た。扇の陰から男を見下ろしてきた十七年間、私は視線を受けることに慣れていた。けれど今、上から注がれる視線を下から受ける感触は、まるで違った。首筋が冷える。自分がどれほど、見られる側と見る側を勘違いしてきたかを知る。

徽章の刻印をちらりと見て、記憶に留める。六角形の中に、三本の光条。帝国の印だ。

「通れ」

幌が下りた瞬間、肺の底から息を吐いた。吐いた息が震えていることに、自分で驚く。指先を握り込むと、手のひらに爪が食い込むほど力が入っていた。

ヴェルザリア帝都ガルデンベルクは、祖国の王都とはまるで別の生き物だった。

石畳は一回り大きく、馬車の車輪が刻む溝が浅い。街路樹は白樺ではなく、葉の厚い常緑樹で、樹皮には魔力計測用らしい細い金線が螺旋に巻き付けてある。街路の要所に立つ石柱——祖国の街灯に当たるはずのものが、ここでは違っていた。

荷馬車を商会の倉庫で降り、「荷運びの確認」を口実に表へ出た瞬間、私は足を止めていた。

石柱の先端で、橙色の光が静かに灯っていた。祖国の魔灯石なら、光源は必ず青白い。魔鉱石の結晶格子から流れる魔力は、可視光に換算すれば短波長側——青に寄るからだ。前世の物理で言えば、バンドギャップが決まれば発光波長も決まる。そう、決まるはずだった。

「……橙色」

呟きが、冷えた空気に溶けた。

橙色ということは、波長が長い。つまり結晶のバンドギャップが狭い。ということは——魔素の結晶系が、祖国とそもそも違う。同じ「魔鉱石」という呼び名でくくられているだけで、物性が根底から異なる。

石柱に近づいて、指先で表面を撫でた。冷たい。けれど祖国の石柱のようなぴりりとした静電気めいた反発がない。魔力の流れが、表面ではなく内部を走っている。祖国の魔導技術は表面伝導型、帝国は体積伝導型——と、前世の半導体工学の言葉が勝手に頭の中で整列し始めた。指先に、鈍い熱が移ってくる。熱は指の腹から手首へ、手首から肘へと、血管を遡るようにゆっくりと広がった。石柱の表面には、肉眼ではほとんど見えないほど細かい螺旋状の溝が刻まれており、その溝の底で、光のさざなみが蜃気楼めいて揺れている。祖国の静止した魔灯石とは違い、この街灯は生き物のように脈動していた。規則的な拍——心拍よりやや速い周期で、光が内側から染み出しては薄れる。

脈動、と言葉にした瞬間、前世の記憶が勝手に比較図を描いた。パルス駆動ならば効率は上がるが、熱損失も増える。帝国の魔導師たちは、その損失を許容するだけの魔力埋蔵量を持っているのか、それとも、あえて熱を副産物として利用する文明設計なのか——街路の端で物乞いらしき老婆が石柱の根元に身を寄せて眠っていることに気づいて、私は仮説のひとつに線を引いた。熱を「灯」として使うだけでなく、「温もり」として市民に配る前提で街灯は設計されている。祖国では、貴族の屋敷以外に暖房らしい暖房は存在しなかった。

「あんた、何をしている」

振り向くと、黒い制服の下級官吏が胡乱な目でこちらを見ていた。私は咄嗟に頭巾を深く引き下ろし、商会の娘らしく肩をすくめた。

「火にあたってたんです、旦那様。祖国から来たもんで、こっちの街灯がこんなに暖かいなんて知らなくって」

官吏はふん、と鼻を鳴らして通り過ぎた。背中が遠ざかるのを確かめてから、私は石柱から指を離した。

暖かい、と口では言ったが、嘘ではなかった。この街灯は、熱を持っている。祖国の魔灯石は熱を持たない。魔力エネルギーが電磁波にほぼ完全変換される——前世風に言えば、発光効率百パーセントに近い特異な物性。だが帝国の石柱は、光と同時に熱を放射している。つまり変換効率が違う。違いすぎる。

研究者として、体の奥で何かがじわりと温度を上げた。恐怖ではない。処刑まで残された時間を数える代わりに、私の心はもう、この見知らぬ魔法体系の構造を剥がしに行きたがっている。

どうしようもない性分だった。

宿「金の梟亭」は、商人街の裏通りにある中流の宿だった。

受付の婆が渡してきた鍵は鉄製で、祖国の宿のような魔術錠ではない。部屋の扉を開けると、薪のくすんだ匂いと、蝋の焦げた残り香が鼻を突いた。窓は南に一つ。木枠に歪みがあり、閉め切っても隙間風が入る。悪い部屋ではない。むしろ、逃亡者にとっては——窓から地上までの距離が一階半分しかないという一点だけで、十分に及第だった。

旅装を解き、寝台に腰を下ろした瞬間、ようやく膝が震え始めた。

一日半、ほとんど眠っていない。国境を越えるまでは、震える暇さえなかった。今になって、体が遅れて怯えている。寝台の敷布は洗い立ての匂いがして、その清潔さが妙に優しく、涙腺を刺激した。私は掌を額に押し当てて、息を整えた。

——泣くな、リゼルヴァーナ。

自分を叱る声は、前世の森村凛の声と、この体の声が、奇妙に混ざっていた。

暗い廊下の奥から、誰かが隣室に入る気配がした。扉が軋み、革靴の踵が板を鳴らす。私の部屋とは薄い板壁一枚で隔てられただけの、隣の部屋。

隣室の男は荷物を床に下ろし、寝台に腰掛けた。金属同士が擦れる硬い音。剣か、それに準じる得物を持っている。商人ではない。私は息を殺して壁に耳を寄せた。頬に触れた板壁は、木目に沿ってざらついており、乾いた節の匂いが微かに鼻に届く。心臓の鼓動が耳の奥で太鼓のように鳴り、自分の脈が隣室に漏れて聞こえるのではないかと、本気でそう思った。寝台の軋みが収まったあと、男は何かを机に並べ始めた。小さな硬質な音が規則的に続く。貨幣か、あるいは何かの駒か。間隔は一定。一、二、三——数を数えているうちに、男の呼吸音さえ板壁越しに拾えるようになった。鼻から静かに吸って、口から長く吐く。訓練された呼吸だった。祖国の王宮で、父の背後に控えていた近衛兵たちと同じ呼吸法。

その時。

板壁に、指二本分の節穴があった。

覗くつもりはなかった。ただ、灯りの気配を確かめようとして視線を落としたら、そこから隣室の机の一角が見えた——それだけだった。

男は背を向けていた。外套の内側、肩甲骨の下あたりに、革の裏地へ縫い込まれた金属片が、蝋燭の灯りを受けて一瞬だけ光った。

六角形。中に三本の光条。

関所で見た、あの徽章だった。

だが関所の衛兵のそれとは、地金の色が違う。衛兵のものは銀だったが、隣室の男の徽章は——黒く燻銀に沈んでいた。祖国で言えば、表の官吏の徽章と、影の諜報官の徽章の関係に等しい。前世の記憶を探るまでもなく、あれは表に出さない種類の印だ。

男が何気なく外套の裾を直した。金属片は革の裏に消えた。

私は、節穴から目を離した。音を立てないように、背中を一寸ずつ壁から剥がす。木屑が一粒、袖口に落ちた。それを払い落とす動作さえ、今は大きすぎるように思えた。

寝台に戻り、敷布の端を掴む。指の関節が白くなるほど強く。敷布の冷たさが掌の熱を奪い、かえって頭の芯だけが冴えていった。

エルナという偽名は、今夜この瞬間から、本物の試練にかけられる。逃げてきた先に、祖国と同じ監視の網が別の形で張られていた。あるいは、偶然ではないのかもしれない——帝都に入った瞬間、街灯に指を触れて見とれていたあの私を、誰かが既に、どこかの節穴から覗いていたのかもしれない。

窓の外で、橙色の光が、夜霧の中に静かに沈んでいた。

処刑時計の針は止まらない。そして今夜から、別の時計の秒針が、隣室の板壁越しに刻み始めていた。

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